奈良岡実のここだけの話

【大会と棋力向上のヒント】  奈良岡 実

第一部
「前書き」(2016.05.18)  第1回「駒は玉に近い方向に動く」(2016.05.18)  
第2回「大駒の道」(2016.06.01)  第3回「見えるということ」(2016.06.15)  
第4回「弱い人から学び、強い人と接する」(2016.06.29)
  第5回「指導しない指導法と駒落ち」(2016.07.13)  
第6回「ルートは1つではない」(2016.07.29)
  第7回「1:2:7の割合」(2016.08.10)  
第8回「迷いをなくする」(2016.08.24)  第9回「小田桐さんと館山さんに訊く」(2016.09.07)

第二部
第10回「初手の問題」(2016.12.22) 第11回「泥棒が入った」(2017.01.06)
第12回「最良のアドバイス」(2017.01.18) 第13回「目標を持つこと」
第14回「サメのお刺身」 第15回「責任はどこに」 第16回「お酒のあれこれ」

青森将棋界10の物語

【はじめに】    【第1回】T田君のこと    【第2回】昔はマグロ大会があった  
  【第3回】先天性痴呆症    【第4回】怪談    【第5回】乗り物は難しい    
【第6回】タイマンの方法は    【第7回】同じ穴のむじな    【第8回】超能力はある    
【第9回】やるときはやる人    【第11回】あの人の名場面

第一部

「前書き」 (2016.05.18)  

 私は将棋界の中で、一番多く教室を開催している1人だと思う。指導に定評があるプロ棋士、全国のアマの指導者の方々とも交流させていただき、自分の指導に生かす努力を続けているつもりだ。いろいろ情報交換をする中で、多くの指導者と共通の部分と、自分が特殊だと感じる部分がある。特殊と思うのは、プリントを使わないこと。今まで一度も使ったことはない。プリントを作る能力がない、あるいは面倒くさいというのが一番の理由だが、小さい子や超初心者には、プリントより考え方を簡単な言葉で伝えた方が有効だとも思っている。今回からこのHPでそれを順に伝えていきたいと思う。「考え方を簡単な言葉で」ということなので、図面は使わない。また、青森県の人が身近に感じるように、県棋界で育った人を例にして述べる。県外の人は申し訳ない。書くことすべてが絶対に正しいとは言わない。「そのような考え方もあるのか」と、参考程度に思っていただいて構わない。でも私の教室の子はその考え方で育っているし、三段までの人には役立つ部分もあると思う。

第1回「駒は玉に近い方向に動く」 (2016.05.18) 

 大会に出ると、難しい局面でどのような方針で指せばいいのかわからなくなることもあるはずだ。そんな時は、身近な強豪を思い浮かべて(あの人ならどうするだろうか)と考えれば方針が立てやすい。あるいは、その強豪がどのようにして強くなったか分かれば、自分の勉強法として取り入れることもできる。今回は山中恵介君の巻

 かなり前のことだが、ある大会で小学生高学年と思われる子の将棋に目を引かれた。青森の大会だから、子供はたくさんいる。その中で、ちょっと特色のある将棋だったので、目が離せなくなったのだ。とにかく駒が玉の方角に向かって動く。攻めの駒は相手の玉方向に。守りの駒は自分の玉方向に。主催者の人に名簿を見せてもらって名前を確認した。それが
山中恵介君だった。とにかく青森の大会には子供がたくさんいるのだから、ちょっと強いくらいで確認していたらきりがない。私が興味を覚えるのは何年かに一人くらいだ。幼稚園のころの伊東恒紀君とかのレベル。ちなみに、伸びる将棋に目が行くのは私だけではない。行方尚史八段がある大会で「○○君、半年くらいでずいぶん強くなったね」。それが人違いで見たのは山岸亮平君の将棋。多くの子供の中で、○○君と勘違いとしても、亮平君の将棋が目に付いたのだ。話がちょっとそれたが、大会に現れてからの山中君の棋歴は県内の人ならご存じだろう。段位戦に出ると、受付をした段階で優勝者は確定。高校1年で「全国高校新人王」。2年で「県名人」。立命館大学に進んで「全国アマ王将戦」準優勝。その資格で出た「銀河戦」でプロに勝利。「駒は玉に近い方向に動く」は、覚えておけば役立つ心得だと思う。

第2回「大駒の道」 (2016.06.01)

 前回、山岸君の話を出した。ちょうどいいので今回は山岸亮平君の巻
 将棋に適性が高い子かそうでないかは、普通の人では見分けるのが難しいと思う。相当の確率で当たるのが「大駒の道が通っているかどうか」。今まで見てきた中で、自分の大駒の利き筋を自分の駒で遮って何も感じない子は成長が遅い。山岸君は小学2年のころ、私の教室に来た。最初は当然のごとく超初心者だった。ところが1週間後に来たときは、もう初心者組の子は相手にならなかった。その将棋は、小さいころからとにかく大駒の道が通っていた。驚異的な成長速度を見て私にも学ぶところがあった。「なるほど、他の子も大駒の道が通るように指導すればいいのか」と。小学5年で「全国小学生名人」。小学6年、中学1年で「県名人戦」2連覇。ほかに「全国中学生選抜選手権」準優勝。現在、奨励会二段。

 これは裏返しのことも考えられる。奨励会三段まで進んだ
小泉祐君の将棋は、いつも相手の大駒の道を止めていた。相手の大駒の道を止めるのだから、だいたい手番は相手側になっている。手番を欲しがらない。相手に手を渡して平然としている。そして自分に手番が来たときは、直接手でなく底力のある有効打で敵を倒す。どんな盾でも突き通す矛と、どんな矛でも防ぐ盾の話ではないが、小泉君と山岸君が指せばどんな将棋になるのかと思う。そして実戦の1局1局で「自分の大駒の道を通す」のと「相手の大駒の道を歩で止められるときは止める」の二つを心がければ、棋力向上に役立つのではないだろうか。

第3回「見えるということ」 (2016.06.15)

 近年、指導の一番参考になったのは、青森にも来たことがある渡辺弥生女流初段が将棋世界に書いた「男性棋士には駒の利き筋が見えているのではないか」という文章。「そうか、やっぱり見えない人がいるんだ」ということが確認できた

 
「見える」ことについては、生まれつき見える人と見えない人がいる。この「見える」というのは将棋界的な表現で、視覚と同じくらい脳がはっきり認識すると思っていただきたい。「見える」子は着手が早い。考える前に「見えている」から当たり前だ。私の今までの経験では100%、早指しの子となかなか手を指せない子では前者が強くなっている。子供に「きちんと考えなさい」というのは間違いではないかもしれないが、私が門下生にそれを言うことはない。読む指導の前に「見える」ようになるための指導が必要だと思っている。

 さて、見えるにも種類がある。前述した
@「駒の利き筋が見える」ほかにA「手が見える」B「詰みが見える」など。意外に気が付かないのがC「持ち駒が見えている」かどうか。将棋を指すとき誰でも盤上は見ているはずだが、初心のうちは持ち駒を自分の戦力として認識していない場合が多い。私の教室では「攻めるときは駒を動かすより盤の上に駒を打つ。守るときも盤の上に打つ」ことを強調する。Bは短手数の詰将棋を多く解く。大まかに一日50手を目安にしている。3手詰なら17問、5手詰なら10問。一日10分かからないトレーニングだが、一年続けた人とやらない人では差がつくだろう。終盤の強い人は、詰みを読まなくても「見えている」。また、詰将棋を一冊やったら逆向きにして、玉側の立場でもやってみたい。終盤、相手が渾身の力で詰ましに来るときの対応に役立つはずだ。

 
Aは棋譜並べ。これもやり方がある。普通に一人で並べて、盤面が頭に入る人もいる。私は活字しか目に入らず、盤面が頭に入らない。複数の人数でやることがお勧めだ。さらに1局並べたら先後を代えてやる。立場が変わることで見え方も違うはずだ。また、同じ戦型に絞るとか、同じ人の棋譜を通して並べるなどの工夫もある。「全国中学生選抜選手権」優勝者の木村孝太郎君は、羽生善治四冠の棋譜は全部並べている。詰将棋は日課になっているので、やらない日はないはずだ。

 「考える指導は必要ないのか」という疑問を持つ方もいると思う。まず、幼稚園児や小学低学年に「しっかり考えなさい」と言っても、思考の前提がまだ備わっていない。同じ練習量なら、長考させるより実際に駒を盤上で動かす方が、いろんなことが身についていくはずだ。
最初見えていなくても、番数をこなすことで@の能力が備わってくる。そして思考力がついてくる10代半ばから、みんなしっかり考えるようになる。これも今まで例外はない。残念ながら、考えて、迷って、駒を動かさない子には私の指導は及ばない。棋力向上については、長い目で見るしかないと思っている。うまい方法はあるだろうか。

第4回「弱い人から学び、強い人と接する」 (2016.06.29)

 私が子供たちの指導を始めたのは20年と少し前。「全国と戦う子を育てる」という理想はあったが、現実的な方法は分からず、模索の時期も長かった。青森将棋センターが栄町にあったころ、何気におじいさんたちの将棋を見ていた。何十年指しても棋力は向上しないが、駒を動かすことが楽しくて将棋をやっているレベル。それを見ているうちに、ひらめくものがあった。「弱い人の反対をやれば強くなるのではないか」と。その人たちの盤上の目標は王手をかけること。目に付く王手はすべてかけ、必ず相手玉を逃がす。そこから導き出された私の指導は「詰まない王手はかけない」「終盤の攻撃目標は金」。みなさんの周りにも、どうしようもなく筋が悪く、いつまでも強くならない人がいると思う。そんな人は貴重だ。私が発見したほかにも、その人の反対をやることで新たな発見があるはずだ。ただし、「HPで見たのであなたの将棋を参考にさせてください」と言ってはいけない。その人もHPを見ていた場合、人間関係を損なう恐れがある。あくまでこっそりと見せていただくことが大切だ。

 その裏返しも考えられる。
強い人と接すると強さが移ってくるような気がする。科学的根拠がないので身近で起こった事象を述べるが、以前、木村一基八段にもらった直筆の扇子を使った時は、3大会で2回優勝した。明らかに実力以上の出来事だろう。それではいつもその扇子を使えば優勝回数が増えていたとも考えられるが、私のことだから失くしてしまった。一基先生、すんまへん。
 
山岸亮平君が全国小学生名人戦で優勝したとき青森高校が全国高校選手権で団体優勝したとき木村孝太郎君が全国中学生選抜選手権で優勝したときは、いずれも直前で指導の達人、勝又清和六段の指導を受けている。将棋のことではないが、佐藤康光九段から来た年賀状。当たりそうな気がするのは私だけだろうか。実際、当たったから書いている。私の立場としては、プロ棋士が青森に来る機会をなるべく多く作り、みなさんと接する場を増やしていきたい

第5回「指導しない指導法と駒落ち」 (2016.07.13)

 インターネットであちこち見ていたら、棋力向上の方法として「自分より少し強い相手と指し、『勝たせてもらう』」ことが書いてあった。どこのお部屋かは忘れたが、指導の達人の記述だと思った。「敗戦から学ぶ」ことで強くなるのはかなり上のレベルになってから。初心のうちは「成功体験を積み重ねる」ことが必要だ。

 私の教室では、駒落ちはやらない。10枚落ちとか8枚落ちは、将棋として不自然な感じがする。幼稚園児とか駒の動かし方を覚えたばかりの人でも私は平手で指し、こちらが負ける。負ける手順は全部一緒。「相がかり」「角換わり」「横歩取り」「矢倉」「居飛車対振り飛車」で
何通りかの負けパターンを持っているそのパターンが増えていくことが、自分の指導技術の向上だと思っている。小さい子は成功体験を積み重ねて勝ちパターンをいくつか覚え、大会に出て少しずつ強い相手と当たっていくことで棋力が向上していく。
 
 自分が必ず正しいとは思わないが、まずい指導例を見かけることもある。ある大会で、指導的立場の人が子供たちの将棋を見て「どうしてここで馬を取らないんだ」と駒を動かすと、相手の子は即座に詰ました。馬を取らなかった子も、詰みがあるから馬に手が行かずに詰みを受けていたわけだ。そんな指導者の意見を普段から聞いている生徒たちは、成長できるだろうか。ちなみにその人は、小学低学年の女の子との平手の指導対局で「筋違い角」を指していた。

 別の人の例では三手詰を超初心者に出して、そこまではいいのだが、正解すると似ている形で別の手順の問題を出して、前回と同じ回答をすると「残念でした」。私には間違わせようとして出した問題にしか見えなかった。「形が少し違えば正解が違う」ことを教えようとしたのだとも考えられるが、その子は次からその人の言うことを「またひっかけではないか」と思わないだろうか。私は詰将棋も、間違えそうなものは出さない。成功体験を積み重ねることで、3手詰から5手詰、7手詰と上がっていくことは可能だ。

