城下町弘前支部会員 将棋駒愛好者 弘山(こうざん)
将棋駒ものがたり(その1) 将棋駒ものがたり(その2)
将棋駒ものがたり(その3) 将棋駒ものがたり(その4)
将棋駒ものがたり(その5) 将棋駒ものがたり(その6)
将棋駒ものがたり(その7) 将棋駒ものがたり(その8)
将棋駒ものがたり(その9) 将棋駒ものがたり(その10)
番外編その1 番外編その2 番外編その3 番外編その4 番外編その5
将棋駒ものがたり(その11) 将棋駒ものがたり(その12)
将棋駒ものがたり(その13) 将棋駒ものがたり(その14)
将棋駒ものがたり (その1)
◆はじめに
将棋は、無限の面白さを持つゲームであり、古来より伝承された我が国の文化です。そして、将棋の楽しみには工芸品としての盤駒の見事さを味わうという面があります。それは決して棋道への精進とは無縁ではありません。
かつて大山十五世名人は将棋ファンへの講話の中で、「棋力の上達には、良い駒を持つことが大事です」と語っておられました。「良い駒で一手一手に真摯な思いを込めて指せば必ず棋力が伸びるはず」という思いがあったのでしょう。ここでは将棋駒の世界について、その一端をご案内したいと思います。
◆将棋駒の素材のいろいろ
将棋駒には、最も安価なスタンプ駒やプラスティック駒からはじまって、プロ棋士が対局に用いる高級駒に至るまで実に多くの種類があります。
木製の駒の材質は、安価なものではホオ・マユミ・サクラ・ツバキ・マキ・カエデなどが使われますが、中高級駒にはツゲ材が利用されています。この「ツゲ材」には四つの種類があります。
(1)シャムツゲ…中級品用の駒材。東南アジア産の木材で、「クチナシ」の木の一種です。「本黄楊」に比べると木質に粘りがなく色合いも劣ります。価格は安価でしたが、近年タイで輸出が禁じられたため入手が困難になっています。
(2)中国黄楊…中国大陸産の本黄楊材。国産のツゲに比べてやや安価です。材質にかなりばらつきがありますが、近年は良質なものも多く、高級駒の材料にも用いられています。
(3)薩摩黄楊…高級駒材。最も堅く使い込むと飴色に変化し指し手を魅了します。
(4)御蔵島黄楊・・・伊豆の御蔵島産。最高級の駒材。木目(柾目・虎斑・杢など)の美しさが魅力です。
◆書き駒・彫り駒・盛り上げ駒
スタンプ駒やプラ駒は一応除外すると、ある程度本格的な将棋駒は、駒のつくりから見ると、
(1)書き駒 (2)彫り駒 (3)彫り埋め駒と盛り上げ駒、という3つの種類に分類されます。
これらの種類の違いを駒の断面図で示してみましょう。
グレーの部分が駒の木地で、黒い部分が駒名を記した漆などの塗料です。
(1) 書き駒・・・駒木地に歩兵から玉将までの駒名を直接漆で書いたものです。かつて南北朝・室町時代から江戸期頃までは名筆家の書いた将棋駒が珍重されました。後に江戸後期からは、大衆駒用の下請けとして内職仕事で書かれ、中でも幕末頃からは、天童藩内で将棋駒が造られるようになり、今に伝えられています。
◇書き駒(やや安価なシャムツゲ材に新漆塗料で書き上げられたものが多い)
(2) 彫り駒・・・木地に駒名を書いた紙を貼って彫り、漆を塗って研ぎ出し、彫り跡を浮き立たせます。堅いツゲの駒木地と彫り跡に塗られた漆の対照が美しく、「高級駒とは彫り駒である」と考える人が一般には多いようです。
かつては駒職人が手彫りをしましたが、現在では、ほとんどの彫り駒は機械によって彫られたものです。また、手彫りの時代から、彫りの手間を簡略化するために、駒名の略字彫りが考案されていました。
駒名を正確に彫ったものが「上彫り」、やや略したものが「中彫り」、かなり省略の度合いがさらに大きいものが「並彫り」です。
多くの将棋ファンは、安価なプラスティック駒やスタンプ駒から始め、やがて彫り駒を求めるようになりますが、その時に手にするのがこうした略字の彫り駒のことが多いようです。
◇彫り駒のいろいろ ・駒文字が段々省略されていく様子をご覧下さい
1.上彫り駒
2.中彫り駒
3.並彫り駒
4.黒彫り駒
(3) 彫り埋め駒と盛り上げ駒・・・木地に駒名を彫った後で、そこに漆を埋め込み、完全に乾燥してから水平になるまで研磨して仕上げたものが「彫り埋め駒」です。この彫り埋めた部分に蒔絵筆などを用いて漆で駒名を書き上げたのが「盛り上げ駒」で、プロ棋士の公式戦対局にも用いられ、将棋駒の最高級品とされています。完成品は、一見すると書き駒に見えますが、漆が美しく盛り上がっていて芸術的雰囲気があります。ただ、出来上がるまでの工程に厖大な時間と労力を要するため、価格は非常に高価なものとなります。
参考までに、彫駒・彫埋駒・盛上駒の自作例写真をご紹介しましょう。駒材はいずれも御蔵島黄楊材です。駒文字の書体は、プラスティック駒でも一番ポピュラーな書体・「錦旗(きんき)」にしました。(同じ錦旗でも書体に微妙なニュアンスの違いがあることをあらかじめおことわりしておきます。)
三つの駒の種類の違いが分かるように少し大きめの画像でご覧下さい。
◇彫駒
◇彫埋駒 (まだ自作の彫埋駒を造ったことがないので、代わりに盛上直前の作例写真をご覧下さい)
一見スタンプ駒に見えますが、彫った跡に漆又は漆と砥粉を混ぜた「錆漆(さびうるし)」を埋めてカチカチに乾かしてからピカピカになるまで研磨して完成します。研磨した後、彫った線がキレイに出るかどうか一目瞭然となるため、彫埋を造るのが一番難しいという人もいます。
◇盛上駒
ここで思い出話を含めてひとこと。
もう20年以上前、物好きで将棋駒造りを始めた頃のことです。都内で趣味の駒造り作品展があり、そこで自分と同じように作品を眺めておられた少し年輩の方と、駒についてあれこれ話し合う機会がありました。まだ駆け出しの素人だった自分が軽い気持ちで「今は難しいと思うけど、将来は盛上駒を造ってみたい」と言ったところ、その方は「盛上駒が高価なのは手間が掛かるからです。でも本当に難しいのは彫埋の方だと思う。彫埋がきれいにできるようになれば、技術的に優れていることが分かる」と言われました。そして、ご自分の造られた彫埋駒の拡大写真を見せて下さいました。その彫埋駒の字は自然で、なめらかな曲線部分が流れるような筆致を示していました。讃嘆する自分にその方は、「自分では彫りはまだまだだと思っているんですよ」と苦笑されました。
数年後その方は将棋駒作者として確固とした名声を得て、都内で作品展を開かれました。ただ作品展の展示駒はすべて彫駒で彫埋駒は一つもありません。理由を尋ねると、「彫埋はもう造っていません。やはり彫埋は盛上あっての彫埋だと思います。いまは彫りだけになってしまいました」とのことでした。きっと彫埋に打ち込むことで彫りの技術がかなりの高みに到達したことが分かったので、彫埋駒は「卒業」して大好きな彫駒造りに集中して取り組むようになったのかな、と自分なりに解釈しました。
その後自分も駒造りの魅力にハマって彫駒から盛上駒造りに進み、15年以上が過ぎました。盛上駒造りでは必ず「彫埋」の段階があり、その時自分の仕上げた彫埋駒と対面するわけですが、その都度やはり自分の彫りの技術の未熟さを痛感しています。彫埋駒としての完成品は永遠の課題のままになっています。
将棋駒ものがたり (その2)
◆将棋駒の歴史(1) 平安から室町・戦国時代へ
我が国で現在確認されている最古の将棋駒は、11世紀半ば・平安時代の駒です。下は奈良・興福寺旧境内で発掘されたもので、五角形の木地に現在と同じ駒名が墨で書かれています。「木簡」という木札を再利用したと思われる素朴な造りですが、おそらく興福寺の僧侶たちがこうした駒で将棋に興じていたのでしょう。また、ほぼ同時代と見られる駒が奥州・平泉の中尊寺でも出土しています。このことから11世紀には将棋が日本各地で広く遊ばれていたと考えられています。
◇興福寺で出土した将棋駒の例 (増川宏一『将棋の起源』(平凡社ライブラリー)の掲載図より)
ただこうした素朴な駒とは別に、もっと高級な駒もあったはずだと想定する人もいます。公家たちの日記などには、天皇・関白・左大臣など身分の高い人々が将棋で遊んだという記述が見られます。例えば藤原定家は、1カ月に5回も関白や大臣の御前で将棋を指していますし、後鳥羽上皇も近臣たちに将棋を指させてその棋力に批評を加えた記録が残されています。上皇の御所には碁盤と共に将棋盤も常備されていました。こうした身分の人々が用いた盤駒は、それに相応しい造りの高級品だったと考えるのが自然だという見方もできるでしょう。
また、鎌倉から南北朝時代の文芸作品の中には「将棋倒し」という語が出てきます。駒を倒して遊ぶためには立たせた駒を並べる必要がありますが、興福寺の駒では立たせるのが一苦労でしょう。やはりある程度形の整った駒が行きわたるようになっていたのではないか、と想像されます。また、南北朝期には将棋駒の字の書き方について述べた書道の本も現れています。素朴なインスタント駒から本格的な駒へと将棋駒が進化していったのかもしれません。そして、室町時代には公家たちの間で将棋の駒書きを行うことが流行し、特に能筆家の揮毫した駒はかなり珍重されました。
16世紀になると将棋の駒書きの専門家とも呼ぶべき能筆家が現われます。その代表者が、権中納言であった水無瀬兼成(1514〜1602)で、彼は注文に応じて、職人に造らせた駒木地に墨や漆で厖大な数の駒書きを行いました。兼成の書いた「水無瀬駒」は、最高級品とされ、その依頼主は天皇・公家や大名たちでした。特に豊臣秀次と徳川家康・秀忠父子は最大の顧客で、注文した多数の将棋駒を有力者への贈答品に利用したと考えられています。
◇「水無瀬駒」(大阪府島本町・水無瀬神宮蔵)
*『日本の美術 32 遊戯具』(至文堂)より *上は水無瀬駒を模して筆者が制作した盛上駒です
◆将棋駒の歴史(2) 江戸から明治期へ
江戸時代に将棋が広く普及すると、職人たちが良質の駒を造るようになりました。やがて江戸時代の中期から後期にかけて彫駒が造られたのではないかと推定されています。幕末期には将棋の家元で「彫埋駒」もつくられるようになりました。この「彫埋駒」から、現在最高級駒とされる「盛上駒」が生まれたと考えられています。
(・将棋家元が造ったとされる彫埋駒・「水無瀬形」の写真をインターネットで見ることができます
URL… www.geocities.jp/monkey007no1/koda/kigu/oohashi/hiyoji.html )
江戸時代、将棋駒製造の中心地は大阪圏でした。大阪では駒の素材として、大衆向けのツバキ・ヤナギなどと共に、高価な駒のために薩摩黄楊が用いられていたようです。江戸後期に現れた彫り駒は、当時の庶民の中でも少々裕福な層が用いた高級駒だったと思われます。大阪には高級駒を専門的に造る工房もあったといわれています。また高級な彫駒から彫りの手間を省いた略字の駒が中級の彫駒として考案されるようになったと思われます。こうした略字彫りの駒は、「ごんた駒」とか「大阪彫り」の駒と呼ばれました。関西地方に今も伝わる「芙蓉」はこの系統の書体といってよかろうと思います。
また多数の庶民に将棋が広まると、大衆向けの安価な書き駒がさらに大量に求められるようになりました。そこでその下請け生産地となったのが東北の米沢藩や天童藩です。これらの藩では、内職として盛んに将棋の駒が造られるようになりました。マキやホウノキなどの安手の木地に駒銘を草書で書いた草書の書き駒が、現在の天童の将棋駒のルーツであるとされています。
◇関西の「芙蓉」の彫駒 ◇天童の伝統的な草書の書き駒 (明治期)
*増山雅人『将棋駒の世界』(中公新書)より *天童市将棋資料館のパンフレットより
明治期においても、相変わらず中級駒と高級駒の生産の中心地は大阪でした。これに対して、安価な草書の書き駒生産の中心地だった天童では、ある程度駒造りの組織が確立し、その生産数で大阪や名古屋を凌ぐようになりました。しかし、大衆駒は天童で造られたにもかかわらず、問屋を通じて東京や大阪の専門店舗から全国に販売されたため、この頃は天童特産であることは意外に知られていませんでした。
・「将棋駒の歴史」についてはこれ以降も続きますが、下記の資料を参考にしています。
関係各位には心より感謝申し上げます。なお、資料のうち、☆は入手しやすいものですが、★はたいへん参考になりますが、手にするのが難しいものです)
☆ 『天童市将棋資料館』パンフレット(資料館にて販売されています)
☆ 増川宏一『将棋T・U』(法政大学出版局 1977, 1985年)・『将棋の起源』(平凡社 1996年)
☆ 増山雅人『将棋駒の世界』(中公新書 2006年)
★ 『駒のささやき』(駒研出版会 1996年)
★ 熊澤良尊『名駒大鑑』(名駒大鑑刊行会 1981年)
★ 『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒−将棋駒のルーツを探る』(天童市将棋資料館 2003年)
★ 「駒と木を訪ねて」(『近代将棋』1999年〜2002年掲載記事)
★ 鵜川善郷・河井邦彦「銘駒研究室」(『近代将棋』2006年〜2008年掲載記事)
★ 宮川泰夫「天童将棋駒産地の変質」(『愛知教育大学研究報告41(社会科学編)』1992年)
★ 天童市役所商工観光課『天童と将棋駒』(1991年)
☆ インターネットサイト『駒の詩』(http://8ya.net/suiki/)
☆ インターネットサイト『銘駒図鑑』(http://meikoma.com/)
☆ インターネットサイト『銘駒集覧』(http://www.geocities.jp/monkey007no1/koda/kigu/kigu.html)
将棋駒ものがたり (その3)
◆近代の将棋駒(1) 東京駒の名匠の登場 豊島龍山と奥野一香
大正時代の半ばから昭和にかけて将棋駒の工人には次々と名匠が現われ、彼らは多数の傑作をこの世に送り出しました。その中で「近代将棋駒の祖」とも評されるのが、「龍山」の号を持つ親子・豊島太郎吉(1862〜1940)と豊島数次郎(1904〜1940)の二人でした。
父の太郎吉は、自分では駒を造らなかったようですが、経営する盤駒店で職人を雇って駒を造らせ、売り出した駒には「龍山」の銘を入れました。また、駒の書体の創作に力を入れ、20種類以上の書体を『豊島字母帖』にまとめました。この中には、「錦旗」「水無瀬」「源兵衛清安」「菱湖」など将棋駒の書体として「定番」となったものがあります。さらに太郎吉は、黄楊材の素材としての美しさに着目し、今までは捨てられることの多かった柾目以外の木地の中で美しい模様を見せるものを「虎斑(とらふ)」、「杢(もく)」などと命名し、高級駒材として売り出しました。彼は、工芸品としての将棋駒に芸術的価値を与えたのです。
そして、太郎吉の下で幼少時から駒を彫り始め、十代半ばには超一流の職人に成長したのが息子の数次郎でした。彼は三十代半ばの若さで亡くなりましたが、彼が遺した「龍山作」の駒は今でも収集家垂涎の銘品となっています。近年TV番組「何でも鑑定団」に出品された豊島龍山作の盛上駒には途方もなく高価な評価額が出て、視聴者の方々を驚かせました。
◇豊島太郎吉と数次郎 ◇豊島字母紙帖の一部 ◇駒木地・虎班 ◇駒木地・杢
(『駒のささやき』(駒研出版会)より)
豊島父子とほぼ同時代に活躍したのが、やはり東京・芝宇田川町で盤駒店を経営していた奥野一香父子(初代・藤五郎:1866〜1921、二代・幸次郎:1899〜1939)です。
奥野と豊島とは交流があったともいわれ、互いに競って駒の書体を創作したことが知られています。例えば「錦旗」という同じ名でも豊島と奥野では全く異なる書体が考案されました。そこで、現在は奥野が売り出した「錦旗」の方を「奥野錦旗」と呼ぶのが慣わしになっています。
奥野作の駒で最も有名なのは、将棋連盟所蔵の「名人駒」です。この駒は戦後間もなく将棋連盟に寄贈されたもので、現在でも名人戦の第1局で必ず使用されることになっています(インターネットサイト『駒の詩』の中に写真がありますのでご覧下さい。URLはhttp://8ya.net/suiki/meiko/okuno/index.htmlです)。駒尻の書体銘は殆ど消えていますが、かつては「宗歩好」と記されていました。宗歩とは江戸末期の「棋聖」・天野宗歩(1816〜59)のことですが、実際に宗歩がこうした書体の駒を愛用したということではなく、江戸後期の「安清」という駒の文字を奥野がアレンジし、この創作書体を「宗歩好」と命名した、という説が有力です。
◇初代奥野一香 ◇龍山の「錦旗」と「奥野錦旗」
(『駒のささやき』(駒研出版会)より)
◆近代の将棋駒(2) 昭和の東京駒の名匠たち ― 木村・影水・静山・竹風
戦後我が国が廃墟から復興していく中で、将棋駒の世界でも次々と名匠たちが活躍するようになりました。その中で既に戦前から知られていた駒師が木村文俊(1908〜84)です。彼は少年時代に豊島のもとで短期間修業をした後、すぐに独立して下町に盤駒店を開きました。そこには実兄の十四世名人・木村義雄 (1905〜86)の後ろ楯がありました。名人の威光もあって戦時中から戦後にかけて彼の駒は一世を風靡しました。その頃が木村の絶頂期とされ、殺到する注文をこなすために他の職人に下請けさせたものも多かったと云われています。木村名人の書から採った「木村名人書」の駒は、木村だけが造ることの許されるものでした。なお、木村駒と言えばやや細身で傾斜の少ない駒形が知られていますが、こうした形は後期になって採用されたものです。