 
木村孝太郎君が幼稚園のころ来て、少し相手をして理解力を確かめたとき、「この子を同年代の全国上位に導けなかったら自分の責任だ」と感じた。一番まずいのは、最終的に私レベルの選手で終わってしまうこと。それで考え出したのは「指導しない指導法」。たぶん、四段くらいまでは私の考え方で大丈夫だ。しかしそこに行くまであまり影響を与えすぎてはいけない。二段くらいのころから、対局や感想戦より棋譜並べの時間を増やしていった
 私の門下以外でも、
中川慧梧君阿部光瑠君は、駒落ちをたくさんやったと思えるだろうか。どなたかの先生の影響を受けて、その考え方で将棋を作って行ったのだろうか。想像だが、プロの将棋や棋書を参考にして、自分で自分の考え方を発展させたのではないだろうか。結論として@「駒落ちにも効能はあるだろうが、同じ練習時間なら平手での成功体験がいいのではないかA「ヘタな指導は相手にマイナス。本人の成長力を応援する方法を考えるの2つを提案したい。

第6回「ルートは1つではない」 (2016.07.29)

 私と近い年代の人は「居飛車でないと強くなれない」という説を聞いたことがあると思う。「強い」の程度にもよるが、経験を積んだ今は迷信だと思っている。将棋が強くなる過程は、登山に似ている。頂上までのルートはいくつもある。そして速さを競うものではない。最終的に本人の望む頂上にたどり着けばいいことだ

 私の教室で「相掛かり」「角換わり」と順番に進めていくことは書いた。それは将棋の考え方を説明するのに都合がいいからだ。まず棒銀の成功例を示し、それではその棒銀を受けるにはどうするか。棒銀が受け止められるならそれ以上の攻撃法は・・・と進んで行く。
 
 中学3年で「県王将」、高校3年間で「県竜王戦」を3連覇した
大澤啓二君は小学2年のころ、おいらせ町から転入してきた。さすが将棋の町だけあって、最初から四間飛車の形ができていた。こんな場合、絶対に前の指導者と作り上げた形を否定してはいけない。小さい子の場合、混乱してしまうからだ。四間飛車中心でもやり方はある。ただし、まったく一つの戦法だけだと考え方が発展しない。それとなくもう一つ技を身に着けるよう仕向けてみたが、本人はなじみの戦法から離れたくなかったみたいだ。小学中学年の頃は伸び悩んだ。
 そんなとき、転機があった。
佐々木潤一・五段の「きり研」が始まったのだ。その研究会は局面指定などがあって、自然にいろいろな戦法を指すようになる。大澤君にぴったり合ったのだろう。本来持っていた成長力を見せ始めた。
  
「全国高校竜王戦」3位、今季「有段者選手権」優勝の
成田豊文君は、故長尾寿郎五段の道場で基礎を身に着けた。のちに同年代の好敵手を求めて移籍してきたのだが、最初は振り飛車穴熊中心に指していた。そこから「角道オープン振り飛車」などや居飛車系にも芸域を拡げている。
 
 青森東高女子の場合を考えてみよう。4人の中で、2人は私のところで基礎を作った。
川井彩楓さんは、奨励会試験を受けてもいいかも、と思える成長速度だったので、男の子と同じ居飛車スタイルにした。その後、本人の興味は運動競技に移ったようだが、それは本人が決めることなのでかまわない。大澤桃子さんは「三間飛車」にした。「お兄さんが四間飛車なのでその隣」という単純な理由。ほかの2人は高校から始めた。そして短期間で、全国の高校女子団体戦を戦わなければいけなくなった。この場合、「相がかり」「角換わり」「横歩取り」「矢倉」と悠長に進めていくことはできない。最初に形を見て、武藤由依さん「角道オープンの中飛車」蝦名美織さん「右四間飛車」に焦点を絞った将棋に使える時間の少ない社会人には、こちらのパターンがお勧めになる。結論として、「強くなる道は何通りもある」。その中で「居飛車中心でいろんな基礎を積み上げていく」「振り飛車から入ってしだいに芸域を拡げる」「得意技を持つ」など、どの方法でも構わない。けれども「できれば複数の戦法を持って考え方を発展させる」ことも心にとめていただきたい。

第7回「1:2:7の割合」 (2016.08.10)

 前回は、戦法選択のことを書いた。けれどもそれは「終盤で自分の実力を発揮する」ための方策に過ぎない実際に棋力向上のための練習の比重は序盤1、中盤2、終盤7くらいに考えている。私の一門の中で、船橋隆一君成田豊文君は真面目なので、少しは本を読んでいると思う。工藤俊介君櫻井飛嘉君佐々木白馬君は、ほとんど読んでいないはずだ。それでどうして戦えるのか。

 まず、「序盤で作戦勝ちしよう」と思ったら、当然それなりの勉強が必要だ。ただし、終盤力の背景のない作戦勝ちにどれくらいの意味があるだろうか。作戦勝ちを生かすのにはやっぱり終盤力が必要だ。そこで「多少の作戦負けなら構わない」と発想を変えたらどうだろうか。序盤が下手でも作戦負け程度に収めるのは可能だ。そして作戦負けが多くなるとどうなるか。中盤はもう定跡的なことから外れているので、自分の頭で苦労して考えなければいけなくなる。作戦勝ちして楽な中盤を戦うより、苦労することで思考力を養うことができるのだ。さらに終盤は、毎回粘り強く戦うことが必要になる。
 
 作戦負けの序盤で中盤の思考力を養い、終盤の粘りを身に着けると、あとは寄せの問題。それは第4回で書いた「詰まない王手はかけない」ことで磨くことができる。この約束事を守ると、1局1局が実戦詰将棋になる。とにかく王手をかけるときは、詰みを読み切っていなくてはいけないのだ。逆に確信のない王手をかける人は読みが曖昧なままで、精度が上がらないのではないだろうか。白馬君は年間、80〜90回くらい大会・研究会に出ている。棋書を読まなくても、真剣勝負の場で1局1局実戦詰将棋をやっているということだ。効果を考えていただきたい。
 
 自分なりの終盤力が培われたとする。その上で序盤の力が必要だと思ったら本を読むのはいつでもできる。木村孝太郎君が目標とするするレベルだと、序盤の作戦負けは取り戻せない。ちょうど高校生になり、本が読める年代だ。私は小さいうちは実戦や詰将棋で終盤力を磨き、序盤の勉強はそれなりの年代になってからでいいと思う。

第8回「迷いをなくする」 (2016.08.24)

 まずみなさんに考えていただきたい。将棋だけでなくほかの何かの競技でも、「迷いがない人」と「迷ってばかりいる人」はどちらが強いか。表現を変えると「強い人に迷いが多い」か「弱い人に迷いが多い」か。答えは一つだと思う。さらに言うと「迷いがあると自分の実力通りの手が指せない」はずだ

 今から、この世界で非常に書きにくいことを書く。将棋界には「最善手を求めて全力で考えることが尊い」という常識がある。しかし少なくとも私の能力では、初手から終局まで最善手を続けるのは不可能だ。それが可能なら「電王戦」に出て、コンピューターを倒す。アマチュアの県大会はおおまかに1局1時間見当で進行する。持ち時間は20分―30秒程度ではないだろうか。その条件で「最善手」を最後まで続けられる人はいるだろうか

 私の考え方は「80点なら自分としては上等」。そして将棋には、「しっかり考えて100点の手を指して、時間がなくなって迷って60点の手を指すと、平均の80点ではなく60点の将棋になってしまう」という性質がある。80点の手を続けることができれば、80点の将棋になる。
 
 それでは、具体的にどのような考え方をすればまあまあの80点になるか。大まかに、将棋の形ができてくる5級くらいから初段までは「取れる駒は取る」「自分の駒は取られないようにする」「2つ取れる場合は高い方を取る」この3点と詰将棋くらいで大丈夫だ。以前書いた強くならない人たちの将棋は、ここができていないことが多い。見ていると「駒得できるのにどうして取らないんだ」「大駒は大事だから逃げればいいのに、どうして逃げないんだ」と思うことが多い。そして秒読みで2つ当たってる駒の取り方に迷って「あわわ」となり、意味のない手を指したりしている。相当間違いなく、「駒が取れるときは取る」べきだ
 初段前後からの技術としては、先に書いた「攻めの駒は相手玉方向に、守りの駒は自玉方向に動く」「相手の大駒の道を止められるときは止める」「自分の大駒の道は通す」。この3点を心がけて身に着けることができれば三段くらいまでは難しくないような気がする。「最善手」を求めて迷うよりは、「大まかな方向性で80点を目指す」くらいの緩やかな気持ちの方が、精神衛生にもいいと思う。ただし、すべては「詰みが正確」という大前提に基づいてのことだが

第9回「小田桐さんと館山さんに訊く」 (2016.09.07)

 4月から囲碁の教室を始めた。理由は、囲碁が好きなこと。それだけで充分だろう。将棋界の手法で、囲碁が打てる子供を増やそうと思った。普通の人は物事を始めるときに、いろんな考慮をしたり準備をするはずだ。私は「楽しそうだな」と思っただけで始めてしまう。当然のことながら、将棋界が囲碁の強い子を作ることはできない。ルールを教えて、対局できるようになるまでの指導だ。その中で強くなりたい子が出てきたら、囲碁の先生を紹介しようと思っている。そして実際に指導するのは私ではない。いくらルールを教えるだけと言っても、へたくそが指導すれば間違った覚えた方をさせてしまう恐れがある。担当は碁会所6段の館山さんにお願いしている。ちょうど教室を始めるときのタイミングで、囲碁まつりの話がでてきた。9月22日(木・祝)に弘前市で大々的に開かれる。将棋まつりの参考にもなることだし、「公開対局と大盤解説」「70面打ち大会」「懇親会」のフルコースを申し込んだ。

 と、ここまでが前ふりだ。「70面打ち」はプロ棋士が手分けして同時に70人を相手にする。なので私も盤の前に座ることになる。棋力は、弱くて筋の悪い1級くらいだと思う。そんなイモがプロの先生に直接相手をしてもらうのは失礼だ。修行を始めることにした。将棋のHPで上達法を書いている人が、自分で囲碁を上達する必要が生じたのである。ただし実際には時間がなく、相手もいない。パソコンに向かって、歯磨きする時間を利用して、囲碁のフリーソフトと戦っている。

 このフリーソフトが強い。時間がないので9路盤で、レベル1から高段まであるのだが、レベル1にも勝てない。そこで小田桐さんの登場となる。将棋では「支部対抗戦」東日本大会で数々の実績を残し、囲碁でも県大会優勝で囲碁欄に載るマルチプレイヤーだ。私が苦戦するソフトはよほど強いのだろうと、棋力判定をお願いした。そして実際やってみると、9路盤という狭い範囲ながら予想もできないところに打ち、ソフト陣をずたずたに切り裂いていく。数十目の大差になり、「弱すぎて棋力判定の対象にならないですね」「すんまへんでした」

 で、小田桐さんはときどき囲碁教室を手伝いに来てくれるのだが、あるとき、孝太郎母にアドバイスをしているのが一言だけ耳に入ってきた。「えー、そう考えるんだ。今まで知らなかった」。そのようにやってみると、レベル1には簡単に勝てるようになった。たった一言である。

 次はレベル2。相手は強化されてやっぱり勝てない。そこで今度は館山さんにやってもらった。やはりまったく予想もつかないところに打って、ソフトをコテンパンにしてしまう。そこで考え方を教えてもらうと「なんと、そう考えるんだ」

 結論として、自分の考えだけでは限界がある。強い人はこちらがまったく思わなかったようなことをたくさん知っている。ただし、小田桐さんは体が1つしかなく、いつも近くにいるとは限らない。そこで催しや大会の時、会場で強い人に質問してみたらいかがだろうか。私の場合だと自分の考えを押し付けたくはないのでこちらからは声をかけない。でも訊いていただけば、なるべく応じるようにしている。問題は訊く方の姿勢。館山さんの一言でレベル2に連戦連勝になったのだが、そのあと県連50周年記念誌の仕上げで時間がなくなり、しばらく休んだらまた勝てなくなってしまった。継続が大切ということだ。館山さん、すんまへん。

第一部<完>

第二部

第10回「初手の問題」 (2016.12.22)

 ようやく県連50周年の記念誌を出すことができた。最後の追い込みの時期、将棋まつりの準備と重なって時間が取れなくなったので、しばらく管理人さんに連載のお休みをいただいた。ようやく再開だが、これからは棋力向上法にこだわらず、よもやま話を書いていきたい。でも書き残したことが1つある。今回は初心者を指導する人に向けて。

 電話やいろんな場所で、指導についての相談を受けることは多い。でも多くはすでに将棋ができる人をどうしたら強くしてあげられるかという内容。本当に大切で難しいのは、まだルールを知らない人にどうやって教えるかだ。当たり前の話だが、ルールを覚えてしばらくは、上手が玉1枚でも勝てない。およそ30級と推定される状態からどうやって20級、10級、初段近くまで導くか。
 
 前に書いたが、私は駒落ちの方法はとらない。平手でいくつかの負けパターンを持っている。成功体験の積み重ねで棋力を引き上げると書いた。そのパターンは、どうやって作り上げるか。というか、指導に携わっている方は、初手をどう教えているか。

 自分が振り飛車党の人は、対象の生徒さんに振り飛車を教えたくなるだろう。それは有力な1つの方法だ。問題は居飛車の場合。初手を▲76歩と教えると、理屈からして後手は△34歩になる。それで居飛車なら▲26歩△84歩となるのが自然だ。そこから子ども同士で指させると、間違いなく「横歩取り」になる。そしてもちろん横歩取りの考え方は上達に必要だが、横歩取りばかり指していたのでは「相がかり」「角換わり」「矢倉」の経験値に乏しくなる。さらに大会に出た場合を考えてみよう。全国大会でも地方大会でも、持ち時間の少ないアマの大会で横歩取りに応じる人は少なく、武器にしづらい。

 私はまず、お互いが攻撃する形として▲26歩△84歩の「相がかり」から入る。次に後手番が角の頭を守る方法として▲26歩に対する△34歩を教え、▲25歩△33角と進む。そこから先手の飛車先の歩は進めなくなるので、「二番目に強い駒を使う」▲76歩となる。指導のときこちらは後手を持つので、「取り換えっこしない」△44歩と「角道を止めないで戦う」△22銀があることを教える。後者は「角換わり」前者は「振り飛車」になり、角換わりの棒銀、早繰り銀、腰掛銀と、対振り飛車を平行して進めていく。個人差はあるが、おおまかに半年くらいで形はできるので、「横歩取り」や「矢倉」に入っていく。この方法のメリットは、形が決まっていること。飛先を二つ突くオープニングにすることで、しばらく角交換型の振り飛車や筋違い角の対応に入らなくていい。▲76歩のオープニングだと、ほとんどすべての戦法に対応する必要がある。

 振り飛車の指導から入る場合は、角道を止めない形を勧める。「石田流」「▲65歩ポン四間飛車」「5筋位取り中飛車」「ゴキゲン中飛車」から選ぶ。角道を止める振り飛車は受動的で、狙いが分かりにくい(超初心者には)。角道を止めない振り飛車には、明確な攻めの道筋がある。それでも一つの指し方だけだと考え方が発展しないので、角道を止める振り飛車にもしだいに入っていく。

 まったく違うやり方もある。指導者の時間が少なく、棒銀とか早繰り銀とか、腰掛銀とか細かく分類して教えられない場合。あとは指導を受ける時間が少ない社会人で居飛車で将棋を作りたい場合は▲76歩△34歩▲66歩のオープニングにする。それで相手が振り飛車で来たら「居飛車穴熊」、相居飛車なら「矢倉」にする。この2つの戦法は性質が似ているので、だいたいは自分のペースで戦える。角交換型の振り飛車に対応する必要もないはずだ。後手番なら▲76歩△34歩とし、次は何でも△44歩。形を固定した方が分かりやすい。要は指導者がオープニングを整理、分類して初心者になじませるということだ。

第11回「泥棒が入った」 (2017.1.6)

 年も明けたので少し上達法から離れて、四方山話でも書いていこうと思う。
 25年ほど前に将棋道場を始めた。『青森将棋センター』という名称だった。「将棋をやる子供たちを育成したい」というのが動機だったが、「一日中将棋を指していられる」という理由もあった。外から見て、将棋道場内の生活はどのように想像できるだろうか。「毎日同じことの繰り返し」と思う人も多いのではないだろうか。ところがどうして「よくまあ、これほど」と思うくらいいろんな出来事がある。今回は泥棒が入った話を。
 センターを始めて何年も経たない初夏のころだろうか。唐突に蟹田の警察署から電話があった。そして「そちらさんで泥棒の被害に遭われませんでしたか」と言う。「いえ、特にありませんけど」と答えると「そちらはアパートの2階で2部屋。入って右側の部屋にはピンク電話があって、奥が台所になっている。左側の部屋には和机があってお金や書類をいれてませんか」「来たことないのによくわかりますね」というと「こちらで捕まえた泥棒がそちらに入ってお金を取ったと供述しているんですよ」「えーっっ?!」
 それで「いったいいくら取ったというんですか」と先方に訊いてみた。いま考えても間抜けな質問である。「○○千円と本人は言うんですよ」「へー、よくそんなにありましたねえ」というやはり間抜けな応答のあと警察は「被害届を出してくれませんか」。これには「まあたぶん若い人なんでしょ。今後やらないようにきつく言って帰してあげてください」と答えた。私は決してフランスの小説に出てくる牧師さんのような人格者ではないが、自分にお金がなくなった自覚がないし、犯人の人もたぶん将棋をやりにセンターに入ったはずで、私がいなかったための出来心を起こしたのなら、いなかった人にも責任があると思ったから。それを言うと警察の人は「それが常習者であちこちの事務所でやってるみたいで、被害届を出して反省を促した方が本人のためになると思うんですよ」「そうですか。それなら協力しましょう」と、被害届を書いた。数か月後、忘れたころにご家族と思われる人が菓子折りと封筒に入った現金、示談書を持ってきたが、無くなったと気づきさえしなかったお金を手渡されるのは妙な気分だった。
 それから数年して、2度目の被害に遭った。その頃は子供たちも増え、分煙の意味で同じアパートの1階も借りていた。いつでも子供が出入りできるように、鍵はかけていない。ある日、家の人が旅行に出かけていなくなると言うので、自分の晩御飯をスーパーで買って1階の冷蔵庫に入れておいた。道場が終わってそれを持って帰ろうとしたが、冷蔵庫にない。それどころか、缶ジュース類もほとんどなくなっていた。「マジかー」。被害総額は何千円にもならず、その日の晩御飯のおかずが少なくなったくらいだが、メインの鰻がなくなったのは今でも心残りに思う。

第12回「最良のアドバイス」 (2017.1.18)

 将棋センターを始めて間もないころ、緊張感をもって対応しなくてはいけなそうなお客さんが入ってきた。合法と非合法の中間の仕事をする組合に属していると思われるお方である。前はそのような人たちと接点のある仕事をしていたのでひと目で分かるし対応も慣れているが、いまやってるのは将棋道場なので、お引き取り願おうかと思った。ところが次の一言を聞いて、不覚にも心が動いてしまった。
「1局2万円でやってるんだ」
と言うのである。それでよく聞いてみると、同業の方と「1局2万円の賭け将棋をして時々は勝つんだが大きく負け越して、これまで50万円ほど取られている。将棋が強くなって取り返したい。先生、手伝ってくれねえか」と。
 こちらも新しい仕事を始めたばかりで、収入がどうなるかも分からない。あわよくばたくさん勝たせて分け前を・・・ではなく、運営費の足しにならないかと思って、「じゃ、少し将棋をみてみますか」。
 で、相手をしてみて、いろいろ手直しとかしてみたが、どうにもこうにもならない。私は賢明な判断をした。「あなたは将棋には向かない。強くなるのは無理だろう。相手の人に時々は勝つというのは騙されてるんだ。今まで取られた分は諦めて、これ以上損害を大きくしない方がいい」。すると相手は「やっぱりそうか・・・。俺もそうじゃないかと思ってたんだ」。たぶん、これが私の指導者としての今まで一番いいアドバイスだったと思う。

第13回「目標を持つこと」 (2017.2.1)

 弘前での事業のとき、多くの父母の方々から質問を受けた。「将棋が強くなるにはどうすればいいか」と。それに答える前に、一番大切な大前提がある。それは「自分の目標を持つこと」
 単純に数式で表してみよう。生まれ持った能力(A)×努力の質と量(B)=将棋の強さ(C)としか考えようがない。Cを求めるとき、Aの数値が大きければBは小さくてもいい。Aが小さいならBを大きくしなければならない。Cを大きくしたいならAかBのどちらか、あるいは両方を大きくすればいい。
 Aの値はどうやって見分けるか。私の経験だと、棋力に反比例する。弱い人ほど自分のAの値を大きく感じ、強い人は小さく感じている。Aが小さいと思っているからBを大きくし、結果としてCが大きくなるのだ。自分でAが大きいと思っている人は、Bの努力はあまりしないだろう。ちょっと抽象的で分かりにくいなら、県代表経験者に聞いてみればいい。ほとんどが「自分に才能がないのは残念だ。才能があったらプロを目指していたかもしれない。今は他県の代表と戦って全国上位を目指したいのに、家庭や仕事で勉強時間が取れない。残念でたまらない」という答えが多いのではないか。逆に、弱いのに自分より格上の将棋に対して「あそこはこう指すべきだった」と批評する人も多い。これは自分のAを過剰に大きく思っているからだろう。
 実を言うと、プロになれる人や前回書いた特殊な人を除いて、人の能力はそんなに変わらない。たぶん、10人いたら1人か2人が適性の高い人。1人か2人は長い目で見なければならない人。7人前後は子供のときに始めて頑張れば、県代表くらいにはなれると思う。自分のことを考えると、私の教室に入門してくる10人の中でどれくらいの位置かと言うと、6番目か7番目くらいだと思う。なので、門下生の半数以上は、私と同等の努力をすれば私より強くなるはずだ。問題は目標をどこに置くか。
 Cの目標は、自分で決めるべきだ。人に決められたのでは義務になってしまい、Bの気力が無くなる。そして実現不可能なレベルではいけないが、大きめの方がいい。将棋界には「名人を夢見る者は八段で終わる。八段を望む者は四段で止まる。四段が目標のようではプロにはなれない」という意味合いの言い回しがある。たぶん人間は、よほどの克己心を持って努力してもどこかに甘さが出て、目標の8割くらいしか達成できないのではないだろうか。10割達成できる人が一流なのだろう。
 結論として
  1 自分で大きめの最終目標を決める
  2 中間目標はあってもいい
  3 以上が決まったら最終目標から逆算して自分の努力の量を決める

となる。それは将棋だけでなく、スポーツ、勉強、資格試験など、多くのことに当てはまるのではないか。

第14回「サメのお刺身」 (2017.2.15)

 昨年の秋ごろ、グルメ漫画原作者の食味本を読んだ。中にサメを食べる地方のことが書いてあり、その登場人物によると「サメを食べる習慣があるのは日本中でこの地方だけです」とあった。しかし青森では、サメは珍しい食べ物ではない。日常的にはみそ焼きで食べるし、お正月は頭を食べる。この「頭を食べる」というのは、県外の人には説明が必要だが、今回はそこまで書く余裕はない。ともあれ、青森でこれだけ普通に食べるのだから、日本全国のほかの地域でも食べてるところはあると思う。
 私はサメはお刺身でいただく。釣りを趣味にしている知り合いがいて、サメが釣れると気持ち悪いから捨ててしまうと聞いた「えーっ、あんな美味しい人を。俺、好きだから持ってきてくれよ」。で、前に書いたように、友人の板前に包丁を習っているので自分でお造りにする。頭を取るときは少し気持ち悪い。ほかのお魚より顔が恐いからだ。そこを乗り越えたらエラと内臓を取って、三枚におろす。そこからが問題だ。皮をはぐとき、ほかのお魚は皮を一部めくって身の間に包丁を入れ、そのままそいでいく。サメは一部めくるところまでは同じだが、そこから手で皮をつまんで剥いでいく。このとき、失敗すると皮に身がついてしまい、食べるところが少なくなる。皮を剥いだら柵に分け、自分の好みの大きさに切って盛り付ける。味はとろりとして、マグロのトロのような感じだ。
 「どんこ」も釣り人に人気がないそうだ。タラの子分のような魚で、皮が黒と茶色の中間で深海魚みたいに見えるから敬遠されるのだろう。「えーっ、あんな美味しい・・以下略」ということで、それも持ってきてもらう。どんこは通常、ぶつ切りにして、ネギをいれて、みそ汁仕立てにする食べ方が知られている。私はお刺身でいただく。ただし、身は水っぽくてべちゃべちゃしている。そこでこぶ締めにする。適当な大きさの柵に切って、昆布でくるむ。2日くらい置くと昆布が水分を吸って身が固くなり、昆布のうまみが淡麗な身に移って絶妙な美味しさとなる。私は1週間くらい置いたのが好きだが、板前の先生は「あんまり昆布くさくなるから」と否定的だ。ほかに青森ではソイ、メヌケ、テンカラ、イシナギ、ホッケなどが釣れるので全部お刺身でいただく。中でも好きなのはサバのお刺身だ。しめ鯖の酢の味を抜いた状態を想像していただきたいが、腹身の脂のとろりとしたところは絶品だ。
 一度「雷魚」を持ってきた人がいた。お刺身もなかなか良かったが、医師で県連副会長の村上誠一先生に知られて怒られた。寄生虫の危険性が高いそうだ。「そんなの慣れてるからちゃんと除去できるよ」というのがこちらの言い分なのだが。
 寄生虫といえば、いくら私でもスケソウダラは生で食べない。腹を裂くと寄生虫がうじゃうじゃ詰まっているからだ。一般に「寄生虫がいる魚は熱を通すこと」となっている。ここを考えてみよう。加熱したからと言って、寄生虫は消えて無くなってしまうものではない。死んで食材の一部として調理されてるのだ。結果として、食べる人のお腹に入ることになる。今の食品衛生法がどうなっているかは知らないが、タラの乾物を食べると、お腹のあたりに白い小さな突起物がよく見える。それは寄生虫の乾いた姿にほかならない。
 話を雷魚に戻すと、お刺身の味を確かめたあと、板前の先生と食べ方を研究した。前に掲示板で書いたように、みそ焼き、塩焼き、醤油をベースとしたタレ焼き、ソテーなどを確かめていく。個人的にはバター焼きが良かった。なんでみなさん、あんなに美味しいものを食べないんだろう。