◇駒を造る木村文俊 ◇木村名人書の字母紙 ◇木村文俊作・木村名人書
(『名人 : 町の伝統に生きる人たち』より) (『駒のささやき』(駒研出版会)より)
昭和30年代に入ると木村に代わって宮松影水(本名:幹太郎 1928〜72)が「天才駒師」として脚光を浴びるようになります。彼の父・宮松関三郎はプロ棋士の傍ら戦時中から駒造りをしていました。ところが戦後昭和22年に急逝したため、子息の幹太郎が大学を辞めて後を継ぎました。彼は努力に努力を重ねて、やがて駒師・影水として頭角を現すことになりますが、実は以前から彼の近くには駒造りの達人というべき人物がいました。その人物とは豊島家で駒を彫っていた金井静山(本名:秋男
1904〜91)です。静山は、戦前師匠の豊島父子が相次いで急逝した後、遺族の懇願に応じ「龍山」銘の駒を造り続けるために10年以上にわたって尽力しました(なお、静山が関わった龍山銘の駒は「龍山静山の駒」とも言われています)。静山は、宮松の父・関三郎が駒造りを始めた時から駒彫りのコツを教えていたので、関三郎の死後も子息の影水にも様々の助力をしたと云われています。こうした繋がりを背景に、宮松は、技術的研鑽を積みながら、持ち前の探求心で漆・駒木地の形・材質・書体などについても研究を重ねて、独自の華やかな作風を確立しました。こうして昭和30年代に宮松の駒は、愛棋家たちから抜群の評価を受けるようになりました。しかし、芸術家肌故に全盛時の作品数が少なく、さらに惜しまれながら若くして亡くなったため、「影水駒」は、現在でも蒐集家の人気ナンバーワンの銘駒となっています。
なお、影水が他界した後もしばらくの間「宮松」銘の駒は造られましたが、これは金井静山の手になるものです。静山は、豊島のもとでは彫りを手伝っていましたが、戦後になると盛上の技術を極め、この頃には既に駒師として一流の地位を確立していました。駒を受注したまま43歳で急逝した宮松の遺族の窮地を見かねて救いの手を差しのべたのです。その後静山は駒師の第一人者とされるようになりました。しかし、彼の真骨頂は、影の作家時代も含めて、生涯黙々と駒を造り続けた点にあると思います。その意味で静山こそ「真の名匠」の名に値すると考える人も多いようです。
そして、昭和最後の東京駒の名匠が大竹竹風(1914〜2005)です。元々東京神田で櫛屋の子でしたが、黄楊材を扱う縁で奥野駒を造っていた職人の松尾氏から将棋駒の造り方を学びました。戦災で父の郷里の新潟に移り、戦後もそのまま一家で協力しながら駒を造り続けました。「竹風」駒は、現在二代目竹風(大竹日出男氏)に引き継がれています。
ここで取り上げた東京駒の名匠たちが造った見事な作品については、前回ご紹介したインターネットサイトの『駒の詩』・『銘駒図鑑』などで作例を見ることができます。また、このうち豊島・奥野・宮松については、以下のサイトにさらに詳しい記述がありますので、関心をお持ちの方はご覧いただき、参考になさって下さい。
・「豊島龍山 駒師」(http://www.toyoshimaryuzan.com/)
・「奥野一香 駒師」(http://www.okunoikkyou.com/)
・「宮松影水 将棋駒師」(http://www.miyamatueisui.com/)
◇駒を彫る宮松影水 ◇制作中の駒を眺める金井静山 ◇影水の錦旗と静山の錦旗(玉将と歩兵)
(『駒のささやき』(駒研出版会)より)
なお今回ご紹介した名匠のうち、金井静山作の盛上駒は、かなり前に青森県連に寄贈され、現在でも県連の大会の決勝などで用いられることもあるということです。先頃鑑賞する機会があり、拝見すると、かなり古い駒で裏の成面は盛上げた漆がかなりすり減っていますが、柔らかな筆致が感じられる見事な駒でした。このほか、県連には宮松美水(影水夫人)・国井香月・会田一舟作の盛上駒が寄贈されており、これらも重要な対局で使用される駒です。さらに昨年これらの銘駒に加え、岩谷良雄氏から大竹竹風作の盛上駒などが寄贈されました。これらの銘駒についても先頃拝見することができましたので、やがてお許しを得た上でこのページでご紹介できればいいなあ、と考えております。
なお、このページではこれからも将棋駒について思うままに色々なことを述べていきますが、中には筆者の誤りや思い込みがかなり含まれているかもしれません。至らぬ点はご容赦いただけば幸いです。
次回は将棋駒の故郷として知られる天童の駒造りの歴史について述べてみたいと思います。
将棋駒ものがたり (その4)
◆天童将棋駒の展開
(1) 書き駒からスタンプ駒へ
山形県の天童では、明治維新後も旧下級士族を担い手とする駒造りが盛んでした。明治末に刊行された『木材ノ工芸的利用』(1912年・大日本山林会刊)によれば、天童の将棋駒製造者は13戸で大阪の10戸を上回っており、駒の生産が「天童其過半ヲ占ムトイフ」と記されていることからも、既にこの頃天童が大阪を抑えて将棋駒の最大の生産地になっていることが分かります。
ただ、大阪では大衆向けの駒だけでなく、高級素材の薩摩黄楊を用いた彫駒も造られていたのに対して、天童ではマキ(マユミ)やホウノキのような安価な材質に直接草書で駒名を記した書き駒だけでした。こうして大衆向けの安価な書き駒の最大生産地に成長する中で、駒木地の成形を行う「木地師」と駒名を書く「書き師」の分業が進みました。「書き師」の下の徒弟を「書き子」といい、最も安価な駒は、学童が小遣い銭程度の駄賃で書くこともありました。子供たちには、まず一番簡単な「と金」を書かせ、書き子として見込みのある者の中には、歩兵から香車・桂馬・銀将・金将・角行・飛車と進み、玉将を書く一人前の職人となった者もいましたが、熟練までには10年以上を要したとされます。
こうして昭和の初め頃には天童の将棋駒制作は、従事者数が女性や子供も含めると300名近くを数え、生産数も70万組を超えるまでに達するまでに成長しました。ただ、家内工業は問屋によってからの前貸しによって成り立っていたため、一方的にきわめて安い製品価格を押し付けられていました。そのため親方になっても収入はきわめて乏しく「駒屋は貧乏暮らし」というのが世間一般の評価でした。
なお、先の資料『木材ノ工芸的利用』には、大阪の書き駒に関して「近来其一種ニ改良書キトテ護謨(ゴム)判ヲ以テ捺押シタルモノ流行ス」という記載があり、すでに明治時代には大阪でゴム印を用いた「スタンプ駒(押駒)」が考案され、省力化と大量生産で大衆駒の主力になりはじめていたことが分かります。大阪発のスタンプ駒は、おそらく天童の伝統的な書き駒にかなりの打撃となったと思われます。しかしやがて天童でもゴム印が造られ、小学生にスタンプ駒を造らせるようになると、工賃の差は明白で、昭和初めまでにはスタンプ駒でも完全に大阪を上回るようになったようです。
(2) 木地造りの機械化と彫駒造りのはじまり
明治の末から大正年間にかけて将棋駒木地造りの工程は順次機械化され、昭和初期には大量生産が可能になって天童は将棋駒の生産数で他の産地を圧倒するようになりました。また大正初期からは、彫駒の分野でも大阪駒をしのぐ品質の高い駒をめざす試みが現われました。一つは印鑑造りの技術を応用した彫り駒造りでした。また同じ頃、前回取り上げた奥野一香の工房で東京の高級駒の制作技術を学び、彫り駒を造る者も現れました。これらの駒は大阪の彫駒を上回る見事な出来栄えでした。しかし、残念ながら制作量が限られ価格も非常に高かったため、天童将棋駒の主流とはなりませんでした。それでも、省力化の可能な略字彫りが考えられると、生産数では書き駒(53.7%)やスタンプ駒(42.4%)に比べるとごく僅か(3.8%)ではありましたが、天童でも彫駒が造られるようになりました。
・表1 戦前の天童の将棋駒の種類別生産数と生産額(学者たちによる昭和11年の現地調査から)
材質・種類 | 生産組数 | 金額(円) | 販路 | *材質別の将棋駒生産数(行軍将棋駒を除く) 朴(ホオノキ)…450,000組 (63.6%) 葉廣(ハビロ[ハクウンボク])…85,000組 (12%) 槇(マキ[マユミ])…170,000組 (24%) 黄楊(ツゲ)…2,000組 (0.3%) *種類別の将棋駒生産数(行軍将棋駒を除く) 書き駒…380,000組 (53.7%) スタンプ駒…300,000組 (42.4%) 彫駒…27,000組 (3.8%) |
槇書き駒 | 150,000 | 9,300 | 全国 | |
槇彫駒 | 20,000 | 5,000 | 全国 | |
葉廣書き駒 | 80,000 | 3,200 | 全国 | |
葉廣彫駒 | 5,000 | 800 | 関西・東京 | |
朴書き駒 | 150,000 | 2,850 | 全国 | |
朴印押駒 | 300,000 | 4,800 | 関西方面 | |
黄楊彫駒 | 2,000 | 1,600 | 全国 | |
行軍将棋駒 | 278,000 | 7,506 | 全国 |
(山口彌一郎「標式的街村山形県天童町の調査」による) (左の表の数値から計算したもの)
・戦前の天童の将棋駒造りに関わった人々のすがた
駒木地を製造する「木地師」 児童の「書き子」による駒書き 彫駒造りをする「彫師」
(いずれも 山口彌一郎『東北の村々』(恒春閣書房 1943年刊)より)
(3) 戦時中から戦後の時代と天童の将棋駒
昭和の戦時体制下では、将棋駒が慰問袋の中の定番商品とされ、書き駒とスタンプ駒を中心として天童での将棋駒生産はさらに急増しました。この頃は家内工業としての駒製造がフル回転をしても追いつかないような忙しさだったようです。こうして戦時中に、天童は全国の将棋駒の製造の9割以上という独占的地位を確立しました。
・戦時下の慰問袋と将棋駒 (天童市将棋資料館のパンフレットより)
敗戦により一時的に将棋駒の生産は激減しましたが、1950年代からの経済成長期に伴う余暇の拡大で将棋が普及し、ほとんどの家庭に必ず折りたたみ盤と駒が常備されるほどになりました。下の表2を見ると、天童の将棋駒生産のピークは1965(昭和40)年頃で、実に700万組を超える将棋駒が天童で造られていました。ただしこの頃の将棋駒の家庭への普及の主役は、安価なスタンプ駒であり、天童伝統の書き駒は年々生産量が低下していきました。そして表3からも分かるとおり、やがて生産数量で彫駒にも抜かるようになり、ついに1980年頃には書き駒の工人もわずか数名にまで激減してしまいました。
表2 天童の将棋駒量の戦後の生産推移 (「天童市史」・「市工業統計」などから作成)
1951 | 1956 | 1960 | 1962 | 1965 | 1970 | 1974 | 1980 | 1985 | 1990 | 1995 | 2000 | 2004 | |
(S26) | (S31) | (S35) | (S37) | (S40) | (S45) | (S49) | (S55) | (S60) | (H2) | (H7) | (H12) | (H16) | |
生産額(万円) | 2000 | 3000 | 6000 | 8500 | 10200 | 21100 | ― | 47131 | 28794 | 32981 | 31547 | 21498 | 17258 |
生産量(万組) | ― | 224.6 | 500 | 600 | 700 | 450 | 280 | 250 | 130 | 100 | 100 | 80 | 50 |
表3 将棋駒種類別の生産高の推移(1956年と1974年)
年度 | 生産数量 | 駒の種類別の組数 | ||
スタンプ駒 | 書き駒 | 彫駒 | ||
1956年 | 2,246,000組 | 1,710,000組 | 450,000組 | 73,000組 |
1974年 | 2,800,000組 | 2,630,000組 | 10,000組 | 160,000組 |
(4) 彫駒の全盛時代
もう一度表2を見ると、戦後の将棋駒の生産数量のピークは1965年の700万組ですが、金額から見るとピークは1980年で、生産数量は250万組とかなり減少しているのに金額は約4.5倍になっています。経済成長に伴う物価高騰の影響もあったとは思いますが、将棋ファンの嗜好が大衆品から中高級品に移り始め、スタンプ駒に代わって高価な彫駒の比重が高まったためだろうと考えられます。さらに国民生活の向上に伴って彫駒の人気もより高級な商品に移って行きました。駒の素材は、安価な地元材よりもプロ棋士が用いる最高級の本黄楊駒に近いものを求める需要から、シャムツゲ(東南アジア産のツゲに似た木材)が人気を集め、簡素な略字彫りに代わってやや高価な上彫りの方が売れるようになりました。
こうして、手彫りではとても彫駒の需要に対応しきれなくなると、東京で考案された将棋駒の機械彫りが天童にも導入されました。駒彫りの機械は、簡単に言うと製図に用いる拡大器具に似た機械で、予め拡大した駒文字を彫ったボードの部分と、隣に駒木地の上に歯科医院にあるようなドリルをセットした部分から成っています。機械を操作する人は、ボードの前に坐って、コンパスの先端部分でボードの駒文字をなぞります。すると隣の駒木地の上にセットされたドリルが同じ様な動きでボードの文字を正確に縮小した文字を彫って行きます。こうして正確な仕上がりの彫駒が一枚ずつ出来上がります。手彫りに比べると、熟練の彫師も必要とせず、しかも彫駒一組が完成するまでの時間が大幅に短縮されるので、機械彫りの駒の比率はどんどん高まって行きました。近年彫り駒は全生産金額の70%以上を占めていますが、その95%以上は機械で彫られています。手彫りで駒を造っているのも、やはりごく少数の名匠に限られるようになっています。
・天童で造られた彫駒 手彫りと機械彫り
・シャムツゲの手彫り駒(初代天一作)
・シャムツゲの機械彫り駒
(なお天童での将棋駒生産額は1980年の4億7千万円余を頂点に減少傾向となり、1985年には3億円の大台を割り込むようになりました。その後1990年代前半にかけて回復したものの、90年代末からは再び減少が続き、2004年には生産金額が2億円を下回り1億8千万円、生産駒数は50万組まで落ち込みました。)
(5) 名工たちの活躍
天童は生産数で日本一の将棋駒名産地でしたが、最高級駒の盛上駒に関しては、以前から造られていたにもかかわらず、長らくプロ棋士の対局用の高級駒として認知されるには至りませんでした。1951年の第1回王将戦第6局(木村名人対丸田八段戦)が天童で開催された時にも地元駒師作の盛上駒は対局駒の候補にはなったものの、検分でパチリと盤に当てられただけで採用されることはありませんでした。当時地元の若手駒師で、後に「現代の名工」に選ばれることになる伊藤久徳師(本名・孝蔵氏:1918〜97)は、「天童の盛上駒はどうしてだめだったのか、何としても理由を知りたかった。理由のわからないのが、一番悔しかった」とその時の心境を述懐しています(『匠の技と形』2001年・講談社刊)。
この屈辱と悔しさをバネにして天童の工人たちは研鑽に研鑽を重ねました。ようやく1980年2月王将戦第5局(加藤王将対大山十五世名人戦)に、1日目だけですが久徳師作の駒が採用され、初めてタイトル戦で天童駒が用いられました。そして久徳作の盛上駒は翌年の名人戦第2局(中原名人対桐山八段戦)でも対局駒に選ばれます。これをきっかけにして、国井香月師(本名:重夫氏)、桜井掬水師(本名:和男氏)、村川秀峰師(本名:邦次郎氏)、児玉龍兒師(悌二氏)など、山形県の駒師で最高水準の駒を造る作家が相次いで登場し、ついに「天童駒は大衆駒」というイメージが一新されました。そして、昭和から平成の世になり、現在将棋のタイトル戦では、天童を中心とするの手になる作が最も多く用いられるようになっています。
なお、天童をはじめとする山形県の将棋駒に関しては、インターネットからも知ることができます。
・山形県ふるさと工芸品 (https://www.pref.yamagata.jp/ou/shokokanko/110010/kogeihin/sp03-1.html)
・山形県将棋駒協同組合のホームページ (http://tendocci.com/koma/)
・天童市「天童と将棋駒」(https://www.city.tendo.yamagata.jp/tourism/kanko/tendo-syougikoma.pdf)
・掬水の駒ブログ(http://kikusuinokoma.blog.fc2.com/)
・児玉龍兒公式サイト(http://kodamaryuji.jp/)
将棋駒ものがたり (その5)
◆将棋駒の書体について
*将棋駒の書体の展開