第15回「責任はどこに」 (2017.3.1)

 世の中には、信用していい人間と、信用してはいけない人間がいる。私にとって、一番信用してはいけないのは自分だ。この人の忘れ物、失くし物のせいで、小さいころから数限りない被害に遭ってきた。お酒を飲んだときはその度合いが一段と大きくなる。金銭的な実害を繰り返して、学習した。とことん飲むときは財布は持たない。2万円なら2万円、3万円なら3万円と予算を決めて、そのままポケットに入れて出かける。翌朝残っていたらラッキー。全部なくなっても被害はその範囲内に収まる。
 多くの実害を経験することには、メリットもある。並大抵の忘れ物、失くしものでは痛痒を感じなくなる。以前、東北六県連合会の会費、1県1万円を青森以外5県分預かって失くした。道場で荷物を開け、「あれー、確かに5万円預かったんだけど無くなったー」。自分に長所があるとしたらそこから。私はお金持ちではないが、手持ちの現金が数万円なくなるとか、通帳の数字が減るとかで今日、明日の生活に困るわけではない。まったく精神的動揺もなく、日常の業務に戻る。ここが肝心で、科学的根拠はないが、人間の運と言うのはおおむね平等に訪れる。悪いことがあれば次はいいことが来る。平常心であれば、チャンスが来ればつかみ取ることができる。少々の不運を引きずってくよくよすると、次にやって来た幸運を逃すことが多い。「自分は運が悪い」と嘆いている人は、私には後者に感じられる。それで県内外でなにか催しをやると「奈良岡さん、〇〇はどうしました」「うん、忘れた」という、まったく責任感の無いような応答が必ずあるが、忘れた時点で嘆いても一つも物事は進まないし、その時点で最善の対処をすることが重要だと思っているので、そうなる。
 そんな私でも、青ざめたことが2回あった。1回は「青森県将棋まつり」前夜祭の会費を預かったとき。100万円近くを鞄に入れて、二次会、三次会のあと将棋センターに戻り、お金を置いて自宅に帰った。次の日、早めにセンターに入ったけどそのお金が見当たらない。どこを探してもない。さすがにこれは参った。全身の至る所から汗が出てくる。前の晩の行動を全部思い出し、酔っぱらった自分の行動を推理して、かなり時間をかけて探したら思いがけないところから見つかった。さすがにそこは恥ずかしくて書けない。
 2回目は青森では知らない人がいないくらい偉い人の免状授与祝賀会のとき。県連への寄付金を預かった(青森県連のやり口が見えてきますね)。そのあと主な人たちで二次会のスナックへ。地元実業界、報道界などのトップばかりなので、私はみなさんから少し離れた位置に末席を確保して、寄付金を祝賀会の引き出物の紙袋に入れて、コートと一緒に自分の近くに置いておいた。しかし飲んでしまえばイケイケである。いい気分でお開きとなった。で、帰ろうとしたら、いつの間にか店の方でコートと引き出物を預かってくれていた。ところが、手渡された紙袋に寄付金の熨斗袋が入っていない。「これこれこういう物が入っていたはずだけど」と言ったらなんと、同じ紙袋なので帰る順番に手渡してしまったと言う。これには「うわー、どうしよう」。店のママさんにもいい方策は浮かばない。しかしそこでテレビ局の局長さんが、「私の携帯でつながっている人を探してみましょう」。出席者で携帯がつながる人に順番にかけはじめ、すがるような想いで待つこと数十分。連絡を受けた商社の社長さんが自分の紙袋を探してみると「あった」と。これって、出てこなかったときは自分が責任を取るしかないが、お店にも責任の一端はあるのではないだろうか。@私は大事な荷物だから自分の身近に置いた。Aお店の人は私が気づかないうちにそれをクローゼットに入れたB帰るとき、お店の人が順不同で手渡した中に私の預かりものが入っていた。法的に考えるとどうだろうか。

第16回「お酒のあれこれ」 (2017.4.7)

 いろいろ書いていると、道徳的に問題のある事象も出てくる。今後私の書くものは一人称でも創作で、実在の人物、団体とは一切関りがないということにしていただきたい。
 「お酒はどれくらい飲むのか」と聞かれることがある。高校時代、かなりワルイ部活動に所属していた。そこでは合宿のとき、1年生が全員で一升瓶を飲まなければならなかった。幸い、私はたくさん飲んでも何ともなかったので、仲間のために多く飲む役割を引き受けた。
 大学の将棋部に入ってからあるとき、4年生の先輩に「奈良岡はどれくらい飲むのか」と聞かれた。新入生にとって4年生は神様のような存在である。これは控えめに答えた方が無難と思い「一升くらいです」。先輩「うっ・・・」。
 そのころはアルコールであれば何でも良かったが、しばらくして同類の匂いがするけれど私よりは少し酒品がいい先輩、同輩、後輩と同じ場を共有することになった。そこで「吟醸酒」なるものを知った。もともと性格的に、何かを始めると突き詰めないと気が済まない。社会人になってからは遊ぶお金の多く入る仕事だったこともあり、「酒に糸目はつけない」生活になった。酒屋さんとの付き合いで全国新酒鑑評会の金賞受賞酒リストを送ってもらい、「今月はこれとこれとこれ」みたいに注文した。だいたい1か月の注文がビール大瓶2ケース、ウィスキーの大きいボトル数本、日本酒を合わせて5万円くらいの支払いになった。自分の中で、日本酒の一升瓶換算とウィスキーの720mlなら1万円くらいまで許すことにした。そのころジョニーウォーカーの黒は8千円、シーバスリーガルは1万円、ブランデーのナポレオンは3万円くらいしたが、洋酒は現在の価格を見ると輸入業者にだまされていたのだろう。
 今の仕事になったころだろうか。知り合いだった飲食店経営者と妹が、たまたま偶然結婚した。その飲食店は本人は懐石料理のつもりだろうが、私は日本酒の専門店と認識している。そして大晦日は私の家で一緒に年を迎える。2人して毎年、「ここぞ」という秘蔵の日本酒を用意した。ある年のこと、先方が持ってきた日本酒がかなり良かったので、それ主体で行くことにした。で、翌日はお正月。自分が用意したのをいただこうと思ったら、いくら探しても無い。家の人に「ここに置いていた日本酒知らない?」と尋ねると「なに言ってるの。昨日うまいうまいって全部飲んだじゃない。よくまああんなに飲んで具合が悪くならないもんだね」。
 これはショックだった。記憶が無くなるのは3回に1回くらいで珍しいことではない。だが、せっかく用意した「ここぞ」という酒の味の記憶がないまま飲みつくしてしまったのはもったいない。なんという不覚。
 で、次の年の大晦日、(いったい自分はどれくらい飲んでいるんだろう)という疑問を持ち、家中のお酒に印をつけておいた。減った分だけ飲んでいるということだ。近所のサウナに行き、ビール、日本酒から始まり、そのときはウィスキーの気分だったので紅白歌合戦を見ながらシーバスリーガルをロックでいただいた。で、飲んでるうちにどんどん減っていき、残り少し。ここで「ちょっと待った」という気持ちになった。量を計って思ったのだが、いつもこんなに飲んでいたのでは健康に悪い。お金ももったいない。それからは家でも外でも、量は控えようと決めた。ここは大事なところなので、管理人さんにはよろしくお願いしたい。
 それはともかく、しばらく経ったあるとき、非常勤職員として勤めていた公的機関で飲み会があった。私は正規の職員ではないので末席で出入りの業者と同じテーブルで、会場には早めに着いた。すると市役所を退職して同じく非常勤で務めている人が、「今回は参加できないので皆さんで」と、田酒の純米大吟醸を持ってきた。そのとき、参加者を心の中に浮かべて思った。「今日の会でこの酒の真価を味わうに値するのは私しかいない」。そこでホテルからデカンターを借りて田酒の中身をそれに移し、純米大吟醸の瓶にはホテルのどうでもいい酒を入れた。早く着いた同じテーブルの人には「口止め料として1杯ずつあげるからね」
 宴たけなわ。中央のテーブルに備えられた田酒の純米大吟醸が開けられるときがきた。偉い人から小さなぐい飲みに注がれていく。酒に詳しい人の蘊蓄が入る。みなさんの感想は「さすがすっきりしていい味だ。こんな美味しいのは飲んだことがない」。残り少なくなったころ、末席の私にも声がかかった。「奈良岡さんもどうだい。めったに飲めない貴重なお酒ですよ」。中身をコップで飲んでいる私としては、本心を語らざるを得ない。「いやー、とてもとてもそんなお酒なんて」。このことは犯罪ではなく、道徳的にも問題はないと思う。みなさん満足していたのだから。


青森将棋界10の物語

【はじめに】          2021年3月23日     

コロナも終着駅が見えつつあるが、収束にはもうしばらく人の往来を控えなくてはいけない時期が続くと思う。
 それとは別に、「県連50周年記念誌」作成のとき、あとの世代に残したい話ではあるが、冊子には書けないいくつもの事柄があった。そこでこの機会に、在宅時の読み物として月に2回くらい、書ける範囲で裏の伝説を残しておきたいと思う。ただし、私たちの将棋界では、事実をそのまま書くと、個人の名誉を著しく損なうことが多い。それでこの連載は
「事実を元にしたみーくんの創作であり、実在する人物、団体とは一切関係が無い」ということにしてもらいたい。それでも本当にまずい話は表に出せない。山で言うと、8合目くらいまで昇って書いてみようと思う。そしてくれぐれも、良い子のみなさんはみーくんの真似をしないように。

【第1回】 T田君のこと   2021年3月26日      

 少し前、感染対策をしたお店で、F橋隆一君と一緒の時間を持った。一年中忙しすぎるのでそんな機会は少ないが、これからも時々はそんな時間を作りたいと感じた。それはそれとして、そのときの話の中で、今の県棋界では催しが終わったあとなど、同じ世代の若い人同士で飲んでいることを聞いた。今の人たちは平和で幸せだなあと思った。みーくんの若いころ、一緒に飲んだのはK瀬松雄さんT田郁司君H川幸宏君この名前を見ただけで、分かる人にはみーくんがどれだけ酒羅場を経験してきたか分かるはずだ。ただし、T田君の本名を記してもあまりピンと来ないかも知れない。「アニータさんに貢ぐために14億ほど横領した人物」と言えば、どうだろうか。
 
T田君は、将棋は強かった。昔、定期的に若手棋士に来ていただいて、練習会を開いていた時期があった。会費は5000円。ただしプロと指して勝てば無料。ふつうは負けるので、その分が謝礼になるというシステムだ。その条件で、プロ棋士を平手で破ったこともある。大会での実績は全国アマ王将戦でベスト16など。そしてたぶんT田君にとっては、みーくんが一番親しい友達だ。
 みーくんんは中学1年の終わりころ、将棋を始めた。
3年生のとき、中学生の県大会で優勝した。そのときの棋力は1級くらいだった。でも、一緒に始めたK山良三君が転校したので、しばらく道場から遠ざかった。進学は学校の勉強を全然しないので、普通高としては一番偏差値の低い青森K高しか行くところがなかった。最底辺の男子校。そんな中でも応援団と言うわるい部門に所属していて、屋上での練習のときなど、血痕が残っていることがしばしばあった。そんなときは「なんだ、ヤキ入れるときは屋上使うなって言ってるのに」。問題なのは行為ではなく行われた場所、という考え方が当たり前の学校だった。
 そんな学校にも馴染んだころ、
K山君が遊びに来た。そのころは奨励会に入っていただろうか。それでホームグラウンドだった弱い方の道場に行ってみた。ところがなんと、1学年下の中学生に負けた。それがH川君だった。前年の中学生県大会優勝者が年下に負けちゃまずいだろう。また道場に通うようになった。さらに、強い方の青森道場にも行き始めた。ところがなんと、そこでも同学年に負けた。青森S高のT田君だった。そしてH川君は翌年、S高に入学した。T田君の1年後輩となったわけだ。
 3人は、どんな高校生だったか。H川君は、高校球児だった。入学する2年前甲子園に行った強豪校の、レギュラーだった。
つまり、野球でも将棋でも、同学年の県トップレベル。
 T田君は、学力的には青森高校に充分合格できたが卓球でスカウトされた、と自分では言っていた。その頃のS高は卓球の名門で、卒業生から世界チャンピオンが出ている。
ただ後で考えると、T田君の言うことは本当の時と本当でない時があった。
 
ある時、学校をさぼって、他の高校生も加えてT田君の家で将棋などで遊んでいた。すると高校から電話が来た。それに出たT田君「ちっ、先生にばれちまった。午後から行かなくちゃなんねえ」。みーくん「へー、君たちの学校じゃ先生の言うこと聞くんだ。真面目だなあ」。後に犯罪者になる人と比べても、みーくんが一番わるい子だった。たぶん、先生方は諦めていたのではないか。
 みーくんが県の高校個人戦で優勝したとき、お祝いだと言って何人かで焼肉に行った。その支払いはT田君が全部受け持った。そのころは「お金持ちの家庭なんだなあ」としか思ってなかったが、あとで起こること前兆だったのかも知れない。
それも含めて、T田君はいいやつだった。
 専修大学を卒業したT田君は、県の外郭団体に就職した。みーくんはまだ大学生。帰省したときは一緒に居酒屋に行ったり、二次会のスナックに行った。
行きつけのスナックでは、T田君は王様みたいに扱われていた。何も知らないみーくんは「いい所に就職するとこんな扱いを受けるのか」と思っていた。ある時、T田君はお店のポーカーゲーム機に多額のお金を入れて「自由に遊んでいいよ」。でもみーくんは人間とやるポーカーは好きだが、ゲーム機でやっても面白くもなんともない。そのことを言うと、T田君は自分で遊び始めた。後にみーくんはその方面にめちゃくちゃ詳しくなるが、あれは絶対勝てないようにできている。でもT田君は、勝つことが目的でないように思われた。また、みーくんがアルバイトで働いていたパチンコ屋さんに来たこともある。事情があって、前の日はみーくんが釘を調整していた。それで本当はやってはいけないことだが、友達だから「あの台開けといたから打ってみ」と教えた。でもT田君は負けた。「なんだ、出ないじゃないか」「うーん、みーくんまだ腕が未熟だったか」。ところがT田君が帰ったあとおばちゃんがその台に座ると、普通に出た。内心「なんだよ。T田君が下手くそなだけじゃないか」。
 その後結婚式にも出席して、披露宴では大盤での連将棋出演を頼まれたりした。でも半年くらいで離婚している。そして長い学生生活を終えて青森に戻ると「T田君と友達だと思うけどお金は貸さない方がいいよ」と、忠告を受けた。その頃は将棋界の人に対して、何件かの不始末が明らかになっていた。本人も将棋の場に現れなくなっていたし、みーくんとも接点が無くなって行った。そして大きな事件が明らかになる。
 みーくんの所には、取材の人がずいぶん来た。週刊誌の人などは「いい写真があれば買いますよ」「写真残しておかない主義だから無いし、あっても友達のことは売らないよ。でも参考までにいくらなら出せるの」と聞いてみると、二けたの答えが返ってきた。
普通の人より付き合いの深かったみーくんには、その事件に対する感想もあるが、それは書いてはいけない部分になるのかも知れない。

【第2回】 昔はマグロ大会があった   2021年4月9日     

 第1回の話は、重くなり過ぎたかも知れない。でも1度は書かなくてはいけない事だし、みーくんの若いころの話は、これからの理解に必要となる。第2回として昔、青森県棋界にマグロ大会があったことも書き残しておきたい。
 それは、ふとしたことから始まった。青森支部会員で市場の魚屋さんだった人に、みーくん「首都圏にはマグロを賞品にした大会があって、大人気なんだよ」とか話をした。すると「青森でもできるかもしれませんよ。うちの幹部と会ってみますか」。それで相談に行くと先方から「面白いじゃありませんか。100キロ提供するから年に2回やりましょう」との申し出をいただいた。なんと太っ腹なことか。そんなとき、将棋界にありがちな悪手がある。「それではご提案いただいた内容を持ち帰って、役員会で協議したのち、然るべき返答をさせていただきます」。
 今はそうでもないが、役員を集めて会議なんか開いたら「なぜマグロなんだ。ホタテと比較、検討したのか」とか、「みーくんの原案だとAからDのクラスまで同じ賞品となってるが、当然強いクラスの賞品を多くするべきだ」とか、「我が家では古来よりお狸様を信仰している。そのマグロは将棋大会で使うのでなく、教祖様に寄進しましょう」などといった話になるに決まっている。そんなこんなしているうちに、まとまるものも、まとまらなくなる。昔の県連は、そんなレベルだった。東北六県支部連合会の相談で、みーくんはどんなことでも即答する。また、みーくんが開く会議は、何か議題を用意して討議することはなく、ただ飲むだけ。それはこのような事情があるからだ。
 マグロ大会は先方と話し合って、その場で開催を決めてしまった。内容は少しずつ詰めていった。その結果、段位無差別のAクラス、初・二段のBクラス、無段のCクラス、3級以下初心者のDクラス、予選落ち者全員による駒落ちの敗者戦、に落ち着いた。賞品はそれぞれ優勝15キロ、準優勝その半分、3位2名はその半分。いま計算したら100キロを余裕で越えているが、みーくも魚屋さんも、細かい計算は得意でない。てきとーに決めたらそうなったということだ。
 記念誌で確認したら、始まったのは平成8年、羽生善治現九段が同時七冠を達成した年だった。世の中全体で、将棋の認知度が上がっていたのだと思う。主催は元青森駅前市場。その頃に、駅前再開発で市場団地を形成していた団体だった。現在はアウガ地下の「海鮮市場」になっている。新しい大会は大人気となった。だいたい150人から200人くらいの参加者が集まった。
 賞品のマグロは、鮮度とかも考えて低温冷凍物が提供された。冷凍庫で保存できるが、優勝して15キロもらうと、食べても食べても食べきれなかった。当然ご近所や知り合いにもおすそ分けするが、それでも十分すぎるほどだった。それで当時の青森将棋センターで、マグロ宴会を企画したことがある。大会をやれば、仲間の誰かが賞品を獲ってくるのは間違いない。お酒だけ用意して、大会が終わってからマグロ尽くしで行こうじゃないかと。その結末は、県棋界用語の「天罰」事件として残っている。まさかの獲得ゼロだったが、主催者に余ったマグロを恵んでもらって、なんとか格好がついた。このことから、今の人たちには「謙虚な心のあり方が大切」と学んでいただきたい。
 そんな中である年のこと。大会の直前に主催者から「マグロの準備量を間違えた。敗者戦の賞品は、本マグロを使うしかない」との連絡があった。「うん、それで問題ない、って言うより、本戦よりいい賞品じゃん」。そのやり取りを聞くともなしに聞いていたH田伸先生、なぜかいつもより入念に駒落ちの練習を始めたこの部分はみーくんの主観が入ってるかもしれない)。そして大会当日、見識八段、人格八段、将棋四段で詰将棋作家の強豪が、なぜか予選落ちした。敗者戦は順当に優勝した。
 これに正義感八段、定跡八段、将棋五段のS々木潤一五段が?みついた。「そんなー、H田先生ほどの実力者が予選落ちってあり得ないよ。で、敗者戦は圧勝してるし。なんだかなー」。などと言っていたが、ふと、何かに気が付いたようだった。そしていつもより入念に駒落ちの練習を始めたこの部分は、みーくんの主観が入ってるかもしれない)。次の大会の敗者戦で優勝したのが誰かは、書くまでもないだろう。
 正義感も道徳心も持ち合わせてないみーくんは、どうしていたか。当然、高目狙いで大会に臨んだ。ところが、渡辺三郎会長がずっと盤の横で見ていた。渡辺会長に本マグロの話は伝わってないので、見張っていたわけではない。単にみーくんの将棋が見たかったのだろう。これには困った。渡辺会長くらいの人に見られると、ばれてしまう。当時の棋力では、本戦に進むしかなかった。今なら実力で敗者戦に回れたのに・・・。

【第3回】 先天性痴呆症   2021年4月24日     

 みーくんが「先天性痴呆症」という持病を抱えていることを、昔から付き合いのある人は知っている。この症状はまず、方向音痴となって現れる。だがこの話を書くときりがないので、今回は割愛する。
 回を追って説明して行くが、
ほかに現れる障害としては、記憶の欠落がある。お酒を飲むと症状は重くなる。だいたい3回につき1回くらいの割合で、次の日は記憶が無くなっている。ただし、それは悪いことではない。もし記憶が全部残っていたら、いくらみーくんでも恥ずかしくて生きていられないだろう。でも、お酒を飲まないお仕事では、困ることが多い。
 ずいぶんと昔のある土曜日。午後1時少し前に電話が来た。「先生―、そろそろ来てくださいよ」。「あれ、今日何かあったっけ」「団体戦始めたいんだけど、先生来ないとロッカーの鍵開けられないんですよ」
「どっひゃー!その日だったか」。
 当時の職場対抗戦は、東奥日報新町ビル4階会議室で開かれていた。そしてロッカーがあり、将棋用具もその中に入っている。
なのでみーくんが行かないと大会が開けないのだ。慌ててタクシーで駆け付けたがだいぶ遅刻。遅刻をすると怒られるに決まっているが、その場で一番偉いのは、審判長であるみーくん。そんなときはどうしたらいいんだろう。でも持病のせいだから仕方ないよね。
 あと困るのは、2つ以上のことが一度に覚えられないこと。いくらみーくんでも「1時に青森駅に着く」と思えば、そのことはできる。けど「1時に青森駅に着くには徒歩だと12時20分、自転車だと12時40分に道場を出ればいい。バスだと時刻表見ないといけないなあ」などと複雑な思考をすると間違いが起こりやすくなる。
 弘前で「名人戦」が行われたときは、多くの方面から好評をいただいた。それは次の「王将戦」誘致へとつながった。王将戦も盛り上げて、今後の弘前棋界発展の糧としなければならない。主催社の一角である毎日新聞の支局と相談して、弘前市長と、弘前商工会議所会頭と、みーくんの対談を入れた王将戦の号外を出す話がまとまった。司会の適任者がいないので、それはみーくんが兼ねることとした。
ただし、全国紙の支局長さんは何年かで交代するので、みーくんの持病のことまでは知らない・・・。
 
「今回は絶対遅刻できない」。強い決意を持ったみーくんは、2時間早く弘前に着いて図書館で待機して、1時間前に会場の弘前市民会館に入って、弘前のコーヒーは美味しいので会館内の喫茶室でコーヒーを飲みながら司会原稿を頭に入れる、との完璧なプランをたてた。ノー原稿ですらすらと司会を進めれば、市長も会頭も「さすが県将棋界の代表者。切れ者だなあ」との認識を深めるはずだ。
 対談は1時からの予定だった。1時を前提にしたプランは完璧に進んでいった。満足したみーくんは図書館で「12時45分か。ここまで何の障害も起きていないな。さすがだなあ」と、思ったとき気づいた。「1時まであと15分しかないじゃないか」。頭の中を「12時に弘前市民会館に入る」としていなければいけなかったのだ。慌てて図書館を飛び出し、走る、走る。冬だから道路は凍っている。職員の方から携帯に「いまどちらにいますか」と、連絡が入る。「走ってるとこ。もうすぐ着く」。秒差で遅刻はしなかったが、時間を取っていただくのが難しい方々を待たせてしまった。対談前の雑談では走って喉が渇いたので出されたりんごジュースを飲んでばっかり、というか「お代わりありますか」。別の意味でノー原稿の司会になってしまった。それでも滞りなく進めるみーくんって、どんだけ優秀なんだろう。
 市長と会頭の話の次は知事。それは弘前事件より前のことだった。東北六県大会で青森県チームが優勝したとき、渡辺会長と監督、選手団で知事に報告に行くことになった。
絶対に遅刻できないけれども青森市内。弘前と比べて条件はいい。会見は11時からで、集合は県庁に15分前と決まった。みーくんは「10時にアウガの図書館に入って待機していれば万全だろう」との対策をたてた。当然、書物より時計に集中した。刻々と時間は過ぎ、1045分。「やった、集合時間になった。って、ここはアウガじゃないか」。県庁に向かって走る、走る。集合時間には遅れたが、知事室入室も時間が押すので、会見には間に合った。監督は普段着の汗だくで、サンダル履き、優勝カップや賞状もない手ぶらで知事と会う羽目になった。
 ただし本稿の主題はそのことではない。みーくんは「アウガで待機して、時間が近づいたらセンターに戻って、着替えて優勝カップや賞状を持ってくる」とのプランを立てていた。いま考えると、戻るくらいならアウガに行く必要はない。栄町の青森将棋センターで待機してればいいことだ。逆に、必要なものを揃えてアウガで待機する方法もある。自分で自分の頭の中が分からない。