将棋駒の書体には実に多くの種類がありますが、その多くは近代になってから駒師たちによって考案されたものです。その際参考とされたのは、江戸期以前の将棋駒の書体でした。その中で最も古いのがこのコラムの「第2回」で述べた水無瀬駒です。
かつて将棋駒は能筆家の公家が余技として書いたものでした。その代表者は16世紀末の権中納言・水無瀬兼成です。大阪府島本町の水無瀬神宮には、兼成の制作した小将棋の駒と中将棋の駒が遺されています。これらは現存する最も古い伝世品の将棋駒です。
この他に水無瀬神宮には兼成の記した『将棊馬日記』という史料が伝えられています。それによると兼成は1590(天正18)年から1602(慶長7)年までの13年間に実に735組の駒を制作しました。これだけでも驚きですが、彼の手になる将棋駒はそれよりもずっと多かったと考えられています。兼成は1514(永正11)年の生まれですから、『将棊馬日記』を記し始めたときは70代後半になっていました。それまで一度も駒書きをしたことがなかった人物が突然厖大な数の将棋駒を制作したと考えるのは不自然だろうと考えられるからです。
また、彼は元々水無瀬家の生まれではなく、三条西家から養子として迎えられた人物でした。そして、祖父に当たる内大臣の三条西実隆(1455〜1537)の日記には青年時代から晩年まで少なくとも20組以上将棋駒書きをしたという記事を見ることができます。兼成は水無瀬家の嫡子となってからも頻繁に実隆邸を訪れていますので、祖父の晩年の駒書きを目にする機会があったかもしれません。兼成の将棋駒制作は若い頃から行われてきた可能性が大きいように思われます。
(島本町教育委員会編集の冊子・『水無瀬駒』(2009年)、熊澤良尊氏の『名駒大鑑』(1981年)・
「水無瀬駒を探る」(『日本文化としての将棋』(2002年)所収) の他に、実隆の日記『実隆公記』
(続群書類従完成会・太洋社刊) などを参考にしました)
ともあれ、兼成筆の「水無瀬駒」が今に伝えられており、これが将棋駒の書体の源流だという可能性は大きいと考えられます。駒制作を趣味とする者なら誰でも一度は、水無瀬駒の書体で駒を造ってみたいと考えるのではないかと思います。筆者も実際二度ほどトライしたのですが、残念なことに実際制作した駒は、決して満足のいく出来栄えとはなりませんでした。
8年前に大阪府島本町で水無瀬駒の展示会があり、はじめて水無瀬駒の実物を鑑賞する機会に恵まれました。写真撮影が禁止されていましたので、瞼にその印象をしっかりとらえようと眼を凝らして鑑賞しました。さらに入手した資料から、もう一度水無瀬駒の書体で盛上駒を造ってみようと考えるようになりました。こうして完成したのが下の駒です。もちろん実物とは雲泥の差だということは明らかですが、或る程度の達成感を得ることができたと思っております。
水無瀬駒を元に2012年に制作した弘山作の盛上駒(薩摩黄楊材)
江戸期に入ると将棋の流行に伴い、公家の能筆家だけでなく、駒書きの専業者と思われる人々が現われるようになりました。例えば、「俊光」という名と花押が駒尻に記された小将棋駒が複数組と中将棋駒一組が確認できます。また、将棋家の大橋家の文書の中に代々の家宝として「守幸筆」の駒の駒があったことが記されています。さらに江戸後期から末期にかけて「安清」「真龍」「金龍」などの銘を持った駒が現われています。これらは書体銘であると共に、将棋駒を制作する専業者の工房名を表すものだったと思われます。(なお、「俊光」銘の駒などの画像は「駒の詩」のサイトから見ることができます。http://8ya.net/suiki/siryou/siryou/15tosimitu.html)
*近代以降の将棋駒の書体
現在見られる将棋駒の多彩な書体のほとんどは、大正から昭和初期にかけて豊島龍山・奥野一香をはじめとする駒師たちにより創作されたものです。しかし、将棋駒の書体を記した字母紙は、各工房で「門外不出」とされてきました。そのため、どのようにして制作されたかは、「秘中の秘」として一切語られることはありませんでした。従って以下に述べる書体の成立に関する話にもかなり不確実な要素が含まれることは否定できません。
書体の主なものを下に挙げました。これらの中で、最もひろく親しまれているのは、「錦旗」「水無瀬」「源兵衛清安」「巻菱湖」の四つの書体で、「四大書体」とも呼ばれることもあります。まずこれらを取り上げたいと思います。
(1)「水無瀬」の書体について
この書体は、プラスティック駒にも採用されているので、最も広く知られているものかもしれません。「水無瀬」の名から水無瀬兼成筆の駒が元になっていると思われがちですが、兼成筆とは全く異なるものです。大正時代に豊島龍山が造ったとされる「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」の駒が今でも伝わっていることから、この書体は、豊島太郎吉が兼成の孫の兼俊筆の駒文字を参考にして創作したものだ、という見方が出てきました。水無瀬兼俊は大納言ではなく中納言でしたので、この表記は誤りですし、実際の兼俊筆の駒文字を模写したものかどうかも確かではありません。しかし、この書体が豊島の創作したものである可能性は大きいと思います。
(龍山作の「水無瀬大納言兼俊卿筆跡」駒の写真はインターネットの「駒の詩」で見ることができます(http://8ya.net/suiki/meiko/ryuzan/index.html)。また、龍山には「水無瀬中納言兼俊卿筆跡」の駒もあります。こちらは太郎吉の息子の数次郎が遺した作品で、父が造らせた旧作を凌ぐ銘品といって良いと思います
。駒の画像はインターネットの「名駒集覧」でご覧下さい 。URLはhttp://www.geocities.jp/monkey007no1/koda/kigu/toyoshima/minase/hiyoji.htmlです)
(2)錦旗について 「錦旗」・「淇洲」・「奥野錦旗」
弘山作「錦旗」書体の盛上駒(御蔵島黄楊材 2015年に制作)
おそらく現在見られる将棋駒の書体の中で最も多く流通している書体で、その制作者は豊島太郎吉です。彼の遺した「豊島字母紙帳」ではこの書体を「後水尾天皇宸筆写」と紹介しています (字母紙帳の画像はhttp://meikoma.com/image/toyoshimajibocho/l/kinki.gifをご覧ください) 。
豊島と錦旗の書体には、次のようなエピソードが伝えられてきました。
《かつて将棋家の大橋本家に代々家宝の駒が伝えられていた。豊島太郎吉は、この駒の写しを造ることを依頼され、こうして駒字母紙が作成された。ただ、天皇の名を記すことは畏れ多いので「錦旗」と名付けた……。》
この由来話は、おそらく将棋観戦記者の山本亨介(ペンネーム「天狗太郎」)氏が駒師宮松影水氏から聞き取った話が元になっています(興味のある方は、『将棋庶民史』(1972年)、『将棋101話』(1980年)をご覧ください)。この話は、エピソードとしては筋が通っているように思えるのですが、いくつか疑問があります。細かい点を挙げればきりがありませんが、主なものを以下に列挙してみましょう。
*大橋本家の家宝の駒は本当に後水尾天皇筆の駒なのか?
京都の町衆で一介の遊芸師にすぎなかった大橋家の者が禁裏から帝直筆の将棋駒を拝領することなど有り得るのでしょうか。常識的にその可能性はかなり低いように思います。しかも、先帝の後陽成天皇は将棋愛好家でしたが、御水尾天皇は特に関心を持っていなかったとされています。
*後水尾天皇の筆でないとすれば、誰の筆になる駒なのか?
大橋本家旧蔵の駒は、木村十四世名人から連盟に寄贈され、かつて将棋博物館に「伝・後水尾天皇宸筆駒」として展示されていました。昭和の末期に将棋駒作家で研究家の熊沢良尊氏は、この駒を鑑定し、疑いもなく水無瀬兼成が書いた駒である、と結論づけています。豊島は水無瀬駒を自分流にアレンジして錦旗の書体を創作したのでしょうか。(「伝・後水尾天皇宸筆駒」は現在どこで所蔵されているかは不詳ですが、熊沢氏のブログには当時氏が撮った写真が公開されていますのでご覧下さい。http://blog.goo.ne.jp/ykkcc786/e/90039510b450c6b3a4cbb9ce08c84fda)
*「錦旗の駒」には豊島作よりも先に造られたものがある
現在では、「錦旗」といえば豊島作の書体を思い浮かべる方が大多数ではないかと思います。しかし豊島がこの書体で駒を造り始めるよりも十数年以上前に「錦旗の駒」と呼ばれた駒がありました。それは、酒田の素封家で後に八段に推される竹内丑松(号・淇洲:1877〜1947)が明治37年(1904)当地を訪れた関根金次郎(十三世名人:1868〜1946)に贈った自筆の駒です。関根はこの駒を愛用し、行く先々で勝利を重ねたので、人々は幕末無敵だった官軍の「錦の御旗」に擬えてこの駒を「錦旗の駒」と呼ぶようになりました。「錦旗の駒」とは、書体名ではなく「勝運を呼ぶ駒」という意味で語られたのだと思います。
現在は竹内の号を採って「淇洲」の書体銘が一般的ですが、「錦旗」と呼ばれた駒の中で最も古いのは間違いなくこの淇洲書の駒です。
弘山作「淇洲」(関根錦旗)の盛上駒(御蔵島黄楊材 2013年に制作)
*「奥野錦旗」と「豊島錦旗」について
「錦旗」にはもう一つ、奥野一香が大正時代に「錦旗」という銘で売り出した書体があります。現在は「奥野錦旗」と呼ばれることが多いので、《奥野が豊島の「錦旗」に対抗して作った書体である》と考える方が多いようです。先に紹介した山本亨介氏の著書にも、
「豊島氏と技を競った奥野氏は錦旗駒の人気に追随しようと、自らも今期駒の製作を思い立った。…ひそかに錦旗に似た銘をさがし求めた。三味線ひきの昇竜斎の銘がそれに近く、…奥野氏は、それを借用した」
という記述があります(『将棋101話』)。ただ、三味線弾きの昇竜斎が駒文字を書いていたか否かについては、山本氏も「真相は定かでない」としています。また、豊島の「錦旗」が本当に奥野の「錦旗」に先立って作られたのかについても疑問があります。将棋駒の研究家の中には、奥野の錦旗の方が先で、その売れ行きが良かったので豊島が対抗して錦旗の書体を売り出したのだ、という見方を取る方もいます。(これについても、「名駒集覧」をご覧下さい。)
(http://www.geocities.jp/monkey007no1/koda/kigu/toyoshima/kinki/hiyoji.html)
「奥野錦旗」の書体
(3) 「源兵衛清安」について 「細字の清安」と「太字の清安」
弘山作「源兵衛清安」の盛上駒(御蔵島黄楊材 2014年に制作)
現在我々が目にする「源兵衛清安」の生みの親は、豊島太郎吉です。ただし、「豊島字母紙帳」には「清安」とのみ記され、「源兵衛」の記載はありません。(http://www.meikoma.com/toyoshimajibocho.html#kiyoyasuhoso)
「豊島字母紙帳」には、もう一つ「清安」銘の書体が収められています。これが、現在「太字の清安」と呼ばれる書体で、こちらの「清安」の方を好む方も多いようです。「太字の清安」として近年最もよく知られているは、天童の名工・伊藤久徳師が制作した駒です。久徳師は、源兵衛清安でも名品を制作していましたが、タイトル戦をTV中継した場合、源兵衛よりも太字清安の方が画面に良く映ると考えたのでした。久徳作の太字清安の駒は、竜王戦が天童で行われる時には毎回のように用いられています。
10年近く前のことですが、この久徳作の太字清安駒が掲載された本(『匠の技と形 1東日本編』講談社刊・2001年)を偶然目にする機会がありました。太字清安の駒はそれまでにも造ったことはあったのですが、「是非もう一度造ってみたい」という気持ちが強くなり制作したのが下の駒です。
弘山作「清安」(太字)の盛上駒(御蔵島黄楊材 2010年に制作)
(4)「巻菱湖」の書体について
弘山作「菱湖」の盛上駒(御蔵島黄楊材 2015年に制作)
将棋駒の書体の中で最の人気の高い書体は何でしょうか。だいぶ昔の話ですが、将棋駒の愛好家の団体がアンケート調査をしたところ、最も多くの票を集めたのが「菱湖」の書体でした。次いで「源兵衛清安」「水無瀬」「錦旗」の順に「四大書体」が上位を占めました(『将棋世界』1988年7月号の記事より)。鋭く華麗な菱湖の書体の駒が将棋の指し手の心を引き付けるのでしょうか。
巻菱湖(1766〜1833)は、江戸後期越後の人で「幕末三筆」と称され多くの門人五千と称されたほどの名筆家です。この書体は彼の名が冠せられていますが、菱湖自身が駒字を書いたというわけではありません。大正期に伝説の棋士・阪田三吉の支援者で将棋駒に造詣の深かった高浜禎六段という棋士が、菱湖筆の書道手本などから文字を拾い出し書体の原型を制作したのが起源です。高浜禎は、豊島に制作を依頼し、こうして菱湖の字母紙と将棋駒が誕生しました。
菱湖の駒は、奥野によって制作されました。両巨匠が共に手掛けた数少ない書体ですが、奥野作が双玉であるのに対し、豊島作は玉と王で造られているという大きな違いがあります。しかも、その王と玉が全く異なる字になっているところも注目に値するところです。
次に江戸末期から伝えられる古い銘の書体を二つ紹介しましょう。
(5)「金龍」について
弘山作「金龍」の彫駒(御蔵島黄楊材 2013年に制作)
金龍の駒は、明治大正期までは最も人気があったとされています。将棋愛好家としても知られていた文豪の幸田露伴(1867〜1947)も「…普通将棋を好む人の用うるは、金龍、真龍、安清などの造れる馬子(駒のこと)なり。金龍は真龍とり勝れ、真龍は安清より勝れたり」(『将棋雑話』1901年)と述べ、金龍の駒が当時最も高い評価を受けていたということを明確に述べています。
先に述べた山本亨介(天狗太郎)氏は、「金龍」の駒とその制作者についても調査し、その由来をかなり詳しく述べています。それによると、幕末から維新期にかけて金龍の駒で大成功した人物は武家で掛川藩士の甲賀氏冶(1827〜1873)という人物でした。氏治は江戸で他家の養子となりましたが、養家は禄が乏しく内職に頼らざるを得ませんでした。その内職の一つに将棋の駒造りがありました。彼がいた工房で造られた駒の銘が「金龍」だったのです。彼は駒造りの才能に恵まれていたので、やがて先代から「金龍」の銘を譲られ二代目となりました。金龍駒は高値を呼び、有り余るほどの利益を得ることになったとされます。
二代目金龍・氏治は明治6年に他界しています。しかし、露伴の文章を見ると、それから約30年経っても金龍駒はナンバーワンの駒の評価を得ています。おそらく、金龍の工房で氏治以来伝えられた制作技術が群を抜いていたのでしょう。そして、書体も工房独自の「金龍銘」として伝えられてきたのではないでしょうか。こうして、上に見られるような「金龍」の書体が確立したのではないか思われます。大正から昭和にかけても、金龍銘の駒は一定の人気を保ってきたようですが、次第に「四大書体」の駒に押されて、現在はあまり造られなくなっています。
(6)「安清」と「宗歩好」について
先の露伴の文章の中で「金龍」には及ばないものの、流行の駒銘として挙げられているのが「安清」です。「安清」の銘が駒尻に記された駒には江戸時代後期と推定されるものもあります。ただ、「安清」というのも工房の銘と思われますので、安清銘があるからといって、書体が同じとは限りません。下の左は江戸末期と推定される中将棋駒の書体、右は大正期に造られた駒の書体で、いずれも「安清」の銘ですがかなりの違いがあることが分かります。さらに「安清」には草書体で駒名を記したものもあり、この草書体の安清が古い天童の草書駒の起源だという見方もあるようです。
なお、このコラムの第3回で紹介したように、将棋連盟蔵の「名人駒」の書体「宗歩好」は、「安清」銘の駒を原型として奥野がアレンジした創作書体です。
弘山作「宗歩好」の盛上駒(御蔵島黄楊材 2014年に制作)
最後にその他の主な書体を幾つかご紹介したいと思います。参考までにご覧下さい。
なお、下に例示した各書体の駒字は、『駒のささやき』に掲載されたのものです
将棋駒ものがたり(その6)
◆将棋駒の価格(前編)普及駒の場合
*はじめに:将棋駒の価格について
将棋駒には、安価な大衆駒から高価な盛り上げ駒に至るまで価格に大きな開きがあります。古くからの将棋ファンにとっては数十万円から百万円以上の盛上駒がある[1]ことは半ば常識になっていると思いますが、将棋に詳しくない方の中には、一組数万円もする駒があることも信じられないという方もおられます。今回はそんな値段の観点から将棋駒のことを考えてみたいと思います。
まず様々のレベルの将棋駒をその市販価格から見てみたいと思います。もちろん、同じくらいの品質と思われる商品でも販売店によって実際の価格にかなりのばらつきがあります。ここでは様々の種類の将棋駒について、現在インターネットなどで販売されている価格を調べ、これを基に一覧表にしてみました。価格等については、あくまでも素人が調べた限りでの狭い範囲での参考事例であり誤りや不正確な点も多いと考えております。そのことは、あらかじめお断りしたいと思います。
なお、これに加え、比較のために、将棋専門誌掲載の広告や当時の筆者の記憶などによって、約30年前の昭和末期頃の駒の価格を再構成して紹介させてもらいました。こちらも限られた資料とかなり不確かな記憶によるものですので、その点に関してもお許し下さい。
価格のことに限らず、ここで述べたことに関してお気付きのことがあれば、教えていただければ筆者としてはたいへんありがたく思います。
なお、表の中の左端の列に示した駒のレベルについては、初心者用の安価な駒はCランク、中級駒がBランク、高級な駒がAランク、最高級駒はSランクとしてみました。
|
駒の素材 |
駒の種類 |
現在の価格帯 (インターネットで販売されている価格をもとにしました) |
約30年前の価格(当時の専門誌などを参考にしました) |
C |
プラスティック |
並〜中〜上製 |
600 〜 1200円程度 |
600 〜 1000円程度 |
C |
プラスティック |
特上(王将駒) |
4千円台後半 (「水無瀬」「菱湖」) |
3千円(40年前は2千円) |
C |
ホオ・アオカ |
スタンプ駒 |
1600円程度 (1100〜2000円以上) |
―(千円前後 筆者の記憶) |
C |
カエデ |
手書き駒 |
2400 〜 2700円程度 |
― |
C |
樺・カエデ |
並彫・中彫 |
4千円〜6千円程度 |
―(1500円程度 筆者の記憶) |
BC |
カエデ |
中彫・上彫 |
7千円〜9千円程度 |
― |
BC |
シャムツゲ |
書き駒 |
1万円前後 (旧作の販売か) |
―(3千円〜 筆者の記憶) |
B |
シャムツゲ |
並彫(機械彫) |
9千円程度 (旧作の販売か) |
4千円程度 |
B |
シャムツゲ |
中彫(機械彫) |
1万円程度 (旧作の販売か) |
5千円程度 |
B |
シャムツゲ |
上彫(機械彫) |
1万3千円程度 (旧作の販売か) |
7千円〜1万円前後 |
B |
シャムツゲ |
銘彫(機械彫) |
1万6千円 (「錦旗」・「水無瀬」など) |
―(1万2千円 筆者の記憶) |
B |
本黄楊(御蔵島) |
書き駒 |
2万円以上か (販売例は極めて少ない) |
― |
B |
本黄楊(御蔵・薩摩) |
上彫(機械彫) |
2万7千〜3万円以上 (駒店HPより) |
2万5千円程度〜 |
A |
本黄楊(御蔵島) |
銘彫(手彫) |
6万〜12万円 又はそれ以上 |
3万5千円〜 |
A |
本黄楊(御蔵島) |
彫埋 |
11万〜18万5千円 又はそれ以上 |
4万〜7万円 |
AS |
本黄楊(御蔵島) |
盛上 |
22万〜80万円以上 |
15万〜60万円以上 |
1.普及駒 初心者向けの安価な駒 スタンプ駒とプラスティック駒
初心者向けの安価な駒といえば、年輩の方の中には、子供の頃に駄菓子屋などで販売されていたスタンプ駒を思い起こす方もおられると思います(筆者も半世紀以上前に一組30円くらいの駒を買った記憶があります)。その後物価騰貴の時代を経て、将棋駒の値段は格段に高くなりました。しかし21世紀に入ってからもつい最近まで、一組100円のスタンプ駒が売られておりました。かなり造りの粗い駒ですが、対局は十分可能です。若い方の中には将棋を覚え始めた時にこの駒を用いた[2]方もおられると思います。現在国産の木製駒の値段は、スタンプ駒でも1000円以上が殆どです[3]。一組100円の価格設定は、中国など海外工場で製造していたからこそ可能でした。円高時代の終わりと共に100円の価格維持は難しくなり、現在では殆ど見かけることもなくなりました。
この100円駒を除けば、プラスティックの駒を含めても、500円未満の駒を見つけることはかなり難しいようです。比較的安価なプラ駒の場合、やや造りの粗いものだと1000円以内の品もありますが、標準的な製品は1000円台、高いものでは4000円台後半のものもあります[4]。
プラスティック駒が造られ始めたのは1953年頃[5]とされていますが、最初は木製駒と比べて割高なうえ、耐用性がやや劣っていた(割れやすかった)ため普及駒の主流にはならなかったようです。しかしその後品質がかなり向上し、1970年代には木製スタンプ駒と対抗できるまでになりました[6]。上の表からも分かるように、この30年間で価格に大きな変動は見られず、最も入手しやすい価格を維持しています。各種将棋大会で使用されることも多く、現在は普及駒としては最も広く行きわたるようになりました。
木製駒の場合、Cランクの普及駒に用いられるのは安価な材質です。そのうち最も安手の材質がホオで、昔からスタンプ駒の素材でした。スタンプ駒は、かつてはあらゆる駒の中で最も安価でしたが、プラ駒に比べて製造過程中の人的要素の割合が大きいため、昭和の末期にはプラ駒よりも価格が少し割高になりました。当時はまだ木製駒を好むファンも多かったので、ある程度プラ駒に対抗できていたと思います。しかし、平成時代になるとスタンプ駒とプラ駒の価格差は少しずつ拡大して行きました。しかも、手造りのためキレイなプラ駒と比較して造りにバラつきがあることで敬遠されることも多かったのか、木製スタンプ駒の売れ行きはさらに伸び悩むようになりました。
◇スタンプ駒とプラスティック駒
@昭和の時代のスタンプ駒 A100円ショップ駒 B並製プラ駒
(天童将棋資料館パンフレットより) (2005年頃か) (筆者蔵)
2.普及駒から中級駒へ 書駒と彫駒の場合
次に伝統の書駒を取り上げましょう。書駒の木地は、かつてはホオなど最も安価な素材が用いられていましたが、現在ホオが用いられることはなくなり、安価なものでもカエデ類が利用されています。また、高価なものにはシャムツゲ[7]を木地とするものもあります。現在価格帯は、カエデの書駒が一組2〜3千円台くらいですが、シャムツゲの書駒の方は、昭和期の末には3千円くらい、数年前までは5千円程度だったのに、現在シャムツゲ材が品薄となっているため1万円前後となっています。書駒の場合、カエデ駒は普及駒といえますが、シャムツゲ駒は普及駒と中級駒の境界にあたると考えてよいかもしれません。
カエデの書駒の2・3千円という価格は、同じ普及駒のスタンプ駒やプラ駒の約2倍です。このように価格差が大きいことを考えれば、書駒が販売数でスタンプ駒やプラ駒に太刀打ちできないのは明白です。事実将棋駒の歴史を見ても、天童においては戦前からすでに書駒の比率はスタンプ駒に比べてかなり下回っており、経済成長期には急激に低下することになりました
(この点に関しては、このコラムの「その4」をご覧ください) 。
それでも昭和後期までは書駒には根強い人気があり、毎年数多くの書駒が造られていました。今から40年以上前の1973年にNHKテレビの番組『新日本紀行』が天童の将棋駒造りを取り上げた時に、「書き師」の手塚永三[8]氏・博氏父子(号・武山師)が黙々と漆で駒を書き続ける様子が描かれていました[9]。そのスピードは非常に早く、書き上げる駒の枚数は一日平均約千二百枚(三十組)と紹介されていました。また、同じく書き師の伊藤太郎氏も、専門誌『近代将棋』掲載のインタヴューの中で、若い頃は一日平均五十組書いたこともあったと述懐されています[10]。
ここで注目すべきは、駒書きの非常な速さは、書き数をこなすことで工賃を稼ぐ必要から生まれたものだったのだということです。そして、このように驚異的な速さで書き上げているにもかかわらず、その筆致に粗さが全く感じられず、書の擦れなどは見事というしかありません。まさしく書駒には、伝統工芸品の味わいがあります。一組41枚の駒木地に巧みな筆致で駒名を書く職人(書師)の技の巧みさを考えると、書駒の価格はもっと高くてもよいのではないかと思います。
◇伝統工芸品の書駒
@玉将を漆書する名工の技(1973年) Aシャムツゲの書駒(仁寿作)
Bシャムツゲの書駒(武山作)
(『NHK新日本紀行
民芸に生きる』) (昭和時代の作か) (現在ネット上で販売されている駒)
彫駒の場合普及駒は、樺材(「白椿」「新槙」など)やカエデなどを木地に用いて略字彫で造られます。現在はすべて機械彫りですが、半世紀前にはすべて手彫りで造られていました。彫師の工賃は今では考えられないくらい低かったようで、駒職人は、生活のため厖大な数の駒を彫らざるを得ず、そのため少しでも工程を短縮する工夫を重ねてきました。もちろん略字彫りもその一つの工夫です。その他に当然ながら書駒の場合と同様に、彫り駒も分業方式で造られていました。親方・職人は玉将・飛車・角行などを彫り、入門したての弟子は略字彫りの歩兵(表が「T三」、裏は「・」)だけを彫るところから技術を磨いていきました[11]。こうした分業方式が主でしたので普及クラスの略字彫り駒はよく見ると玉と歩とでかなり彫りの巧拙があるものもありました。
しかし、中には少数ながら手彫りで歩兵から玉将まで一組全ての駒を彫る名工もいました[12]。この場合木地は樺やカエデなどではなく、シャムツゲ以上の素材が使われておりました。こちらは、普及駒ではなく中級駒よりも上のランクに分類されますので、後に詳しく述べたいと思います。
現在市販されている価格帯は、安ければ3000円台後半から4000円台、高いと8000円くらいまでになります。左下の写真は、かつて学校の部活動で使われていた年代物の略字彫(最も簡単な字に略した「黒彫」)の駒です。手彫り駒と思われますが、ご覧のように木地整形と彫りにかなりばらつきがあり、分業方式の短所が現われているようで、あまり出来の良い駒とは思えません (同様の黒彫駒が何組かあり、学校で対局を重ねるうちに混じり合ってしまったのかもしれません) 。当時の普及駒は彫駒でもこのようなレベルの駒が多かったようです。現在略字の彫駒は、木地の整形も彫りも機械によって造られています。材質は同じような安価な木材ですが、機械彫りですから木地も彫りもばらつきは少なく、きれいな駒となっています。右下の写真の駒は、インターネット販売されている5千円前後のカエデ材の黒彫駒ですが、かつての普及駒レベルの彫駒と比較すると機械による駒の製作技術が飛躍的に向上していることが良く分かると思います。さらに同じような材質で造られた上彫の駒は、8千円台後半以上の価格で販売されているようです。
このように考えると、「だいたい1万円には届かない価格」という、このあたりが普及駒の価格の上限といえるのではないでしょうか。
◇安価な素材で造られた略字彫の駒
@手彫の黒彫駒(1970年代制作か) A機械彫りの黒彫駒(現在販売されているもの)
[1] 人気TV番組の「何でも鑑定団!」で、昨年豊島龍山作の盛上駒が500万円と鑑定され、今年は宮松影水作の盛上駒が220万円と鑑定されています (駒師の龍山と影水については、このコラムの「その3」を、「何でも鑑定団!」の鑑定結果については、以下のURLをご覧下さい)。
龍山駒…http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20160315/02.html
影水駒…http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20170711/02.html
[2] 最近TVで棋界の天才・藤井聡太プロを特集していた「NHKスペシャル」を見ていたところ、藤井さんが自宅で100円ショップ駒を使って終盤の局面を研究している様子が映し出されていました。その駒はかなり変色し、まさしく「愛用の駒」と評するのがふさわしいほど長年使い込まれてきたように見えました。そして、そこに藤井プロの棋歴の原点を見たように思いました。
[3] 先日久しぶりに東急ハンズのゲーム売り場に行く機会がありました。そこで将棋駒を探してみると、木製の駒はスタンプ駒だけしかなく、価格は一組2000円でした。
[4] 代表的なものに、将棋連盟のデジタルショップで販売している王将駒があります。駒の写真は、以下のURLをご覧下さい。 https://item.rakuten.co.jp/shogi/301537/
[5] 宮川泰夫「天童将棋駒産地の変質」(『愛知教育大学研究報告 41 社会科学編』1992年)
[6] 自分が普通サイズのプラスティック駒でよく対局するようになったのは1970年代のことだったように記憶しています。それ以前にもプラ駒はあったのですが、その主流は小型の携帯将棋のマグネット駒だったと思います。もちろん、これは半世紀近く前のあやふやな自分の記憶だけが頼りなので確実だとはいえません。木製駒については、研究家も愛好・蒐集家も多く、書籍やネットで調べればかなりのことが分かるのですが、プラ駒については、例えば主な製造業者や年間販売数の推移といった初歩的なことですら調べてもなかなか分かりませんでした。もしこのコラムをご覧の方の中にプラ駒に関してご存知のことがあれば、是非教えてくださいますよう、お願いいたします。
[7] 「シャムツゲ」については、次回「中級の将棋駒」で詳しくお話します。
[8] 手塚永三氏は昭和42年10月26日付の『日本経済新聞』掲載の「駒書き一筋、五十年」という文章の中で自己の書師人生を振り返っています (越智信義編『将棋随筆名作集』三一書房、1998年、所収)。その中で「脂の乗り切っていた三十代は三千五百枚」の駒を一日で書いたと述べています。
[9] その後NHKは2008年5月に放映された『新日本紀行ふたたび』の中で天童の将棋駒造りを取り上げています。大衆向けの機械彫り工房の光景、高級盛上駒と伝統書駒の名匠の姿、駒師を目指す若者の志などが描かれていますが、番組の中ほどには天童と将棋駒に関わる人々を描いた35年前の旧作が挿入されていました。新作の方は、ご覧になった方もおられると思います。
[10] 「駒と木を訪ねて 6 書き駒 伊藤太郎の巻」(『近代将棋』1999年10月号 182頁)
[11] 国井孝氏(号・天竜師)によれば、中学時代には略字彫りの歩兵(「T三」)だけを一日10組400枚彫るようになっていた、ということです(『おれは天に昇る竜になる』(2002)第二章を参照)
[12] NHK『新日本紀行』では、そんな名工の代表として森山慶三氏(号・武山師)が紹介されています。森山氏については次々回に詳しく述べますが、ここで触れておきたいのは、この『新日本紀行』の中で、当時彫師の中で最上クラスだった森山氏が毎日上彫りなら一組、略字彫りなら二・三組の駒を造り問屋に納めて得た工賃が、昭和48年の時点で一か月五〜六万円だった、と述べられていることです。ここからは、当時将棋駒に関わる人々の得る経済状況が非常に厳しいものだったということが推測できると思います。
将棋駒ものがたり(その7)
◆将棋駒の価格(中編)中級駒の場合
ほとんどの将棋ファンは、プラスティック駒かスタンプ駒から始めて、だんだん高価な彫駒が欲しくなってくる方が多いようです。そして、中には同じ彫駒でもより高級な材質のツゲ製の駒を求める方もいます。ただツゲ駒となれば、安い外国産の「シャムツゲ」駒の場合でも1万円前後以上、国産の黄楊(本黄楊)材の駒なら略字彫りでも2万円台、と値が張るようになります。
1.シャムツゲの彫駒
ここで、これまで何度も登場してきた「シャムツゲ」の駒について少しお話したいと思います。
一般に「シャムツゲ」とは、高価な日本産黄楊の代わりに駒木地に用いられる東南アジア産の木材の総称です。日本産の黄楊材がツゲ科であるのに対し、アカネ科クチナシ属の木材なので、正確にはツゲとはいえませんが、堅く緻密なのと黄楊に類似した色を持っているのでツゲの代用品となっています[1]。将棋駒の素材としては、明治期より大阪などで用いられ、天童では戦後の1958年頃から駒木地に導入されるようになりました[2]。産地はタイ・カンボジア・ベトナム・インドネシアなどがあり、それぞれの産地で材質に微妙な違いが見られるようです。
一般にシャムツゲは日本産黄楊に比べると堅さは少し劣り、年数が経過すると黒ずんでくるので高級駒には不向きであるとされています。左下の図像は、カンボジアとタイのシャムツゲ駒木地です。写真では色の違いが分かるだけですが、実際に木の味わいはかなり異なっています。
■シャムツゲの木地(カンボジア産とタイ産) ■経年により変色した手彫りのシャムツゲ駒
右上は(タイ産と思われる)シャムツゲの駒木地で造られたバラの彫駒です。経年変化で変色が著しく、造られてから半世紀以上の時が経過していると推測できます。銀将と香車は並彫で歩兵は中彫ですが、三駒とも機械彫りが導入される以前の手彫り駒と思われます。彫りの技は見事というべきで、おそらく一組の彫駒を一人で彫り上げるような名工の手になるものだったのでしょう(手彫り駒全盛時代の名工については次回詳しく述べたいと思います)。