【第4回】 怪談   2021年5月8日     

 みーくんにとって街中が迷路のようになっている弘前は魔境だ。そして青森県将棋界の夜は、魔の時になる。人間の常識では説明できないことが多い。そんな話を怪談としてまとめてみようと思う。

その1 即身成仏
 ある年の陸奥新報社での大会のときのこと。旦代さんと朝早く弘前に入ったのだが、旦代さんは市内に用事があると言う。みーくんは駅を過ぎた辺りから歩いて会場に向かうことになった。進んで行くと、川があった。橋の手前で川の中を見ると錦鯉がたくさん泳いでいる。それが上流の方まで続いている。みーくんは同時に二つ以上のことを考えられない。大会のことは頭から消えて「錦鯉はどこまで居るんだろ」となり、川をさかのぼって行った。
 「うわー、けっこう居るなあ」。夢中になってしばらくすると、まったく知らない場所に来ていた。「あ、陸奥新報社に行くんだった。でもどうすればいいんだろう」と思った時、由緒ありげな建築物が目に入った。とりあえず、そこを目指すことにした。記憶が完全か定かではないが、それは五重の塔だった。さらに説明書きを見ると、昔、即身成仏された宗教者の方の、ミイラが祀られているようだった。何か見えない物の導きによってたどり着いたのだろうか。そして恐ろしいことに数年後、みーくんは今の時代の即身成仏に遭遇することになる。

その2 八戸の夜
 八戸の夜も恐ろしい。以前、県名人戦の2週目が八戸で開かれていた時期があった。本戦に進んだ8人を招待してホテルで前夜祭を行い、次の日は準々決勝からを公開対局とする。同時に子供大会も開催し、行方尚史六段(当時)の指導対局もあるというものだった。子供大会では岩手から来た小山怜央君と、弘前から参加の阿部光瑠君が優勝争いをしたりしていた。このことから、幼少期に高い才能と触れ合うことで、お互いの能力が磨かれることが分かる。
 初年度の前夜祭には、八戸市長も出席された。宴会が終わるとみーくんたちは二次会に出る。お店で行方六段が色紙を所望されるとか、渡辺会長がパンツを脱いで踊るとか、お約束の時間が進んで行った。
 一方で、いくら青森県将棋界でも、もう少しましな人たちは居る。常識人のI田巧五段Y山幸男五段は、常識的な飲み方をしてホテルに帰った。そしてホテルの廊下で行き倒れを発見した。
 そのとき、Y山五段は関わり合いになりたくなかったので通り過ぎようとしたそうだ。この姿勢は正しい。以前みーくんは街で行き倒れを発見し、生きてるか死んでるか確かめようと棒でつんつんしたら飛び掛かられたことがある。単に酔っ払いが倒れていただけだったのだ。みなさんには「君子危うきに近寄らず」と覚えていただきたい。でも、さすが教育者のI田先生は、介抱しようと覗き込んだ。すると「こんな顔かえ〜」となったのではない。それは翌日の対局者だった。さしもの強豪二人も心理的動揺が残り、翌日は敗れ去ったと言う。

その3 深夜の将棋教室
 平成10年、青森将棋センター支部と青森支部が合併し、みーくんたちは緑3丁目の青森支部に引っ越すことになった。青森支部は広い。闇にうごめく魑魅魍魎が、公然と集まる場ができたことになる。最初の犠牲者はプロ棋士だった。
 将棋講座や指導対局で、T市三郎七段がいらっしゃったときのこと。将棋の仕事が終わると歓迎会になる。18時くらいに始まって22時、23時と時が進んでも、終わる気配すらない。T市先生も、遠方の地で命を落とすわけにはいかない。次第に受けが無くなり24時、ついに「それでは今から将棋教室始めます」となった。T市先生が将棋講座してくださるよ」とのみーくんの声に、各部屋からわらわらと集まってくる子供たち。なんと深夜24時に子供向けの将棋教室が開かれたのだ。そんな環境で育った子供たちに、県将棋界の将来は受け継がれて行く。同じような失敗が繰り返されていくのは当然だろう。

その4 次々とご遺体に
 飲み会のとき子供たちは放牧されているが、アルコールが入らないだけあって冷静だ。青森の子供たちの中では「大人の人たちはお酒を飲むとパーになる」との認識が共有されている。ある年の深夜に入ったころのこと。日本酒主体でやっていた人たちが何を間違えたか焼酎の一升瓶を開け始めた。そして言うには「これは濃くて美味しい酒だ」。その言葉で我も我もと、湯呑茶碗に注がれていく。言ったのはみーくんのような気がしないでもないが、正直、その時間はどうでも良くなっている。それを離れた席で見ていた人によると、知らずに焼酎に切り替えた人たちは、生きながらにして次々と息を引き取り、成仏されていったという。結果、6つか7つのご遺体が朝まで道場に残された。「焼酎は薄めて飲む」という好手が発見されるのは、その数年後のことである。

その5 蛇を焼く人
 「S藤達也さんってどんな人?」と、お母さん方の間で話になると「ヘビ焼いた人」と教えられると思う。
 ある時の道場での宴会に、みーくんは「ハブ酒」を持ち込んだ。4合瓶にハブと称する蛇が入って1万円くらいするが、みーくんは、酒に糸目はつけない。これはお父さん方に大好評だった。ふだん、何かお困りのことでもあるのだろうか。
 液体の部分はたちまち無くなったが、まだ中に蛇が残っている。「焼いて食べよう」となった。よほどお困りに違いない。
 数分後、みーくんは台所で蛇を焼くS藤さんの姿を見ることになる。S藤さんは、3か月に1回しか言葉を発しない(この部分、みーくんが知らないだけで他の人とはふつうに話をしているかもしれない)。深夜、口角を上げて黙々と蛇を焼くS藤さん。身の毛もよだつとはこのことだろう。
 食レポとしては
  @食感は身欠きにしんとか、乾物みたいで堅い
  A小骨が多い
  Bウロコが飛び散って、数日大変だった

ということを、次の世代に伝えておきたい。

【第5回】 乗り物は難しい   2021年5月22日     

  「脳みそが足りないのは不便だが不幸ではない」との言葉がある。みーくんは毎日を楽しく過ごし、生活で不満なことはない。まず基本的に、一番好きなことを仕事にしている。自分の仕事場に行くことが楽しみで仕方ないという人は、世の中にどれくらいの割合でいるだろうか。
 仕事を離れて衣食住を見てみよう。
 「衣」では着るものには頓着しない。なので満足も不満もない。
 「食」重視している。その面で青森に住んでいると、美味しいものに不自由することはない。太平洋、日本海、陸奥湾、津軽海峡を抱え、豊かな山の恵みもあるからだ。お酒では、手に入りにくい銘柄の大吟醸をいただくことが多い。この部門になるとみーくんの頭脳は活性化される。いつも特上品ばかり飲んでいるとそれが当たり前になり、ありがたみが薄れる。なのでときどき、あえて普通のを買ってくる。それと交代で飲んでいれば、特別いいのを飲んだ時の感激が薄れないわけだ。我ながら頭がいいと思う。
 「住」はどうか。そもそも、一日の半分以上の時間は道場で過ごしている。自宅にはお風呂に入るのと寝るために帰るだけだが、その気になればテレビを通じて当代一流の歌舞音曲などを、家に居ながらにして楽しむことができる。それ以上を望む気持ちはない。
 それでは不便なのはどんなことか。乗り物は苦手だ。みーくんは物の細かい違いが分からない。自動車は大きい車、小さい車、四角いの、みたいに分類している。車種で名前が分かるのは一つもない。
 中央市民センターで将棋講座を終えたときのこと。迎えに来た車のドアを開けて乗った。後部座席に落ち着くと、運転席と助手席に、見知らぬ年配の男女が座っていた。たぶんご夫婦なのだろう。みーくんとその方々、どちらの驚きが大きかっただろうか。
 公共交通機関は、さらに手強い。昔、アマ名人戦の代表になったので、向こうにいる人たちと久しぶりに会おうと、東京駅で待ち合わせた。そのころ携帯は世の中に無く、新幹線も仙台での乗り換えだった。青森を発って仙台のホームに着くと、みーくんが乗り換える便の隣にもっと空いている車両があった。当然「空いてるからこっちにしよ」となる。それはなんと、東京までの各駅停車だった。新幹線に鈍行があるとは思わなかった。東京駅には1時間ほど遅れて着いたが、待ち合わせの人たちはホームに居た。持病のことを知っているので、「たぶん、そうなっているのではないか」との予想だったそうだ。
 K太郎母・K太郎と倉敷に行ったときは、責任重大だと思った。最初の関門が東北新幹線から東海道新幹線への乗り換え。27号というのに乗り換えるのだが、ホームが分からない。だが案内板に217号という数字を発見したので、そのホームに上がってみた。しかし怪しい雰囲気が感じられる。みーくんは学習能力が高いので、仙台のときと同じ失敗をしないように駅員さんに確かめてみた。やはり違うと言う。「27号と217号は違うのですか」と念押しすると「違います」とのことだった。違うなら違うでいいのだが、もっと違いを際立たせないと、困る人も多いのではないかと思う。倉敷に着いてから迷子になったのは当たり前すぎるので割愛する。歩き疲れたK太郎母の感想を述べると「先生のことは、もう一切信用しません」。気がつくのが遅いんでないかい。
 一人で行動するときは指定席を取らず、自由席を選ぶようにしている。気分でどこかへ立ち寄りたくなったときに簡単だからだ。名古屋での会合の時は、乗り換えが危ないので飛行機を検討した。しかし調べてみると隣の市の小牧空港で降りて、何らかの交通手段で名古屋に入るみたいだ。隣の市から乗り換えで名古屋に移動するのは不可能、と判断して新幹線にした。
 会合が終わって、帰りも新幹線。駅の案内表示に従ってホームに入ろうとするのだが、どこをどう通っても地下商店街に入ってしまう。不思議な作りの駅だが、なんとかホームにたどり着いて、缶ビール等買い込みながら自由席に座った。人心地がついてくつろいでいると、停車駅の案内が耳に入り始めた。なじみのない地名が続いたあと「終点は福岡〜、ふくおか〜、まもなく発車します」。どっひゃー。反対方向に乗っちまった。速攻で飛び降りたが、まあ九州へ行ったら行ったで、2、3日遊んで来ると思う。
 反対方向でなく、正しい便に乗っても危険はある。東京での会合の帰り、缶ビール等買い込みながら指定席でくつろいでいた。すると席の横に立つ人がいて「そこは私の席ですが」と言う。「違うよ。僕の席だよ。ほら」と乗車券、指定券を見せるとその人は覗き込んで、「それは隣の車両ですが」。やっぱりそのようなチケット類も似たような券にしないで、違いを際立たせないと困る人が多いのではないか。
 県外でなく、県内ではどうか。弘前で名人戦を誘致したときは、準備のため弘前と往復する機会が増えた。最初に電車を使ったときのこと。会議なので缶ビール等買うことなく乗り込むと、青森駅を出た次に新青森駅に着いた。「東北新幹線をご利用の方はこちらでお乗り換えください」とかアナウンスが聞こえる。東北新幹線???
 地理に疎いみーくんでも、東北新幹線は八戸から盛岡方面に向かうことは知っている。逆に、弘前から先へ進むと、最後には秋田に着くはずだ。つまり、両者は反対方向にある。「またやっちまったー」。慌てて飛び降りてホームの案内表示を確かめると、そのホームは弘前方面用みたいだ。狐に鼻をつままれる思いとは、このことだろう。定跡通り駅員に訊ねると、最初に乗った電車で間違いなかった。次に来るのに乗っても弘前に着くようだ。秋田方面に向かう電車が岩手方面に向かう新幹線乗換駅とつながっている現状は、どうなのかと思う。この国の、脳みそが足りない人に対するバリアフリー化は、進んでいない。