シャムツゲ駒木地のうち、最も多くの割合を占めるのはタイ産です。この「将棋駒ものがたり」でも「その4」で述べたように、1960年代後半から70年代にかけて彫駒の売上が急増した時、大半は、タイ産のシャムツゲ木地[3]で彫られた駒でした。そして、やがて機械彫りが導入され生産高が増え、コストが下がることで、より多くの将棋ファンが彫駒で対局することができるようになりました(1980年代にシャムツゲ駒は、書駒の場合は3千円前後で、彫駒の場合は4千円(並彫)から1万円(上彫)くらいで購入できたようです)。
ただその後、乱獲を防止する目的でタイ政府がシャムツゲ材の輸出全面禁止し、その後他の東南アジア諸国からの輸入も大幅に制約されるようになって、シャムツゲ材の新規入手はかなり困難になりました。現在も「シャムツゲ」の彫駒は、9千円(並彫)〜1万3千円(上彫)くらいの価格帯で市販されているようですが、その殆どがかつての旧作か、輸入し備蓄された駒木地を用いたものか、いずれかだろうと思われます。シャムツゲの代わりに本黄楊の端材や中国黄楊の板目材を利用することも考えられますが、それでもかなりの値上げは避けられません。シャムツゲ材が底をつけば、中級の将棋駒の価格帯の大半を占める1万円台の駒を購入することは難しくなってしまいます。そこで、天童ではシャムツゲに代わる素材として「斧折樺(オノオレカンバ)」を導入している将棋駒専門店[4]もあります。
下に、1980年代に機械彫で造られたと見られるシャムツゲの彫駒の図像を掲げたいと思います。左は2005年頃に勤め先の大掃除をした時に出てきた略字彫駒です。昔(その時から更に20年ほど前というお話でした)将棋好きの大先輩たちがいて昼休みなどにこれを使って楽しんでいたということでした。駒は結局将棋好きの筆者が引き取りました。かなり経年変化しており、できるだけ汚れを取ってきれいにして今も使っています。筆者自身の購入した駒ではありませんが、もし1980年代造られたものであれば、おそらく当時の価格は5千円前後だったのではないかと思います。
また右は筆者が1984年頃に千駄ヶ谷の将棋会館近くの囲碁将棋用品店で購入した駒です。価格は確か1万円くらいでした。この上に錦旗・水無瀬などの書を彫ったシャムツゲ材「銘彫駒」が1万数千円だったように思います。色合いが良かったのでこの上彫を選び、その後20年以上愛用することになりました。今思えば、この頃から筆者の将棋駒道楽が始まったようです。
■シャムツゲの並彫駒(機械彫 1980年代か) ■シャムツゲの上彫駒(機械彫 1984年購入したもの)
2.本黄楊の彫駒
「本黄楊」という表記は正式の名称ではなく、シャムツゲがツゲ科の植物ではないのに対して、「本物のツゲ」という意味で、国産のツゲ材を指すために用いられているものです。ツゲが将棋駒の素材として利用されていたのは、かなり古い時代からのようで、このコラムの「その2」でご紹介した16世紀末頃の伝世品の水無瀬駒はツゲ材で造られたものでした。その後、江戸では伊豆諸島のツゲが将棋駒に用いられるようになり、関西地方では薩摩産のツゲが駒材に利用されていたようです。明治期になると、豊島太郎吉が木目や模様の美しさに特徴のある御蔵島産のツゲに着目して売り出したため、御蔵島ツゲと薩摩ツゲが国産ツゲの二大ブランドになりました。最近ではこの二種の国産ツゲに加え、中国からも品質の良いツゲ材が入るようになりました。中国産の黄楊は、「中国黄楊」と呼ばれ「本黄楊」とは呼ばれませんが、正真正銘ツゲ科の木材です。輸入当初は国産のツゲに比べて品質にかなり差があったようですが、現在は、国産ツゲと比べてとくに大きな違いを見つけることは難しいと云われるまで品質が向上しています[5](こうして品質が向上していることもあって、中国黄楊の木地は、価格的に以前よりも高めになっていますが、それでも国産ツゲの駒木地に比べてかなり格安です。「本黄楊将棋駒」と表記されている商品の中にも、実は国産ツゲ材ではなく中国ツゲで造られているものがあるかもしれません。一応要注意です)。
ところで、ここで再び駒の価格に着目し、中級駒の価格帯を確認しておきたいと思います。筆者としては、中級駒の価格帯の下限は1万円余り、上限は2万5千円から3万円くらいではないかと思います。この上限3万円という駒の価格を見ると、機械彫りの駒であれば本黄楊の上彫駒をこの金額で購入することができると思います。さらにあと2、3千円出して3万数千円あれば、(水無瀬・錦旗などの)機械彫りの本黄楊銘彫駒も購入可能でしょう。このように考えると、金額にして3万円プラスマイナス数千円程度で買える[6]「機械彫の本黄楊駒」というのが中級将棋駒の上限だと考えてよいのではないでしょうか。
下の図像は、上のシャムツゲ上彫駒購入の2年後1986年に入手した薩摩本黄楊の上彫駒です。おそらく機械彫りの駒と思われます。駒木地は不揃いで板目が多かったためか、本黄楊にしては値段が割安で2万円には達しなかったように記憶しています。購入してから30年以上対局に使用していますが、年と共に木地の色合いが飴色に近づいてきました。シャムツゲの駒の場合は、木地が黒ずんでくるため、この駒のような色合いになるものはかなり少ないと思います。駒尻に彫られた「越山」とは、天童の将棋専門店の銘柄です。越山駒は、機械による正確無比な彫りで今も愛好家たちから高い評価を得ています。
ただ本黄楊駒の3万円前後という値段は、庶民の乏しい懐具合では出費に及び腰になるような価格であることも確かです。日頃の対局駒としては、大半の将棋ファンはシャムツゲでも十分満足できるでしょう。しかし木地が本黄楊であれば、中級駒でも使用が5〜10年と長年になればそれだけ経年変化に味わいが出てくることが多いと思います。そこで、一生の友となる将棋駒はやはり本黄楊がお勧めというべきでしょう。
ただし、このあたりの価格の駒を手に入れる時にはかなりの慎重さが必要なことも確かです。そこで思いつくままに、駒を購入する際に注意すべきことを以下に挙げてみようと思います。
(1) 信頼のおける店で購入する。
(2) 必ず駒の材質を確認してから購入する。
(駒箱の「ツゲ」「泰黄楊」「黄楊」はシャムツゲのことで、「本黄楊」表示があっても安心できません)
(3) 直接現物を見た上で彫りの具合・木地のひび割れ・漆の剥離・滲みなどをよく確かめる。
ただし、あくまでも筆者の狭く浅い知識や経験から参考程度に挙げたことがらですので、そこは差し引いてお考え下さい。また、もちろん、これらだけに留意すれば十分だということではないということも併せて申し上げておきたいと思います。
[1] ツゲの学名は、Buxus microphylla
var.japonicaです。Buxusがツゲ科ツゲ属を表します。他方、シャムツゲはGardenia
collinsaeで、ツゲ科ではなくアカネ科クチナシ属の植物です。シャムツゲは印鑑にも用いられますが、印鑑業界では公正取引委員会の指導で「アカネ材」と表示されるようになっています。
[2] 農商務省山林局編『木材ノ工芸的利用』(1912) 574頁に大阪の将棋駒の材料として、「薩摩及豊後産」の「つげ」の他、「印度つげ」「しゃむつげ」が例示されていますので、シャムツゲが元々大阪で将棋駒製造に利用されていたことは確かです。また、天童で駒木地にシャムツゲが導入され始めた時期については、宮川泰夫「天童将棋駒産地の変質」(『愛知教育大学研究報告 41 社会科学編』1992年)を参照しました。
[3] 一般に国産の黄楊の駒は、駒箱に必ず「本黄楊将棋駒」と表示されています。これに対して、シャムツゲ駒は、「泰黄楊」と表示されるか、または単に「黄楊」と表示されるか、いずれかです (「黄楊」とだけ表示された駒の材質が、国産黄楊材であることは殆どないと考えた方がよいと思います) 。
[4] 「天童駒の歴史とともに 中島清吉商店」(『将棋世界』2015年6月号)を参照しました。なお、インターネットで斧折材の彫駒を紹介した中島清吉商店のページは、以下をご覧下さい。(http://www.shogi-koma.com/shopping/?pid=1436494454-580730&mca=101&ca=1436171137-250222)
[5] 「駒と木を訪ねて」(『近代将棋』連載コラム)第1回〜6回の中の鵜川善郷氏の「ツゲのお話 その1」から「その5」に多くのことを教えられました。(『近代将棋』1999年5月号〜1999年10月号)
[6] インターネットで眺めてみると、特売品で本黄楊の銘彫駒(機械彫り)がもう少し安い価格で売られている場合もあるようです。ただし、ネットでの購入にはそれなりのリスクを覚悟しておく必要があります。
将棋駒ものがたり(その8)
◆将棋駒の価格(後編)中級駒から高級駒へ
1. 広い意味での高級駒
ファンの中には趣味が高じてくると、要求水準をさらに高めて、もっと本格的な駒が欲しくなる人々もいます。例えば、シャムツゲの彫駒を入手してパチリと指して最初は「やはりツゲ駒の響きはいいね」と悦に入っていても、やがて何か満足できないものを感じ、
@「駒の材質は輸入材(「シャムツゲ」)ではなく国産の黄楊(「本黄楊」)でないとダメだ」
A「略字彫は論外で上彫も物足りない、「水無瀬」「錦旗」などの銘で彫った駒が欲しい」
などと、中級駒の中でもより上位の駒を求めようとする場合があります。さらに、
B「機械で彫った駒ではなく専門家の手彫り駒が欲しい」
という段階に目標がエスカレートしていくと、同じ彫駒でも機械彫りと手彫りとの間には大きな価格差がありますので、最早中級駒の価格帯には収まらない領域に入り込むことになります。さらに
C「もっと高級な彫埋駒やプロ棋士が対局に使う盛上駒が欲しい」
と進んでいけば、求める駒の価格は天井知らずということになってゆくのは、半ば必然ともいえるのではないでしょうか。ここでは、中級駒から更に一歩進んで高級駒の入り口を紹介しようと思いますが、その前に中級駒と高級駒の境界がどの辺りかをもう一度確認してみましょう。まず「その6」に挙げた将棋駒のランク別価格表から本黄楊材の駒に関わる部分を抜き出して再掲します。
|
駒の素材 |
駒の種類 |
現在の販売価格 |
約30年前の価格 |
B |
本黄楊(御蔵島) |
書き駒 |
2万円以上か (販売例は極めて少ない) |
― |
B |
本黄楊(御蔵・薩摩) |
上彫(機械彫) |
2万7千〜3万円以上 (駒店HPより) |
2万5千円程度〜 |
A |
本黄楊(御蔵島) |
銘彫(手彫) |
6万〜12万円 又はそれ以上 |
3万5千円〜 |
A |
本黄楊(御蔵島) |
彫埋 |
11万〜18万5千円 又はそれ以上 |
4万〜7万円 |
AS |
本黄楊(御蔵島) |
盛上 |
22万〜80万円以上 |
15万〜60万円以上 |
「高級駒」のイメージは将棋愛好家それぞれによって異なりますから、誰もが納得できる明確な境界線を引くことはたいへん難しいことです。蒐集家の方々の間では、真の「高級駒」とは評価の確立した名匠の手になる銘駒のことだと、かなり限定する見方が多数を占めています。こうした見方をとれば、一般には高級駒とされる盛上駒の中でもごく僅かの駒しかこれに該当しないということになります(そして誰を名匠とするかについても、蒐集家の中でも見解が分れています)。
一般の将棋ファンの中で盛上駒をお持ちの方はごく少数でしょう。仮に所蔵しているとしても実際に対局に用いておられる方はさらに少ないと思います。盛上駒は対局用の駒というよりも鑑賞用の駒という場合が多いのではないでしょうか。さらに盛上駒の中で、龍山、奥野、影水、静山などのかつての名工はもちろんのことながら、現在タイトル戦対局などで用いられる竹風、掬水、秀峰、児玉龍兒など現代の名工の作も、ファンにとっては実物を目にする機会すら殆どないというのが実態でしょう。従って、高級駒の概念を余りに狭く限定した場合は、高級駒が写真集やインターネット内の図像だけのものになってしまうように思います。実際筆者の場合でも、超一流の名工たちの駒の中で実見したものは、展示会や専門店で拝見したものが数十組くらいしかありません。そういうわけで筆者にとっては、名匠たちが制作した駒やプロ棋戦に用いられた駒、さらにオークションなどで蒐集家が競って高額の入札をした駒などについて、あれこれ評価することなど最初から無理な話です。これら名工の手になる駒は別格の「最高級駒(銘駒)」として便宜的に「Sランク」に位置づけ、ここではその評価や価格帯について述べることは控えるべきだろうと思います。
そこで、この項で述べる高級駒(「Aランク」) とは、主に対局に用いられる駒で、中級駒との境界を少し超えたあたりから将棋ファンが無理すれば入手できる価格の彫駒・彫埋駒・盛上駒までを指すとお考え下さい。具体的な価格帯を考えると、中級駒との境界については、上の表中の二段目と三段目の間、すなわち本黄楊彫駒の中で、機械彫りと手彫り駒の間に3万円近くの格差があることに注目し、ここに境界線を設定してみたいと思います。
インターネットで都内の盤駒店や天童の駒専門店の将棋駒紹介を見ると、手彫りと見られる駒の価格はごく一部を除けば6万円以上で、高いものは12万円以上となっています (以下に参考例として、将棋駒専門店のサイトのURLをいくつか挙げます)。
都内 ・大久保碁盤店…http://igo-shogi.game.coocan.jp/
・青山碁盤店…http://www5b.biglobe.ne.jp/~goban/s1go11af.html
天童 ・中島清吉商店http://www.shogi-koma.com/shopping/?mca=101&ca=1436171145-837956
他にも高級な将棋駒を紹介・販売するインターネットサイトは、都内をはじめ全国に数多くあります。検索は簡単にできますので、関心のある方におすすめします。また、表の中の彫埋駒や盛上駒の価格帯についてもこれらのサイトで確かめることができます。また、「ファンが無理すれば入手できる」金額がどれくらいかはかなり難しい問題ですが、市販されている盛上駒の中で最も入手しやすい駒の価格帯が大体20万円台前半位かと思われます。そこで、このあたりを今回考えるAランク駒の上限にして考えたいと思います。
2. 将棋駒の価格はどのようにして決まるのか
繰り返しになりますが、一組100万円近くする高級駒があると聞くと信じられないと驚かれる方も多いようです。ここでは、まず適正な将棋駒の価格は、どのようにして設定されるかを考えてみたいと思います。駒が完成するまでの流れは大雑把に時系列でいうと、
「原木⇒(木地師による成形)⇒駒木地⇒(駒師による駒制作)⇒将棋駒完成⇒(盤駒商)⇒市販駒」
となりますが、それぞれの段階を価格で追うと、
@原材料(黄楊材)の価格
A駒木地の価格(@+木地師の工賃)
B駒の仕入価格(A+駒師の工賃)
C駒の小売価格(B+問屋の利益+小売店の利益)
ここではまず彫駒を例にとってみたいと思います。まず駒の材質から始めましょう。二十余年前に筆者が趣味の駒造りを始めた頃、東南アジア産のシャムツゲの駒木地を盤駒専門店から1組3千円前後で販売していただいたことがありました。おそらく同じ頃天童の将棋駒のシャムツゲの木地価格はこれよりもかなり低額だったのだろうと思います(現在は輸出禁止材のため入手が難しくなっており、かつて大量に仕入れたストックもかなり減少しているようです)。
本黄楊の場合の駒木地価格はどの程度でしょうか。将棋駒木地を専門的に製造する店によると、御蔵島産黄楊材の柾目で41枚(余り歩兵1枚)揃えると価格は最も安いものでも2万円に近く、柾目の木地をさらに綺麗に揃えるとなると、価格はさらに跳ね上がって3万円以上になるということです(アマチュア駒造り愛好家の団体などから購入する場合は利潤を半ば度外視していますので少し安くなりますが、どんなに安くとも柾目だと1万数千円程度だろうと思います)。板目材を木地にした場合は本黄楊の駒木地の価格をかなりの程度まで抑えることができます。かつては柾目を取った後の端材から造った板目の駒木地が比較的安価で、板目交じりの本黄楊が一組1万円以内の場合もありました。ただシャムツゲが品薄になった影響か、現在は入手が困難になっています。
仮に柾目の駒木地が2万円として、この木地価格に駒師の制作経費(工賃)を上乗せすることになります。ここから駒を彫るわけですが、現在彫駒の95%以上は機械彫りです。機械彫りの工賃は、一組千円以下[1]と記した資料もありますが、やはり機械彫りの工賃も黒彫→並彫→中彫→上彫→銘彫と画数が増え手間がかかるほど高くなるはずです。こうして彫った駒にさらに漆(機械彫駒の場合は人工塗料が多い)を入れ、乾いた後に仕上げの磨きをかけます。かつてシャムツゲ材が豊富だった頃小売価格は、略字彫(黒彫・並彫・中彫)が4千円から6千円、上彫が8千〜1万円程度だったようです。仕入れ価格がその半額と考えると、2千円から5千円くらいと推測できます。現在シャムツゲ機械彫駒の価格はこれよりもかなり高額になっています。その主たる要因は、素材のシャムツゲが入手困難になったことなどだと考えられます。また本黄楊駒の場合、価格は機械彫りの上彫で2万5千〜3万円程度、水無瀬・錦旗などの銘彫はこれをやや上回るようです。
機械彫りが導入される以前はすべて手彫りの駒でした。当然ながら、工賃が一定の水準に達しないと、将棋駒の制作という職業が成り立ちません。かつて駒師の工賃は、今では考えられないくらい低い金額でした。現在も手彫り駒の工賃は決して高くはありませんが、それでも一組5万円以上にはなるのではないかと思われます。こうして駒木地代に工賃を加えて算出される仕入値にさらに問屋と販売店の取り分を加えると、本黄楊(薩摩黄楊・御蔵島黄楊)手彫駒の標準的な販売価格を見積もることができます。大雑把に云って、柾目の手彫り駒の価格帯は、最低でも6、7万円、名の通った駒師の作であれば10万円以上というところでしょう。さらに駒木地が虎斑・赤柾・杢など高価になれば、彫駒でも20万円以上の駒も珍しくありません。
彫埋駒・盛上駒になると完成までに要する時間と労力はさらに増大するので、そのための工賃の大きさが当然価格を押し上げることになります。彫埋駒の工賃は最低でも7、8万円、盛上駒ともなれば制作工程はさらに多く一カ月近くの期間を要しますので工賃は最低でも一組10万円以上[2]、名のある工人の場合は30万円以上に達すると考えられます。また、彫埋・盛上駒の場合には、柾目に限らず、虎斑・杢など高価な駒木地で造られることも多く、その場合も当然完成品の価格が跳ね上がることになります。
3. 手彫りの名工たちの妙技
ここではかつて彫りの名工と謳われた人々の技を紹介したいと思います。半世紀前までの彫駒はすべて手彫りで造られていました。安価な素材の普及品の場合は、分業方式で造られ、最も高級なツゲの駒は一流の職人(彫師)が玉将から歩兵まで一人で手彫りしていました。ただツゲといっても、国産の本黄楊は高価なので数は少なく、大半の「ツゲ駒」とは前回ご紹介した「シャムツゲ」を手彫りで制作したものでした。一流の彫師といっても、当時の工賃は非常に低かったので、生活のため厖大な数の駒を彫らざるを得ませんでした。そして、少しでも工程を短縮する工夫を重ねてきました。もちろん、略字彫りもその工夫の一つですが、それだけではありません。彫師の中には、略字彫りをする時に、字母紙を貼らず駒木地に直接駒名を彫り上げる名匠もいました。1973年放映のNHK『新日本紀行』は、そんな名工の代表・森山慶三氏(号・武山師 1900〜1980)[3]の「白紙彫(はくしぼり)」という卓越した彫りの技が紹介された(武山師の白紙彫の駒が彫り上がった図像を下の@に掲げましたのでご覧下さい)貴重な記録です。TV放映後数年経ってから出版された本の中で、この技は以下のように述べられています。
「森山さんは天童でも数少ない白紙彫の達人である。彫駒にする駒には表裏両面白い紙が貼り付けてある。彫師は、普通、その紙の上にゴム印で文字を押し、それをなぞって彫っていくのだが、森山さんはゴム印を使わず、白紙のままで彫るのである。」
(『NHK新日本紀行 第4集 民芸に生きる』(新人物往来社、1978年) 61頁)
森山師より8歳年下になりますが、やはり彫りの名工として知られた佐藤静氏(号・(初代)天一師 1914〜74) にも、先の「白紙彫」と同じような彫りの妙技がありました。『将棋世界』誌で、天一師のご子息の佐藤松喜氏
(二代天一師 1950〜)は、このように木地に書体を貼らずに駒を彫る技法を「直彫り(じかぼり)」と呼び、初代が並彫や中彫はこの直彫りで造っていた[4]と述懐しています。実は、一昨年筆者が地元の中学の将棋部活動を見学させていただいた折に、意外にも「天一作」という銘のある略字彫り(中彫)の駒が使われていたのを見ました (下の図像Aをご覧下さい) 。そこで、以前都内で天童将棋駒まつりを見た時に二代天一師作の上彫駒には、駒尻に「天一」とのみ彫られていて、初代作の中彫駒には「天一作」と彫られていたことを思い出しました。あくまでも可能性に過ぎませんが、「もしかすると、この中彫駒も初代天一師が彫った駒で、直彫りの駒かもしれない」と想像しました。初代天一師[5]は1974年に他界されていますので、もし初代作が事実とすれば、制作年代は、60年代から70年代初頭あたりではないかと思われます。
繰り返しますが、当時の駒の価格は今よりもかなり安く、彫駒一組の工賃は信じられないくらい低額でした。「その6」の注12でも紹介しましたが、『NHK新日本紀行 民芸に生きる』は、森山氏が上彫りなら一日一組、中彫・並彫なら二〜三組の駒を彫って問屋に納品し、一カ月で約六万円の工賃を受け取る、と伝えています。ここから計算すると上彫駒一組の工賃は二千円、中彫は一組千円くらいだったと推定できます。初代天一師も同じクラスの彫師だったと思われますので、同様の工賃だったと考えられます。当時の彫師の工賃は彼らの見事な彫りの技にとても釣り合う金額ではなかったことは確かです。また、厖大な数をこなす必要があったことから、その手彫り駒の出来栄えにはかなりのばらつきがあったことも想像できます。しかし、彼ら名工の全盛時代から半世紀の時が過ぎ、現在その卓越した手彫りの技は駒の愛好家たちから再評価されるようになっています[6]。武山作・天一作などの彫駒(特に上彫以上の駒)にはオークションなどでかなり高額の値がつくこともあるといわれています。かつて中級駒とされた彼らの手彫り駒を今も所蔵される方は非常に少ないと思われますが、その中に現在蒐集家垂涎の駒があるかもしれません。古い彫駒をお持ちの方は一度玉将の駒尻を確認してみてはいかがでしょうか。
なお、駒木地に直接版木刀を当てて彫る技は、現在も受継がれています。その代表とも言えるのが国井孝氏(号・天竜師1935〜)です。筆者は10年以上前に都内で開催された「天童駒まつり」で天竜師にお会いしたことがあります。実はその少し前に、師の自伝『おれは天に昇る竜になる』を購入するため御自宅に直接電話した時に、近く実演のため上京されると聞いて会場に駆けつけたのでした。天竜さんは筆者のことを憶えておられ、根付の駒を一枚彫ってやろうと云って下さり、「来年はトリ年だから」と干支駒を素早く彫り始めました。何もないまっさらな駒木地に版木刀を滑らせると、見る見るうちに表面には「鳥」の字が、裏面には筆者の名が彫り上げられていきました。
◇天童手彫り駒の妙技 白紙彫と直彫
@彫り上がった「白紙彫」の将棋駒 A「直彫り」?の略字彫駒 B直彫りの干支駒
(武山作 『新日本紀行』1973年より) (中学校で使われている「天一作」の駒) (天竜師による)
近年は天童でも次世代の彫駒工人が現われています。しかし上述のように、彫駒の工賃は現在でも一組数万円という水準で、とても手彫りの技に釣り合うとはいえない金額です。その反面、駒を購入する立場からすれば、一組10万円を超える価格は彫駒の値段としては高すぎてなかなか手が出せないのも確かです。業界での機械彫り優位の形勢は揺るぎないものがあります。こうした状況の中で近年では、各地で将棋駒造りの愛好家の中から良質の彫駒を制作する作家たち[10]が登場し、その活動が注目されるようになりました。
4. 彫埋駒と盛上駒の価格について
彫埋駒・盛上駒になると完成までに要する時間と労力はさらに厖大となります。
彫埋駒の概要については、このコラムの「その1」の彫埋駒について述べた部分をもう一度ご覧いただければと思います[11]。表面が木地の部分も漆(錆漆)で埋めた部分も共に全く平滑で一見スタンプ駒ですが、彫りについても埋めについても非常に高い技術を必要とするものです。駒が盤にピタリと密着し、実際の対局に最適であるという評価もあり、玄人好みのする駒とも云われています。数年前東京在住の頃の話ですが、有段者の知人から愛用の彫埋駒を見せていただいたことがありました。月山作大山十五世名人書の彫埋駒で、知人は「私の宝物です」と云っておられましたが、まさしく名工の手になる見事な駒でした。この月山作の駒の場合もそうですが、良質な彫埋駒は、彫埋部分にライトを当てて拡大鏡で見ても微小な穴一つ発見できませんし、彫りのラインがきわめて鮮明に流れています。自分にも経験がありますが、彫駒を制作する場合彫りの後漆入れ前に点検して修整のため二度彫りすることがあります。彫駒では完成した時二度彫りによる筆致の乱れが目立つことはありません。ところが彫埋ではそれが線のゆがみになって現れてしまうことがあります。以前駒造りでお世話になった専門店の方からも、「彫埋はごまかしが利かないので一番難しい。最も技術の巧拙がはっきり出るのが彫埋駒だね。」というお話を伺ったことがあります。盛上駒に比べると制作過程は短いものの、きわめて高い技術が必要であることを考えると、彫駒の場合よりも駒師の工賃が高額になるのは当然でしょう。
盛上駒の場合工賃は最低一組10万円以上といわれています。先に、一般の将棋ファンでも無理をすれば入手できるような盛上駒の価格は「20万円台前半」くらいではないかと述べました。しかし、かりに市販価格が24万、仕入価がその半分の12万とした場合、駒木地が最安の3万円クラスだとしても駒師の工賃は9万円で、上でいう最低基準の工賃の10万円に達しません。おそらくこの場合工賃が低額すぎるので、駒師が盛上駒を造り続けて生活を維持することはきわめて難しいと言わざるを得ません。おそらく、標準的な盛上駒の価格はこれよりもワンランク上になるのは当然だということが理解できるのではないでしょうか。
とはいえ、インターネット販売されている盛上駒の中には20万円未満の価格の商品も見受けられます。このように比較的安価な盛上駒が販売される要因の一つに、近年駒造りを趣味とする方々が増加し、こうした人々が愛好家ゆえに手頃な価格に設定している場合があることが挙げられます。また、専門店が特別価格などと銘打って10万円台で盛上駒を販売しているケースもあるようです。専門店によるこうした価格設定はどうして可能になるのでしょうか。
あくまでも推測にすぎませんが、一つには分業方式によって或る程度のコストを削減する可能性が考えられます。彫埋・盛上駒の工程には、彫りの作業段階が含まれています。現在多くの将棋駒工房では彫駒を機械彫りで行っています。そこで、盛上駒の制作において、彫りの工程を機械彫りにして簡略化すれば或る程度コストの低減が図れるのではないかと考えられます。漆埋めと磨きの工程も工房で分業すればここでもコストの圧縮が可能となると思われます。そして最後の工程だけを盛上師が担当する、こうした分業方式により或る程度の価格低下が可能になるのではないか、入手しやすい価格の盛上駒が市場に出回っている理由を上のように推測することもできます。
ここまでは、Aランクの高級駒について述べてきました。このAランクとは、手彫りの彫駒から彫埋駒、さらに一般の将棋ファンが入手できる価格の盛上駒までを考えました。大まかな価格帯で云えば、6、7万円程度から20万円台の駒が該当するのではないかと思います。
それ以上の価格の駒は、「Sランク」(最高級駒)に位置づけられるわけですが、このランクの駒は、筆者の感覚では、対局用の駒というよりも鑑賞用の駒といってよいのではないかと思います。先の手彫り駒の場合と同様に、こちらもインターネットで検索すると専門店のサイトから実際の名工による作例と価格を見ることができます。例えば、先の青山碁盤店のほか、
・日本将棋連盟デジタルショップ https://item.rakuten.co.jp/shogi/1708912/
・丸八碁盤店 http://www.maruhachigobanten.jp/shogi.html
・前沢碁盤店 http://www.maezawa-goban.co.jp/koma/koma.html
などがあります。参考までに掲げておきたいと思います。
最後に筆者自身が制作した盛上駒についても少しだけ触れておきたいと思います。筆者が趣味で将棋駒を造り始めてから20年以上の歳月が過ぎました。途中から制作の中心は、盛上駒に移るようになっております。正確な作例数については記録を採っていないのですが、これまで盛上駒を数十組は造ったと思います。自分の出発点はあくまでも趣味で、対局用の駒を自分で造るのが基本でした。それが年を重ねるにつれて、少数ながら専門店から盛上駒の制作を求められたこともありました。完成品の販売価格については全く分かりませんが、自作がSランクに達することはあり得ませんので、恐らく最も廉価な部類の盛上駒として販売されたのだろうと考えています。そうした盛上げ駒のうち、2つの作例の完成時の写真がありますのでご覧下さい。
◇筆者の自作盛上駒
@御蔵島黄楊材・根杢・錦旗書体(2010年前後に制作) A御蔵島黄楊材・柾目・錦旗書体(2015年制作)
どちらも御蔵島黄楊材の錦旗の盛上駒ですが、見た目の印象はかなり異なります。左上は10年近く前に専門店の方からの依頼で造った駒です。店主の方が若い頃から蒐集しておられた御蔵島黄楊根杢の駒木地を任されたものでした。それまで柾目での制作は何組も手掛けてきましたが、根杢の木地は高価なうえ、彫りがかなり難しいとされていたので、木地を拝見した時に「自分が本当にできるのか」と緊張したことを憶えています。この駒も含めて、少数ながら面白い模様の出る木地(虎斑や銀目杢)での駒制作をしたこともありました。ただ、そのタイプの素材で造った駒は、完成品を盤に並べた時は美しいのですが、どうしても駒の模様が目についてしまい、時間を掛けてじっくり対局するのにはあまり向いていないな、というのが正直な印象でした。その意味から云えばやはり対局に最適なのは柾目の駒の方だろうと思います。例えば右上の駒がその一例です。3年ほど前に、柾目の木地に漆の盛上げもあまり高くせずおとなしい印象に仕上げたことを憶えています。対局の際に凝視していても目の負担にならない駒だと思っているのですが、いかがでしょうか。
[1] 『近代将棋』誌に連載され好評だったコラム「駒と木を訪ねて」の中には、「機械彫りは一組八百円」という記載があります(2000年6月号掲載)。筆者は、この金額はおそらく略字彫りの場合の工賃ではないかと考えました。
[2] 前出「駒と木を訪ねて 24 木地と駒の値段」(『近代将棋』2000年5月号掲載 135頁) 参照。
[3] 武山作の彫駒の銘品はつい先ごろまで『銘駒図鑑』のサイトで鑑賞することができましたが、現在はアクセスできません。現在インターネットで見ることができる武山作彫駒の図像は以下の頁のみです。
[4] 増山雅人「マイペースの駒師彫りの天一=v(『将棋世界』1993年12月号掲載 151頁)参照。
[5] 初代天一師作の中彫駒の図像は、この「将棋ものがたり」の「その4」にも掲載していますが、そのほかにも以下のサイトでも見ることができます。https://ameblo.jp/billytan/entry-11971460213.html をご覧下さい。また、駒尻に銘が「天一」とのみ彫られている二代天一師作の中彫駒の図像については、https://ameblo.jp/billytan/image-11971460213-13176148049.html をご覧下さい。
[6] 彫駒の愛好家の間では、「一武山・二天一・三桂山」と彫りの名工を三人列挙することもあるようです。一〜三の数字は年代順を示すものです。桂山師(水戸常丸氏 1922〜2001)は、二人目の初代天一師よりも8歳年下ですが、彫りの技は先輩二人に匹敵すると云われた方です。桂山作の彫駒は、盤駒商の間で評価が高く、筆者が30年ほど前に銀座の専門店で駒を見た時も、一組十万円を超える価格で売られていました。彫駒でもこんなに高いのか、というのがその時の筆者の偽らざる気持ちでしたが、店の方はそれを見抜いたようで、「桂山さんのものは天童の彫駒でも群を抜いていますからね」と云っておられました。その後桂山師が他界されると都内の専門店で桂山駒の実物を見ることは少なくなりました。しかし筆者の駒造り道楽の熱が高まるにつれ、次第に桂山師の彫りの見事さが分かるようになりました。初めて見たあの頃の桂山駒は決して高すぎる駒ではなかった、ということを確信できるようになったのです。桂山師作の彫駒の図像は、インターネットで検索してもなかなか発見できないようですが、ひとつだけhttp://rupe.exblog.jp/22143081/ の中に見ることができました。関心のおありの方はご覧下さい。
[7] 天竜作の将棋駒の図像は、『駒人』の「駒鑑賞」頁に彫埋駒が掲載されています。以下の頁をご覧下さい。http://www.komabito.com/modules/myalbum/photo.php?lid=96&cid=19
[8] 二代天一作の彫駒の図像は、『駒人』の「駒鑑賞」をご覧下さい。http://www.komabito.com/modules/myalbum/viewcat.php?cid=9
です。
[9] 月山作の将棋駒の図像は、http://www.maruhachigobanten.jp/shogi_k21.html
をご覧下さい。