【第6回】 タイマンの方法は   2021年6月5日     

 今回は、ちょっと毛色の違った話を。
 みーくんが悪い子だったことは先に書いた。一時期、かなり悪い場所を根城にしていた。一口で言うと、青森中の不良が集まるような所だ。
 ある時、仲間から呼び出しがあった。「急いで来てくれ」と。何かと思って店へ着いて入口のドアを開けると、若者(みーくんも20代で若かったけどね)が入口正面を向いて椅子に腰かけ、机に両足を上げてふんぞり返っている。ひと目で素人じゃないと分かる。けど、正規の組員でもなさそうだ。年恰好からすると、準構成員のような立場だろうか。
「なんだそっち系の人か。お引き取り願えよ」みーくんが言うのに仲間が
「いや、違うんだ」と言うのと
「おう、やるってえのはてめえか」と声がかかったのは、同時だったように思う。
「やる???」
「ここには漢は居ねえのかって言ってんだよ。1局1万円で将棋やろうって言ってんのに誰も受けねえ」
「将棋い〜?????!」
 馬鹿馬鹿しいとは思ったが、将棋という言葉が出てきたので話を聞いてみることにした。
「将棋、強いの?」
「おう、負けたことねえ」
「じゃ、子供のころ教室に通っていたとか、強い人に習っていたとか?」
「いや、そんなとこには行ってねえ。おまえ、K田って知ってるか」
K田常明君のこと?K田君はすごいよ。小学生の全国大会で3位になって、準決勝はNHKで放映されたんだよ」
「おう、よく知ってるな。俺はKと小学生のとき同級生だった」
「へー、そうなんだ。じゃ、ときどき勝ったりした?」
「いや、あいつには勝てねえ。けど、他のやつには負けたことねえ」
 なんとなく話が見えてきた。それでつい、その若者がどれくらい指すのか興味を持ってしまった。
「うーん、そっかー。面白いこともあるもんだね。じゃ、指してあげようか。でも俺、賭け将棋はやらないから、飛車角落として負けたら1万円出すけど、勝っても貰わないってことでどうだい」
 この申し出に、相手はぎくりとしたみたいだった。
「あのー、段とか持ってるんで?」
「うん、一応四段だよ」
「名前、聞かせてくれねえかな」
みーくん、って言うんだよ」
「あの、もしかして県名人とか取ったり、いつも新聞に載っている・・・」
「よく知ってるね。やっぱりある程度将棋のこと分かってるんだ。さ、やろうか」
「・・・ばっ、ばか。勝てるはずねえ。やめた。やめた」
 これには、成り行きを見守っていた連中からブーイングが入った。
「なんだよ、お前、さっき漢はいねえのかって言ってたよな」
「飛車と角落としてもらって、負けても払わなくてもいいし、勝ったら一万円入って来るんだぜ。絶対損しねえじゃん」
「ばかやろう。お前ら知らねえからそんなこと言えるんだよ。県大会優勝する人に何枚落としてもらっても勝てるわけねえんだよ」
 懸命に抗弁するのだが、やはり旗色が悪い。いたたまれなくなったのか、背中をすぼめて帰っていった。あとでK田先生に確かめると、その名前の同級生はいたそうだ。みーくん、もしかしたら将棋ファン1人減らしちゃったのか。

【第7回】 同じ穴のむじな   2021年6月19日     

男性である以上、女性人気は気になる。そして青森県は、将棋の場に女性がいる率が高い。
 女性人気となれば挙げられるのはI田巧五段。県棋界の小さい子たちは、いづれ高校生になる。それは必ずI田先生のお世話になることを意味する。若いお母さん方にとってI田先生とよしみを通じておくのは、大切なことだろう。
 別な理由では、K畠悟県連会長T代一男青森支部長「将棋の人にしては珍しくまとも」ということだ。身近にまともでない人でもいるのだろうか。青森県将棋界では、普通であることだけで女性の支持を得ることができる。
 W辺三郎会長は当然だ。知事をはじめ、県の政界、実業界、報道界トップの方々と親交を持つのだが、誰にでも気さくに接し、子供たちのことも気にかけられている。人気が出ない訳がない。 
 不人気なのはみーくん。以前「家族ペアリレー将棋大会」があった時のこと。人気の高い人は、すぐにペアの相手が見つかる。みーくんにも可哀そうだと気を使っていただいて「私、先生とチームになろうかな」といって下さる女性もたまには現れる。しかし「先生だっきゃ、怒ってばっかりだよ」と、県棋界に詳しい女性から情報が提供され、「やっぱりやめとく」となってしまう。
 だが、女性の方々の認識は正しいのだろうか。例えば、お泊りを伴った宴会の場では人間の本性が現れるのではないか。そのことを、県連役員会・総会を振り返って検証してみようと思う。
 まずみーくん。県将棋連盟では長い間、浅虫で一泊して役員会・総会・忘年会をやっていた。その忘年会の場に、ビデオカメラを持ち込んだ人がいた。これは恐ろしい。酔った自分が何をやっているのか。怖いもの見たさで後日見てみると、まったく普通に行動していた。3回に1回は記憶が残ってないのだが、記憶はなくても大恥はかいていないようだ。ただ、盃をあけるピッチが異常に速い。おちょこが小さいせいもあるのだろうが、手を休めることなく日本酒を口に運んでいる。見ただけで「おい、おい、そのペースじゃ危険だろう」と思うのだが、画面に映ってるのは自分だ。それでも女性の方々には「酔っぱらって、記憶が無くなってても比較的まとも」と知っていただきたい。
 浅虫には、必要な物資をT代さんの車に積んで入る。ある年のこと。旅館に着いて台車を借りて用具を運び入れようとすると
 「そちら様からは、ご予約をいただいてませんけれども」
 「やっちまったかー」
そんなことの多いみーくんの危機管理能力は高い。急遽空き部屋を確かめて何人泊まれるかとか対応策を進めたのだが、何か違和感がある。
 「ここはK荘でしたっけ」と間抜けな質問をすると
 「それはお隣で、ここはH浅虫です」
 毎年同じ宿泊所を使ってるんだけどなあ。でも、車を運転して隣に着けたのはT代さんだからね。みーくんは元々、ものの細かい違いは分からないし。このことは、女性の方々の心に留めておいてもらいたい。
 宴会がカラオケ大会になったこともあった。特殊な画面で、点数が上がるに従って特殊度が増す、温泉旅館仕様と思っていただきたい。何事にも高い意識を持って取り組むI田先生は、高い目標設定をした。だが相手もなかなか手強い。それでも懸命に努力を続けるI田先生挑戦すること幾たびか、ついに念願の100点を達成した。
 この部分、悪口になってないよね。カラオケで100点出したって事実書いてるだけだからね。
 素人はともかく、みーくんのような運営のプロになると、会議の成功は事前準備しだいということが分かっている。総会・役員会の前には、真剣な事前の討議がなされる。「芸者さんを呼ぶのか、コンパニオンさんにするのか」と。青森県将棋連盟では「仮定の質問には答えられない」などという無責任な出席者はいない。年配の方々は「芸者さん」、比較的若い層からは「コンパニオンさん」と、はっきりした希望が寄せられる。
 年配層の意見が上回ったある年のこと。飲めや歌え、歌えや踊れで宴会は進んで行った。その流れで芸者さんが舞台へ上がり、持ち込んだカセットテープで芸が始まる。共演にはW辺三郎会長(当時)が直々に上がった。音楽が流れ、照明が点滅し、W辺会長の衣類が一枚、また一枚と少なくなっていく。身に着けていた最後の一枚が失われてクライマックスへ、と思ったそのとき、荒々しくカセットテープの電源が切られた。「なんだ、何事が起こったんだ」と思うと同時に、舞台上の芸者さんが「もうやってられません。私の芸はそんなものではありません」。宴会のプロとしてどうかと思われるが、本稿ではそこは触れないでおこう。照明が再び点灯され、舞台の上には、お盆のほかに一糸まとわぬW辺会長が残された。すごすごと降段されるW辺会長。
 いかがだろうか。こうして検証するとみなさん、みーくんとなんぼも変わらない「同じ穴のむじな」と言えなくはないだろうか。

【第8回】 超能力はある   2021年7月4日     

 みーくんの周りでは、人間の常識では説明できないことがよく起こることを第4回の怪談で書いた。超能力の存在を知ったのは、大学生のときだった。
 あるとき、付き合っているというほどでもないが、一緒に遊ぶことの多い女子高生と、八王子の街に出た。歩いていると、血液センターがあった。今のみーくんは枯れ果てているが、若いころは血の気が多かったので、定期的に血を抜く必要があった。2人で献血をすることにした。
 献血のときは、ちょっと情けない思いをする。400CC採って欲しいのだが、体重50キロ以下の人は200CCまでしか採れないのだ(今の制度はどうなっているか分からない)。看護婦さん(当時の呼び名)に「400でも大丈夫だから」と言っても「規則ですから」と、相手にされない。成人男子で、50キロに満たなくてしょぼい献血しかできないのは、情けない感じがする。
 こちらは200なので早く終わって女の子の方に行くと、成分献血をやっていた。腕に管のようなものを差し込んで、横たわっている。
 「へっへっへ、いま身動き取れないんだよね」と言うと
 「スカートめくったら後で殺すから」
 どうしてみーくんの頭の中が完全な形で分かったのだろう。テレパシーという、人の心を読む能力があることを知った瞬間だった。
 その1例だけだと、何かの偶然ということもある。
 昔、「都市対抗団体戦」があったときのこと。県ではなく市・町・村の単位でシニア1人、社会人2人、女性、高校生、中学生、小学生それぞれ1人で7人のチームを作り、箱根の山の上のプリンスホテルで開かれるという、魅力的な大会だった。
 青森市が代表になったあるとき、K藤俊介パパから電話がかかってきた。「抽選で本部に連絡しましたか」と。「抽選?何のこと?」と言うと、チームの代表者が本部に電話をかけて、番号を選んで組み合わせを決めるシステムになっているのだそうだ。「どうして知ってるの?」と言うと、「要項に書いてますよ。先生はたぶん見ていないと思って」。確かに送られて来る文書の全部に目を通すなどという面倒くさい、じゃなかった、細かい作業は、持病を持っているみーくんには無理だ。だが俊介パパはその持病を知らないし、一緒にいる時間が多いわけでもない。これは「千里眼」とでも言うのだろうか。「離れた場所にいながらみーくんの仕事に対する姿勢を見通す」能力を持っているわけだ。
 東北棋界にも能力者は存在する。みーくんはシニア名人戦の参加資格を持ちたくなかったけど持ったとき、県代表権を得た。東地区大会は土曜日と日曜日、東京で開かれる。土曜日に準々決勝まで指し、日曜日が準決勝と決勝。ベスト8に入ればその日の宿泊を確保してもらえる制度だった。
 さらに「将棋ペンクラブ」の東北の会合が日曜日に、宮城で開かれる予定もあった。将棋ペンクラブの会合ならK部康晴さん主催になるはずだ。久しぶりにY川博士ご夫妻にも会いたい。決勝まで進んで遅くなる可能性も大いにあることから、K部さん「飲み会だけでも参加可能ですか」と確認し、対局が終わりしだい駆け付けることにした。
 一方で、もし万が一、初日に負けた場合は、時間が余ることになる。その場合は東北の南の方の県から「土曜日に移動しちゃって、こちらで飲まないか」とのお誘いをいただいた。ありがたいお話なので乗せてもらったが、「もうお店の予約も済ませてるから」という。負けるのが前提ってことかい。憎たらしいなあ。
 今後出場する人のために書くと、シニアの代表の方々は相当強い。みーくんくらいの棋力だと、だいたいは形勢が悪くなる。内容的に、勝った将棋は運がよく、負けた将棋は実力通りだった。それでも予約している人たちを見返したい一心で準決勝まで進み、それが終わって宮城に向かった。
 ペンクラブの会合は盛況に終わったが、充実した行程を過ごすには新幹線の最終まで飲まなくてはいけない。有志で仙台駅の中のお寿司屋さんに入った。さすが東北の中心地のお寿司屋さんのレベルは高い。しかも仙台駅まで来ているのだから、いくらみーくんでも乗車に失敗することはないはずだ。安心して腰を落ち着けた。ところが、最終便の時間が近づいてチケットを出そうとすると、無い。いくら探しても無い。
 その時だった。一緒に飲んでいたS司弘光さんが、それまでのみーくんの行動と問いただした。だいたいのところを話すと「行ってみます」しばらくして、無くしたチケットを見つけて戻ってきた。最終便を乗り過ごすと、夜の仙台で路頭に迷うところだった。
 思うに、S司さんが同行するよう配慮してくれたのはK部さんだった。みーくんはこれまで書いてきたようなことを、K部さんには教えていない。むしろ、頭のいいふりをしている。ということは、何のヒントも持たないK部さんは、「未来を予測して事故を未然に防ぐ」予知能力を持っていることになる。S司さん「過去を遡って、問題を解決する」時間移動能力を持つはずだ。間違いなく、超能力は存在する。S司さんの感想としてはみーくんが時々書き込んでいることは冗談だと思ってたけど、本当だったんですね」