月山師は、山形で工房香月堂を経営した国井重男氏(号・香月師1922〜88)に師事し、三十歳を過ぎてから駒師になった遅咲きの人ですが、その彫りの技は天童で現在最高峰と評価されています。以前『近代将棋』の取材に対して、月山師は完璧な駒造りを目指す姿勢を語っています。その中で注目すべきは、かつて師の造った駒が常に完全に均一な造りだったというので、「手彫りでなく機械彫りではないか」と云われこともあった、と述懐していることです(「駒と木を訪ねて 9 完璧な職人芸を求めて」『近代将棋』1999年1月号掲載)。近年『将棋世界』の取材に対しては、「盛上駒よりも失敗してもやり直しができない彫駒や彫埋駒のほうが作品として価値があると思っています」と語っておられます(『将棋世界』2015年6月号掲載)。
[10] 愛好家の将棋駒造りが盛んになってきたのは昭和50年代以降のことだったといわれています。現在は高級盛上駒作家として活動されている熊沢良尊氏主宰の「駒づくりを楽しむ会」が生まれ、会誌発行や作品展開催などをおこないました。平成になるとさらに「将棋駒研究会」をはじめとして、いくつかの愛好家の団体が造られ、やがてアマチュア愛好家の手で造られた駒の中に、専門家の水準に迫るような出来栄えだと評価される作品も現われるようになりました。
[11] 彫埋駒の制作過程については以下の資料があります。ただし、☆は現在も市販されています。★はどちらも詳細を述べたものですが、残念ながら今では入手困難です。
☆ 増山雅人『将棋駒の世界』(中公新書 2006年) 26・27頁
★
将棋駒研究会『駒のささやき』(駒研出版会 1996年)
86頁以下
将棋駒ものがたり(その9)
◆青森支部道場の盛上駒
蒐集家の方々が求めるような名工作の駒は、このコラムで扱うことは難しいという理由で、前回これらを、別格の「最高級駒(銘駒)」として「Sランク」に位置づけました。残念ながら、我々一般の将棋ファンがこうしたSランク駒の実物を目にする機会は多くないのが実態だろうと思います。そこで、今回はSランクとはいかないかもしれませんが、それに近い高級駒の事例をご紹介したいと思います。
以前から、青森支部道場には高名な駒師の方が造られた高級駒が何組もあるらしいと聞いていましたので、いつか是非向学のために拝見したいと思っておりました。幸い支部道場の奈良岡実師範からご快諾を頂き、昨年4月にご所蔵の盛上駒を拝見することができました。
見せていただいた駒は全部で7組ありました。
@ 金井静山作 錦旗書 A宮松美水作 菱湖書 B国井香月作 香月書
C 大竹竹風作 金龍書 D大竹竹風作 長禄書
E 會田一舟作 清安書 F會田一舟作 源兵衛清安書
奈良岡さんのご説明では、@〜Eはいずれも県内の愛棋家の方々から寄贈されたもので、Fは県連の渡辺三郎会長ご所蔵の駒ということでした。
将棋駒蒐集家の方々の評価眼にはたいへん厳しいものがあると云われておりますので、これら高名な作者の手になる駒でも、まだまだ「銘駒」の水準には至っていないと評されるかもしれません。しかし筆者の目からすれば、7組の駒はどれも見事な駒でした。
まず、最初に筆者の目を引いたのは、@の静山駒です。左下の写真をご覧下さい。
・青森支部道場の盛上駒@ 金井静山作 (右は漆の擦り減った駒の裏文字 龍王・龍馬・と金)
この頃までの静山は、物静かで控えめな人柄もあって「知る人ぞ知る影の名工」というイメージがあったようです。しかし影水亡き後は「当代随一の駒作家」という評価が定まり、プロ棋戦の対局でも静山駒が使用されることが多くなりました。こうして第一人者とされるようになった静山ですが、駒型や駒木地の材質などについては、影水のようなこだわりを示すことは一切なく、依頼主の専門店に任せ、それに応じた駒造りをしていたようです。そのため、静山駒の木地は虎斑や杢などの高価な材質だけではなく、中には板目交じりの安価な木地で造られたものもありました。
青森道場の静山駒もそうした「板目交じりの駒木地の静山駒」の一つかもしれません。木地に柾目材よりも板目が多く、しかもかなりばらつきがあります。長年の使用のためか木地には相当傷があり、盛上げた漆にもかなり擦り減ったものもあります。特に裏の字は殆ど彫埋め状態に近いものもありました。状態を考慮すると蒐集家の厳しい目ではさほど高い評価とはならないかもしれませんが、資料的な価値は高いと思います。静山作の盛上駒[2]は、これまで専門店や展示会で間近で拝見したものは、いずれも未使用か殆ど未使用のものでした。今回のように永年愛用された状態の静山駒を見たのは珍しい経験でした。
将棋駒愛好家の間では、宮松影水が天才駒師として最高の評価を受けることが多いようですが、駒師の間では静山を尊敬する人が多いとも言われています。東京駒の伝統を受け継いでおられる大竹竹風師(二代目・大竹日出男氏)は、かつて『近代将棋』誌[3]のインタヴィューに答えて、自分も父の初代竹風も最も尊敬するのは「金井静山です」、「あの方の盛り上げは違います。一生やって追いつけるかどうか。それくらい素晴らしい駒師です」と明言しておられました。
次に美水作と香月作の盛上駒をご覧ください。
・青森支部道場の盛上駒 A:宮松美水作・巻菱湖書(左) B:国井香月作・香月書(右)
左上のAの駒は、宮松影水氏の夫人・登美氏(号・美水師)の作です。影水については既に「その3」で紹介しましたが、1972年惜しまれながら急逝し、遺された登美夫人の前には影水が生前既に受けていた駒の注文が多数ありました。金井静山氏など、周囲の人々の協力もあって、登美氏は、刀の研ぎ方・漆の扱いから努力に努力を重ねて、ついに「美水」の号で盛上駒を制作するようになったといわれています[4]。この菱湖書の駒もそうした苦闘の過程で生み出されたものかもしれません。駒をよく見ると、やや力任せに造られたような素朴な印象を受けます。
しかし美水作の盛上駒は、後に将棋連盟に所蔵され公式戦で使用されるようになっています。その中には、加藤一二三九段愛用の駒として専門誌で紹介された[5]銘駒もあります。
Bの駒の作者は香月師[6](国井重男氏 1922〜88)です。天童に生まれ、元々彫り駒の名手として知られていましたが、後に盛上駒制作に重点を置くようになりました。大山十五世名人と親しく、1982年に「名匠香月」の名を駒尻に彫ることを許され、天童駒の地位の向上に多大の功績を残しました。1984年には山形市に移り、分業方式の工房「香月堂」を構え活発な営業に力を注ぎましたが、惜しくも数年後60代半ばで病没されました。
この盛上駒は、書体に香月師自身の書を用いたものですが、作者銘に「名匠香月」と記されていることから晩年の作と思われます。
[2] なお、晩年名声の高まりと共に静山作の駒には贋作ではないかと思われるものが出回るようになったといわれています。もちろん筆者には静山駒の真贋などについてお話しすることは不可能です。ただ、そうした贋作と思われる駒を見せられた時の静山師の反応だけをお伝えしておきたいと思います。静山師は、「作りたい人はつくればいいと、まるで意に介さないようであった」(『駒のささやき』62頁)といいます。
[3] 『近代将棋』2006年11月号掲載「銘駒研究室 第6回」を参照しました。
[4] 美水師については、『近代将棋』1986年9月号「駒の大特集」中の「影水と共に 宮松美水の巻」を参照しました。
[5] 『将棋世界』2000年2月号掲載・「特別企画 闘う駒」を参照しました。
[6] 香月師については、前掲『近代将棋』・「駒の大特集」中の「将棋の駒と出会う旅」を参照しました。
・青森支部道場の盛上駒・大竹竹風作 C:金龍書(左) D:長録書(右)
C(左上)とD(右上)の駒はいずれも竹風師作の駒です。「竹風」は、新潟県三条市在住の父子二代の駒師、初代の大竹治五郎氏(1914〜2006)と二代目の日出男氏(1944〜) の号です。初代竹風師が駒師の道を歩み始めた経緯については、このコラムの「その3」でもほんの少し触れました。戦前から戦中にかけて8年間兵役を務め、ようやく除隊して本格的に駒造りができると思ったとたん昭和20年3月の東京空襲ですべてを失い、故郷の三条に疎開し戦後になって本格的に駒造りをするようになりました。働き盛りの頃は数をこなさなければならないので、毎日朝7時から晩の9時まで働き、多い時は一日7組を彫ったこともあったそうです。信じられない仕事量の多さに驚く記者に、初代は、「当時は駒が安かったからね。そうしなければ子どもたち食わせられないだろうが。」とこともなげに答えています。初代の仕事を見て育った二代目もやがて東京の老舗碁盤店での修業の後、後を継いで現在一二を争う名人駒師として活躍しておられます。先日NHKテレビの『美の壺』で将棋が特集された回で、羽生永世七冠愛用の駒として、(おそらく二代目作かと思いますが)竹風作の美しい盛上駒が紹介されていました。皆さんの中にもご覧になった方も多いと思います。
さて、青森支部道場の二組の駒は、初代作でしょうか、それとも二代目作でしょうか。駒を拝見して、その制作年代は、かなり以前まで遡れるような印象を受けました。また、奈良岡師範から、寄贈された愛好家の方のこともお伺いすると、初代作の可能性が大きいのではないかと思いました。ただ、二代目が作者である可能性も十分考えられます。
なお、右上の駒の書体は「長禄(長録)」というかなり独特の書体です。蒐集家や駒造りを趣味とする方にはかなり人気があるのですが、将棋を指す人には敬遠されるかもしれません。ところが、奈良岡師範のお話では、或るプロ棋士の先生が青森道場に指導に来られた際に、わざわざこの駒を選んで指して下さったそうです。「実は島朗先生なんですよ。」奈良岡さんのお答えは全く予想外のお名前でした。
・青森支部道場の盛上駒・會田一舟作 E:清安書(左) F:源兵衛清安書(右)
E・Fの駒の作者は共に天童の一舟師(會田昭二氏 1947~)です。一舟師は、インターネットに「駒師一舟の世界」というサイト(https://www2.hp-ez.com/hp/komashi-isshuu/page5)を開設されています。一舟師は天童でも有数の駒師ですが、2000年代の初め頃駒の世界から6年ほど離れていたそうです。その後カムバックされ、以前のように見事な駒を送り出しておられます。師の技法で最もよく知られているのは、駒の表面と裏面が輝くように磨かれていることです。この見事な仕上げは「鏡面磨き」と呼ばれる一舟師ならではの仕上げです。
さて、Eは「清安」、Fは「源兵衛清安」という銘です。書体はよく似ていますが、微妙な違いがあるようにも見えます。奈良岡師範のお話を伺った限りでは、駒の制作年代は、両方ともかなり以前まで遡ることができるのではないかと思います。ただ、EとFとでは駒木地の形にも微妙な違いが感じられることから、異なる時期に制作された可能性もあるように思います。
Fの駒は木地の模様が揃っており、師範のお話でも価格的に最も高い駒ということでした。
以上、青森支部で拝見した7組の盛上駒をご紹介させていただきました。当日ご指導の傍らご協力くださった奈良岡師範、対局中の支部会員他の皆様方に心より感謝申し上げます。
機会があれば、また銘駒にお会いできることを期待しています。県内在住の皆様で銘駒をお持ちの方は、是非このHPの掲示板にご一報くださることを心待ちにしております
将棋駒ものがたり(その10)
◆城下町弘前支部の盛上駒
青森支部道場に続いて、今回は筆者が現在所属する城下町弘前支部[1]所蔵の珍しい駒を紹介させていただきたいと思います。この駒は盛上駒ですが、木地の材質が不揃いなうえ長年の使用で経年劣化が著しく、到底蒐集家の方々が求めるような評価額の高い駒ではありません。ただ、駒の作者がおそらく天童の名匠と見られ、制作されたのが1960年代かそれ以前と推定されることから、将棋駒制作の歴史を考える上でたいへん貴重な資料となるのではないかと考え、あえてこのページで取り上げることにいたしました。
まず一組40枚の駒の図像をご覧下さい。
筆者がこの駒と出会ったのは2016年春のことでした。支部の例会に参加したとき、役員の方から「支部にこんな古い駒があるのですが、見てもらえませんか」というお話があり、興味津々で拝見しました。駒は、プラスティック駒の箱に収められており、一見すると長年の使用で著しく劣化した古駒という印象でした。しかし、駒尻にあった「武山」の銘と擦り減り剥がれた盛上げの漆を一目見て、自分の視線は駒に釘付けの状態になってしまいました。そして、どうしてこの駒が城下町支部に所蔵されるようになったのか、その間の事情を是非とも知りたいと思うようになりました。
その後、関係各位からこの駒に関するお話をいろいろと教えていただきました。それを基にして、この駒が城下町弘前支部に寄贈されるようになった事情をごく手短に述べてみたいと思います。
元々この盛上駒は、弘前市在住の或る将棋愛好家の方の所蔵品でした。この方を仮にAさんと呼ばせていただきます。Aさんは山形県天童市のご出身で、かなりの将棋ファンだったということです。昭和40年代にAさんとよく将棋を指された方の中に当時弘前大学の学生で後に県内で教員をされたB先生がいました。B先生のお話では、「自分との対局でもこの駒がよく用いられていた。その頃もかなり使い込まれていた駒という記憶がある」ということでしたので、この駒は少なくとも半世紀以上前に造られた駒であることは確実だろうと思います。その後時は流れ、数年前に愛棋家だったAさんも逝去されました。そして、ご家族から「遺された駒を将棋好きの人たちの役に立ててほしい」という相談を受けたB先生をはじめとする関係の方々は、そのご意向を生かすために当時市内で将棋道場の師範をしていた三浦行さん(元県名人・竜王)にこの駒を託そうと考え、三浦さんもこの駒を受け入れることにしました。その後三浦さんは、城下町支部で師範となり、それに伴い、この駒も城下町支部の所蔵駒になった・・・・・・
概ねこのような経緯だろうと思います。
さて、駒を観察するといくつか特徴があることが分かります。そのうち主なものを挙げると
(1) 盛上駒であるが、かなり多年にわたる使用で盛上の漆は擦り減って剥がれた箇所も多い。
(2) 大きさは、どの種類の駒も一般の駒よりも一回り以上小さく薄い木地が用いられている。
(3) 木地はおそらく御蔵島産の本黄楊だが、虎斑・孔雀杢など現在は超高級駒に利用される貴重な素材を用いた駒もある半面、板目材も用いられており、かなり不揃いである。
(4) 双玉で、玉将の一方の駒尻に「武山」という作者銘がある。
(5) 書体については駒尻に記されていないが「奥野錦旗(昇龍斎)」という書体に類似している。
◆金将と銀将(不揃いの木地と擦り減り・剥がれた漆に注意) ◆玉将の駒尻
・彫りの名匠武山は半世紀前に盛上駒を造っていた
最初に駒の作者について思うところを述べてみたいと思います。「武山」の号をもつ駒師は三人います[2]。三人ともおそらく天童で駒を商う老舗・武内商店(後の武内王将堂)と縁の深い駒師で、これまでこのページでも述べてきましたが、書駒作家の手塚永三氏・博氏の父子二人と彫駒作家の森山慶三氏です。その中で彫り駒を造られた方は森山慶三氏だけです。おそらくこの武山作の駒の作者が森山慶三氏だということは確実でしょう。
森山氏は、昭和の時代に手彫りの駒制作一筋で知られた方でした[3]。その彫りの技は、東京駒の名工たちの中にも駒彫りのお手本にした者がいたと伝えられるほどの名匠でした。しかし、当時の天童の駒職人たちは、大衆向けの駒造りを数でこなすことが求められていました。武山銘の彫駒も、その大半は槇などの安価な木地に略字体で彫られたものでした。かつてNHKの「新日本紀行」は、森山氏が何も書かれていない白紙を貼った木地に直に彫刻刀を当てて鮮やかに彫り出す「白紙彫り」を行う場面を記録しています。白紙彫りは卓抜した職人技ですが、彫った駒字に多少のばらつきが出ることは避けられません。また、木地そのものもナタで切り出されたものだったので、大きさが必ずしも均一ではありませんでした。数十年にわたって厖大な数造られた武山作の彫り駒の中で、師の至高の技を余すところなく発揮した見事な作例はごく僅かであったと思われます。それゆえにこそ、精緻に造られた数少ない武山駒は、蒐集家垂涎の「名駒」と云ってよかろうと思います。
そして、筆者が最初にこの駒を見た時に心の中に浮かんだのは、「その《彫りの名人・武山》が半世紀以上前に盛上駒を造っていたとは…。」という感嘆の思いでした。