【第9回】 やるときはやる人   2021年7月17日     

 これまで、プロ棋士が出て来る話はあまり書いてこなかった。内容が内容だけに、差し障りが生じるかもしれないからだ。だが前回で東北の超大物2人を登場させてしまった。こうなったら勢いで行くしかない。
 30年近く前、みーくんは将棋ペンクラブの賞をいただいた。みーくんだって、いつもふざけたことばかり書いているわけではない。やるときはやる人だ。
 そのころは、どんな時代だったか。行方尚史四段(以下、肩書・段位は当時の記憶)がプロ棋士になったばかりで、羽生さんが7冠めがけてタイトルを集めつつあった。県のタイトル争いは渡辺三郎前会長北畠悟現会長嘉瀬松雄五段長谷川裕五段が中心だった。
 みーくんが受賞したのは第6回観戦記部門の佳作で、対局者はY谷朔太君M上友太君。そのようにペンクラブの会報に記録が残っている。なんとこれを書いてるときに、入院していたT山繁さんから退院の連絡があった。主治医は友太君だったそうだ。このことから、みーくんが昔から有為な人材を育てていることが分かる。また「朔太」の部分に、みーくんの周囲には障害が多く発生することが現れている。
 大賞は谷川浩司王将で、表彰式は東京のホテルで行われた。そのころのみーくんは、地方の観戦記者としても、子供たちの先生としても、駆け出しだった。どうやって控室に入ったか覚えていない。中に入ると隣に中原誠永世十段、机の向いに原田泰夫八段、そのほか高名な方々が多くいらっしゃって、身の置き場がなかった。話しかけられても「はい」とか、片言しか答えられなかったように思う。今なら「〇〇先生、ちょうど良かった。今度青森でこれこれこういう催しをやるので・・・」と、すぐに交渉を始めるはずだ。そうしているうちに、西村一義八段が現れて、ほっとした。その日初めて知ってる人が入ってきたからだ。
 特別賞受賞者の小林健二・八段が入室したときは、さすがだと思った。腰を90度くらい曲げて頭を下げ、「このたびはありがとうございました」と、はっきりした挨拶をされていた。りんご将棋大会前夜祭の二次会で、美川憲一になるK林先生とは別人だった。なるほど、そうやって挨拶するものだったのか。板谷進先生の薫陶によるものだろう。余談になるが、板谷先生は亡くなられる2週間ほど前、みーくんのテレビ対局の解説者を務めている。みーくん板谷先生が最後に大きな仕事をしたときの、一員になったのかも知れない。浮足立っているうちに授賞式は始まり、しどろもどろの挨拶でみーくんの出番は終わった。
 時は流れ、みーくんは成長した。将棋まつりや県連50周年記念事業など、大きな催しも余裕でこなせるようになった。平成28年第65期王将戦、G田真隆王将H生善治四冠が挑戦する七番勝負の第4局が弘前市で指されたときのこと。みーくんは新青森駅でタイトル戦一行に合流し、主催者が用意したバスに乗り合わせて弘前入りする手はずになっていた。新青森の改札口は1つなので、みーくんでも間違いようがない。少し前のスペースで待っていると「お久しぶりです」と話しかけられた。振りむくと、マスクをしていて、G田真隆王将にものすごく似た人が立っている。G田王将だとしたら、何度か一緒に仕事をしているし、青森で一番高いお寿司屋さんにもご一緒している。挨拶を欠いてはいけない。だがタイトル保持者は、一行と一緒に新幹線でいま新青森に向かっているはずだ。その可能性は、頭から消し去った。
 一方で、みーくんは似たものの区別がつかないうえに目が悪いので、人違いをすることは、ありすぎるほどある。G田王将じゃない人だとしても、礼を欠いて失礼があってはいけない。とにかく、目の前の人の正体を確かめることにした。まずは、将棋の知り合いか別方面の知り合いかを判別しなければならない。
 「あ、ご無沙汰してました。・・・きょ、今日は、将棋関係のお仕事で・・・?」
 「はい。そんなところです」
将棋関係か。観戦記とか書く人かなあ。だとしたら東京在住だよね。
 「や、やはり東京の方から」
 「はい。一本早い新幹線で来て、下でお土産とか見てました」
あと、仕事とか分かれば手がかりになるぞ。
 「そ、それは遠路お疲れ様です。お仕事は、いつも忙しいのでしょう」
 「まずまずですね」
うー、その応答じゃ分かんねえ。
 そうこうしているうちに、本体が到着して改札口から出てきた。その一行の中にG田王将の姿はなかった。でも一同バスに乗り込み、みーくんが話をしていた人がマスクを外すと、バスの中にG田王将は存在していた。
 バスは第一目的地の弘前大学附属中学校に着いた。そこでは将棋部員たちとの交流と、ちょっとしたセレモニーが予定されていた。だが関係者の1人から、到着に20分ほどかかるとの連絡が入った。それで応接室のソファーで待っていたのだが、みなさん、話のきっかけがつかめないようだ。沈黙の時間が続き、気まずい雰囲気が漂い始めた。附属中の先生からみーくんに「このような方々をこのまま何もせずにお待たせしてよろしいんでしょうか」と耳打ちが入る。
 これは自分の主催とか、責任者の立場ならなんとでもできる。しかしプロタイトル戦でのみーくんの立場は、招致主体の弘前市のお手伝いだ。催しでのお手伝いは、余計な口出しはしないで、頼まれたことを確実にやるべきだ。でも現実に、目の前の状況はよろしくない。迷ったけれど、勝負をかけることにした。
 「この学校は県内で唯一、将棋部のある中学校で(あとで間違いと判明)、校長室には大山名人の書が飾られているんですよ」から始めて
 「生徒の多くが進学する弘前大学では将棋の授業があって」と話し出すとH生挑戦者
 「大学の授業の方はみーくんが教えに行ってるんですか」と乗ってきた。これはH生さんが意図を察して合わせてくれたのだと思う。それをきっかけにいろいろと話は広がり、気まずい空気も薄れて行った。
 いかがだろうか。みーくんが、やるときはやる人だということが、お分かりになるだろう。トラブルを多く経験することによって、人は成長する。

【第10回】 あの人の名場面   2021年7月31日     

O山康晴十五世名人」
 いきなり話を大きくしたわけではないがO山名人は晩年、ほぼ月に1回くらい青森県を訪れていた。N戸としひろ棋道師範M崎忠雄津軽支部長との交流によるものだ。本県での大名人は、どんな人だったか。
 まず、気軽に誰でも近寄って会話ができた。将棋の質問に答えてくれるどころか、大会では手空きになると、会場の茶碗や灰皿の回収などをしていた。宿泊は簡易な旅館。私たちが朝、車で会場に向かうと、1人で歩いて会場に向かう名人の姿を見かけることもあった。これを今の時代に照らし合わせて考えてみていただきたい。H生善治九段が1年に10回以上青森を訪れ、みなさんと気軽に交流し、簡易な旅館に宿泊して案内も必要なく、大会の片付けまでやっているようなものだ。
 金浜療護園を訪問していただいた時のこと。「将棋を分からない方もいるでしょうから、指導対局より講演の方が良いですかね」と名人自ら提案があり、終わってささやかな謝礼を伸べても受け取らなかった。みーくんが県名人戦で優勝した時も、朝の時間に観戦してもらっている。

S藤康光日本将棋連盟会長」
 S藤九段が青森での催しに招待され、予定の飛行機に間に合わずに急遽次に飛び立つ便に代えて秋田からタクシーで駆け付けた話は、島朗九段の著作「純粋なるもの」に書かれている。青森に来るたびにその話を出されるのでもう時効でいいと思うのだが、待っていた方の観点から書いてみたい。
 その催しは「金浜王将戦」の前夜祭だった。一般の人が参加する形でなく、関係者だけの6、7人の会食だ。S藤九段の立場は「前竜王」で、翌日は大会審判長となる。予定の飛行機に乗れなかったとの連絡が入ったときは、そんな大ごとになるとは思わなかった。それで、いる人たちで飲み始めた。
 考えるべきは、この部分だ。以前「青森県将棋まつり」の前夜祭で、招待棋士から「遅れて時間内に到着不能」と連絡が来たときは、ホテルの床にひっくり返った。1万円の会費で入場してもらって目玉の棋士がいないのでは、参加者に申し訳ないからだ。たぶんS藤九段は、そのような催しをイメージしたのだと思う。
 結局、2時間くらい遅れてお店に現れた。事の次第を聞いた時は、その責任感に申し訳なく思った。その場に居たのはみーくんとか、同じ穴のむじなの人たち。飲んでさえいればいいわけだから。

H生善治九段」
 県連50周年記念事業のときは、H生四冠(当時のタイトル数)に2日間もお仕事をしていただいた。初日は、到着してから前夜祭まで時間があった。いつもお忙しい体なので、近場の観光名所でリフレッシュしていただければと思った。ただし催しのときのみーくんは無数の用件を抱えている。そこでM上誠一先生と共に、K太母K太郎母に案内役をお願いした。
 K太郎母によると、アウガの新鮮市場やワ・ラッセを回ったあと、H生四冠は八甲田丸に興味を示したそうだ。だがそのときは「東北六県会長会議」に出席していただく時間が迫っていた。母たちは、みーくんの予定は、てきとーでいいことを知っている。「じゃ、八甲田丸へ」と向かおうとしたけれど、冷静で責任感の強いM上先生は会議の方へ一行を導いた。もし今度いらしていただける機会があれば、連絡船へご案内したい。

M内俊之九段」
 M内八段(当時)から「一度、本場で本格的に勉強したい」との希望は伺っていた。ちょうどいい頃合いに鰺ヶ沢町でT川浩司棋聖H生善治四冠が挑戦する第71期棋聖戦5番勝負第2局の公開対局があった。鰺ヶ沢町は、世界選手権が開かれる西津軽郡に含まれる。本場と言っていいだろう。合宿でゴニンカンを極め、ついでに棋聖戦も見学する計画を立てた。プロ側はM内俊之八段N田功六段U山悦行五段。アマ側は、腕に覚えのある将棋愛好者。会場は地元の民宿で、大部屋にビニール製の簡易プールを持ち込んで、氷でビール等を冷やし、夜通し戦いながらも、空いた時間で指導対局もあるという、充実の合宿だった。
 このとき、みーくんは不思議な体験をした。前夜祭が終わり、それだけでは飲んだうちに入らない。次の場所を求めて彷徨っていると「面白いことが行われている秘密の場所に案内しますよ」という人が現れた。みーくんは方向音痴な上に、鰺ヶ沢は不案内だ。誘導されるままに、付いていった。到着した場所はなんと、前夜からみなさんが真剣に戦ってる場所で、みーくんも宿泊するところ。つまり、単に民宿に戻っただけだった。どこが秘密なのか分からない。
 翌日は棋聖戦本番。M内八段が大盤解説の会場に到着すると、場の空気を支配してしまった。みんなと遊んでいたM内君から、A級八段に変わった瞬間だった。本当は、そっちの世界の人だ。かぐや姫みたいだね。

K村一基九段」
 K村九段は三段時代、奨励会トーナメントで複数回優勝して青森を訪れている。四段に昇段した時、M上誠一先生がお祝いは何がいいか聞いたところ、「温泉に行きたい」との希望があった。そこでどうせならと、電気が届かない秘境で、夜はランプの灯りしかない宿にした。そして全く予想しなかったことだが、偶然、その温泉は混浴だった。
 みーくんが酔っぱらって寝てしまった深夜、木村四段を始め意識のある人たちが露天風呂を楽しみに行った。しばらくすると、若い西洋人の女性たちが団体で入ってきたという。外国人の方は経費節約でテントに泊まり、温泉だけ利用したようだ。多勢に無勢。みなさん、いたたまれなくなって、早々に逃げ帰ったそうだ。W辺会長が同行したらどうなっていたか、気になるところだ。

N方尚史九段」
 「文部科学大臣杯」は平成17年に始まった。第1回と第2回は、中学生2人と小学生3人の県単位でチームを作る5人制の団体戦だった。その第2回の代表選手は中学生がK藤俊介N川慧梧君。小学生が慧梧君の弟滉生君A部光瑠君K沢真己君だった。それでせっかく東京に来たのだからと、N方九段がみんなを焼肉に連れて行ってくれるという。お友達の棋士、K村一基九段も一緒だった。その焼肉屋さんは青森にないレベルで、絶品だった。特別に評判のいいお店を、事前に調べたらしい。
 ここがN方九段みーくんの違うところ。同じような状況でみーくんだと、歩きながら行き当たりばったりで焼き肉屋さんを探し、途中で居酒屋でも見つけると「こっちでいいんじゃない」と入ってしまいそうだ。人を大切にするN方九段の人気のわけが分かるだろう。
 お店の人が「ここのお肉は生でも食べられます」というので生でいただいた話は、前に書いた。いま思うと、お店の人がそう言ったからと言って、生で食べる人がいるものだろうか。この方面ではA部健治郎七段が、野生動物を好んで食べるということで、みーくんと近い。みーくんも前は雷魚だけでなく、雉とか猪を生でいただいていたが、これからは心を入れ替えて熱を通さなくてはいけないと思っている。新しいコロナウイルスの発生源になってはいけないからね。

「想像するしかない」
 50周年記念誌作成で、昔の資料を調べて目に留まったことがある。将棋の町として名高い旧M石町で、女流タイトル戦が行われたときのこと。対局場に虫が出没して困ったそうだ。女性は虫に弱い。手をこまねいていると町長さんがやってきて、ハエたたきで虫を退治してしまったという。偉い人で虫退治の達人というのは、珍しい。いまその資料は手元にないので想像するしかないが、その女流タイトル戦が行われた時期の町長さんだとその後、衆議院議員となり、さらには別方面の選挙に挑んで当選を繰り返しているはずだ。重ねて言うが想像なので、イニシャルを記すのは控えようと思う。

編集 阿部浩昭

「了」 

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