今でこそ天童は高級な盛上駒で知られていますが、敗戦直後の頃は東京の駒師が造る高級駒とは格段の差がありました。1951年に天童で初めてタイトル戦(王将戦)が行われた時、地元の駒師が制作した盛上駒を使ってほしいとの申し出が主催者や連盟から全く相手にされなかったのはよく知られた話です。ようやく1980年の王将戦で、1日目だけでしたが、天童の駒師・伊藤孝蔵氏(号・久徳)制作の盛上駒がタイトル戦に用いられるようになりました。この間30年近く、天童の駒師たちは屈辱をばねにして努力に努力を重ねてきたと想像されます。久徳師は元々書駒の職人だった人ですが、彫駒の職人の中にも盛上駒を造っていた人がいました。かつて専門誌『近代将棋』に連載された「銘駒研究室」というコラムの中で、将棋駒研究家の鵜川善郷氏は、「彫りの天一」の名で知られる佐藤静氏が1960年代初めに盛上駒を制作したことを述べておられます[4]。このとき『近代将棋』誌に掲載された写真を見ると、天一師が盛上駒においても抜群の技術をもっていたことが分かります。コラムはこれに続けて、天一と並び称される武山にも盛上駒の作例があったことを述べています。ただ残念ながら、その武山作の盛上駒がどのようなものであったかについては全くふれられていません。もしその「武山作の盛上駒」が例えば贈答用の駒であったとすれば、すべての駒に孔雀杢や虎斑の木地が揃って使われていた見事な銘駒だったのかもしれません。ただ、いま我々の目の前にある古駒は木地の材質がかなり不揃いなので、おそらくそうした贈答用の最高級駒だった可能性は高くはないように思います。
そんなことも想像しながらこの駒を眺めるのも楽しいことではないでしょうか。
・駒の書体に関すること
次に駒の書体にも注目してみたいと思います。玉将の駒尻には書体銘はありませんが、奥野一香が「錦旗」の名で造って売り出した創作書体、現在は「奥野錦旗」或いは「昇龍斎」と呼ばれている書体のように見えます(この書体については「その5 将棋駒の書体について」をご覧下さい。「奥野錦旗」と「昇龍斎」の関係については諸説があるようです[5])。おそらく奥野の創作書体が天童の駒に用いられるようになった作例と見てよかろうと思います。
大正の初め頃天童の駒商武内家の武内七三郎という人が上京し奥野の工房で修業をして、郷里に東京駒の制作技術を伝えました。おそらく彫りの技術と共に七三郎から天童の駒師たちに受け継がれたものに、この奥野錦旗の書体があったのだろうと思われます。武山銘の彫駒のうち最高級の「銘彫」の駒は、この奥野錦旗ないし昇龍に非常によく似ています。
実はこの武山銘の古駒の紹介は、昨年秋頃からずっと考えていたテーマでした。そして考えが具体的にまとまって行くにつれて、自分でも、この「奥野錦旗」或いは「昇龍斎」の書体で盛上駒を造ってみようと思うようになりました。奥野一香の錦旗駒は、写真でしか鑑賞したことがありませんが、たっぷりと漆を使って盛上げているという印象がありましたので、自分も普段の作よりも多めに漆を使ってみました。ところが寒さの厳しい青森では漆の盛上げは難しくかなり苦戦しましたが、先頃ようやく春の訪れとともに完成することができました。もちろん、奥野作にも武山作の古駒にも全く及ばぬ拙い自作駒ですが、こちらの方もご一瞥願えれば幸いです。
[1] 城下町弘前支部は、現在弘前市にある唯一の日本将棋連盟支部です。その活動状況などについては、「日将連城下町支部のHP」(URL…https://sites.google.com/site/xihongjiangqidaochang/home)をご覧下さい。
支部では毎週土曜日16時からの「例会」のほか、毎週水曜日18時からの「将棋の集い」、毎週月曜日と水曜日の16〜18時には「子供将棋道場」を行っています。会場は主に弘前市稔町の「めん房たけや」様をお借りしております。弘前市及び近郊の方々で将棋に関心をお持ちの方は、お試しで結構ですので、是非お気軽においでください。また、支部の稽古では、本格的対局の雰囲気が感じられるように、一部本榧の盤と本黄楊の駒を用いていただくこともできます。
なお、蛇足ですが、支部の将棋駒のうち6組は、支部からの依頼により筆者が制作した御蔵島黄楊の彫駒です。「城下町弘前支部某支部会員の独り言?」というブログには、駒の図像が紹介されておりますので、ご笑覧いただければ幸いです。(http://reirou777.seesaa.net/article/444749412.htmlほか)
[2] 宮川泰夫「天童将棋駒産地の変質」(『愛知教育大学研究報告 41 社会科学編』1992年)13〜14頁。
三人の「武山」のうち現在も活動されている書き師「二代目武山」の手塚博氏は、天童の武内王将堂の「書き士」です。また、既に故人となっている彫り師「武山」の森山慶三氏も、NHK「新日本紀行」の中で、完成した彫駒を武内王将堂の前身である「武内商店」に納める姿が記録されていました。これらのことから、おそらく三人の「武山」師は、武内商店(後の王将堂)と繋がりの深い職人で、それ故に「武山」という号を名乗っていると思われるのですが、いかがでしょうか。
[3] 本コラム「その8」・「3. 手彫りの名工たちの妙技」をご覧下さい。
[4] 鵜川善郷・河井邦彦「銘駒研究室 第21回 天童の駒師・天一」(『近代将棋』2008年2月号掲載)を参照しました。そこには、初代天一師(佐藤静氏)作の二組の盛上駒の図像が掲載されています。一組は初代天一師のオリジナル書体(「天道丸」)で1964年頃に東京オリンピックの記念品としてアメリカ大使館に贈呈された薩摩黄楊盛上駒。もう一つは天童草書体で1967年頃制作されたと思われる薩摩黄楊盛上駒です。二作とも影水や静山作の銘駒に匹敵するほどの出来栄えに思えるのですが、残念ながらそれに相応しい評価を得る事はできませんでした。初代天一師は41枚の組駒制作から飾り駒制作に切り替え、二年後の74年に急逝されたということです。そこでこの盛上駒が生涯最後の作品の可能性もあると書かれております。
[5] 「銘駒研究室 第5回」(『近代将棋』2006年10月号掲載)には奥野錦旗と昇龍斎の関係について興味深い記事があります。そこでは、初代竹風の大竹治五郎氏が、少年時代に奥野一香の工房で駒職人をしていた松尾氏から駒の書体の字母紙をもらった思い出を語っておられます。松尾氏はその時「これは一般に昇竜斎として作られているが、昇竜が本当の名前だ。」と言っていたそうです。その後、治五郎氏は竹風作昇竜の彫を制作しています。筆者の手元にはかつて『将棋世界』(1984年5月号)に掲載されていた或る盤駒店の広告写真のなかの「竹風作昇竜書」の彫駒の図像があります。その図像は鮮明なものではありませんが、一般に「奥野錦旗」の名で呼ばれる書体とは全く異なるもので、「淇洲」の書体に非常によく似ています。
・広告に掲載された「竹風作昇竜書」の駒の図像
この図像から、かつて少年時代の竹風師がもらった「昇竜斎または昇竜の字母紙」は実は淇洲書の字母紙だったと推測するのはやや飛躍があるかもしれません。しかし、逆に奥野錦旗イコール昇龍斎と速断することにも留保すべきものがあるといえるのではないかとも思います。
なお、現在の二代目竹風師(大竹日出男氏)も「昇龍書」の駒を制作しておられます。しかし、インターネットで拝見する限り、この駒の書体は淇洲の書体ではなく、明らかに奥野錦旗と同じ書体です (次のURLをご覧下さい) 。URL…https://item.rakuten.co.jp/shogi/380055/
将棋駒ものがたり 番外編1:中将棋と大将棋の駒について
初め今回は「将棋駒の評価」をテーマに実際市販されている様々な将棋駒の価格を中心に述べてみたいと考えていました。ただ、普及駒から高級駒まで将棋駒の値段に関する情報はあまりにも厖大で、調べれば調べるほど、ご紹介するための取捨選択はかなり難しく、先延ばしせざるを得なくなりました。近日中にご報告をするつもりでおりますので、今しばらくお待ちください。
そこで少しテーマを変えて、番外編として、歴史上現われた大型将棋類とその駒について述べてみたいと思います。将棋というゲームは、今から約千年前の平安時代後期には既に遊ばれていたことが分かっています。この歴史を少し眺めてみると、現在私たちが楽しんでいる駒数40枚の将棋の他にも、様々な種類の将棋類があったことが知られています。今回は、それらの将棋類の駒を紹介していきたいと思います。
我が国で将棋というゲームがいつ頃から遊ばれていたかについては明確ではありませんが、遅くとも11世紀の半ば、平安時代の後期に将棋が興じられていたことは、文献上の記述からも実物史料の出土からも確実です。
文献では、11世紀後半とされる『新猿楽記』という書物の中に、和歌や音楽など様々の芸能分野に秀でた人物が「囲碁」「将棊」などにも優れていることが記されています。ただ残念なことに、その「将棊」がいかなるゲームだったかは一切記されていません。
実物史料の最古の事例としては、1992年度に興福寺で発掘された15枚の将棋出土駒があります。一緒に天喜六年(1058年)と記された木簡が出土していることから、駒の年代はほぼ確定しています。「将棋駒ものがたり その1」をご覧いただければ、興福寺の出土駒には、「玉将・金将・銀将・桂馬・歩兵」の5種の駒が確認できます。ほぼ同時代か少し後の時代と考えられる平泉中尊寺の遺跡からは「香車」の駒も出土していますので、これを含めて当時の将棋には玉・金・銀・桂・香・歩6種の駒があったことは確実です。しかし、現在の将棋にある「飛車・角行」の駒は全く出土しておりません。ここから、
(1) 11・12世紀頃の将棋には飛車・角行は存在しなかった
という想定は相当の可能性をもっているといえるでしょう。
またその後現行将棋には含まれない「飛龍」「酔象」という2種類の駒が出土しています[1]。当時の将棋にはこれらの駒種も含まれていたのかもしれません。ただ、この2種は、後に「大型将棋の駒」に含まれています。そこで可能性として、(1)の小型将棋とは別に
(2) 何らかの大型将棋が遊ばれていた
と想定することもできるのではないでしょうか。
実際12世紀の左大臣の藤原頼長(1120〜56)は、日記『台記』の中で、崇徳上皇の御前で「大将棋を指して自分が負けた」と記しています。この記事は、上の(2)の想定を裏付けるものだと言って差し支えないと思います。
また、12世紀に書かれた二つの書物を元に鎌倉期に編纂された『二中歴』という文献がありますが、その中にも小型と大型の二種類の「将棊」が紹介されています。12世紀といえば平安末期ですから、この書に記された将棋を「平安将棋」「平安大将棋」と呼ばれることがあります。『二中歴』の該当部分は、数年前に国立公文書館で開催された「将棋むかしむかし展」で展示されていましたので、これをご覧ください。
■『二中歴』「将棊」
ここでは、「将棊」とは玉・金・銀・桂・香・歩と6種類の駒を用いるゲームであることが明示されています。6種類の駒の動きは現代の将棋と全く同じです。また、敵陣に至れば金に昇格する(成金)のも現代と同じです。
ただ、大きな違いもあります。
(1) 飛車と角行の記載がない。飛車角行という大駒のない将棋だった可能性が大きい。
(2) 相手の三段目から敵陣としていると見られ、歩兵は二段目ではなく三段目に並んでいると推測できる。
(3) 最後の語句は「敵の駒が玉一枚になれば勝ちになる」という意味と思われる。持ち駒を再使用するルールであれば、このような状況まで対局が続くことはない。
従って現代とは異なり、捕獲した敵の駒を使用しない「取捨てルール」の将棋だった可能性が大きい[2]。
物好きの筆者は、十数年前に、安手の素材で「将棊」の駒を造って[3]、開始局面の駒の配置をしてみました。下の二つの図のうち、かつては「平安時代の将棋」として右の図が掲げられることが多かったようですが、『二中歴』の記述に従えば左の配置の方が正しいと考えて良いでしょう[4]。
■『二中歴』の小型の「将棊」 初型配置の再現
平安期から鎌倉期にかけてこのような大型将棋が興じられていたことが分かります。金田一京助氏は、先の藤原頼長が御前で指したのがこのタイプの大将棋だったと考えていますが、確実ではありません。『二中歴』の文面を基にすると、大将棋は、13×13の盤面を用いる将棋で、一番下段に銅将・鉄将が加わり、二段目には奔車・飛龍・猛虎・横行が配置されます。三段目の歩兵の列の中央の上には注人の駒があります。駒数は互いに34枚ずつ合計68枚の将棋です。ただ、この大将棊にも飛車と角行は登場していないことは注目すべきでしょう。
下の写真は、同じように筆者が安手の素材で造った「大将棊」の駒とその開始局面図です。
■『二中歴』の「大将棊」 初型配置の再現
2.大将棋から中将棋へ
その後鎌倉時代の寺院関係の文書にも将棋に言及した記述があります。特に、鎌倉後期13世紀末の文献『普通唱導集』という文献には、大将棋について以下のような記述があります。
「大将基 伏惟 々々々々 反車香車之破耳ヲ 退ソケテ飛車ヲ 而取リ勝ツ 仲人嗔猪之合ハスル腹ヲ 昇桂馬而支得」
この記事に登場する大将棋の駒は「反車」「香車」「飛車」「仲人」「嗔猪」「桂馬」の6種類です。『二中歴』の大将棋と比較すると、反車は奔車、仲人は注人を言い換えた可能性もあるので良いとしても、飛車と嗔猪は全く新たな駒であることは明確です。ここから『二中歴』大将棋に代わる新型の大将棋が登場した可能性を読み取ることができるのではないでしょうか。この新型大将棋がいかなるものかは明確ではありません。ただ、戦国時代以降になると、上の6種類の駒を全て備えた「大将棋」がいくつか実在していたことは知られています。そのなかで最も駒数の少ないのが、互いに65枚ずつ、合計130枚の大将棋(大象戯)です。下の図は16世紀末に筆写された大将棋(大象戯)の初型配置の図面です。盤面は15×15、駒の種類は29種類、敵陣(おそらく五段目)に入った時に、昇格する駒があります。特に「酔象」が敵陣に入ると玉将と同じ駒・「太子」に成り、王様が2つある状態となります。この駒数130枚の大将棋が『普通唱導集』の大将棋であるかどうかは分かりませんが、このような大型将棋が鎌倉時代に成立していたとすれば驚くべきことです。
■駒数130枚の「大将棋(大象戯)」 初型配置 (水無瀬兼成による[5])
ただし、駒数も種類も多く、余りにも煩瑣であることを考えると、やはり駒数130枚の大将棋がゲームとして実際に流行した期間はそれほど長くはなかったのではないでしょうか。そこで盤面を小さくし駒数を減らして遊びやすくした新型の大型将棋が考えられるようになったのだと思います。それが12×12の盤面に駒数92枚で遊ぶ「中将棋」でした。中将棋は14世紀半ばの文献[6]にその名が記され、15世紀には公家や武家の間でかなり広く普及し、特に公家の間では16世紀にかけて小型の将棋よりも盛んに興じられていたと考えられています。江戸時代に入り、現行の駒数40枚将棋が大流行するようになると、主流からは外れ少しずつ衰退していきますが、それでも江戸後期にもかなり多数の人々の間で興じられていました。
以下に水無瀬兼成の筆写した中将棋(中象戯)の初型配置を掲げますのでご覧下さい。
■駒数92枚の「中将棋(中象戯)」 初型配置 (水無瀬兼成による)
中将棋は、駒の種類は21と大将棋に比べかなり少なくなっていますが、歩兵以外の17種類の駒の成様がそれぞれ異なっていて、大将棋よりもはるかに面白いゲームだったと思われます。実際に江戸期以降に中将棋の対局棋譜が遺されていますが、手数は300手を超え400手以上に及ぶものもあった[7]ようです。(筆者も30年ほど前に友人と中将棋を指した経験がありますが、かなり早指しのつもりだったのですが終局までに2時間ほどかかり、疲れてしまったことを記憶しています。)
中将棋の指し方について興味のある方は、「日本中将棋連盟」の中の「中将棋講座」をご覧いただければ、と思います。
(http://www.chushogi-renmei.com/kouza/kouza_main.htm) また、中将棋連盟のサイトには「コラム」の中で中将棋以外の大将棋類についても概説があります。
3.中将棋駒と大将棋駒
中将棋は、明治以降も主に京阪神地方で「お公家将棋」として遊ばれており、かの大山康晴十五名人(1923〜92)も、修業中に中将棋にかなり没頭した時期があった[8]ことが知られています。その後も一部の愛好家の間で興じられていましたが、ほとんど忘れ去られたゲームになっていたと思います。この状況を惜しみ中将棋に親しむ将棋ファンを少しでも増やそうと考えたのが大山名人でした。この名人のアイディアに協力したのが都内の盤駒専門店・佐藤敬商店です。こうして盤駒の製造が進められ、ついに「中将棋盤駒セット」が市販されるに至りました[9]。
■はじめて市販された普及品の中将棋盤駒セット(1987年頃購入したもの 駒はプラスティック)
ここでまたまた、私と中将棋駒に関する昔話を一つさせて下さい。
筆者が中将棋のセットを購入したのは昭和時代末頃のことで、都内神保町の奥野カルタ店で買いました。駒はプラスティックで盤とのセット価格は\6000円だったと記憶しています。お店の話では、「以前はシャムツゲの中将棋書駒も\25,000円で売っていたけれども、駒書きの職人が書くのを嫌がって現在は入荷が望めない」というお話でした。そこでプラ駒を買ったのですが、いつかはツゲの中将棋駒を手に入れたいと思いました。
それから数年が経ち平成の時代になって、唯一の中将棋駒の製造販売店・佐藤敬商店を訪ねると、今はシャムツゲの彫駒も注文販売しているとのお話だったので、早速注文することにしました。購入したこの中将棋の駒を眺めてしばらくは悦に入っていたのですが、ちょうどその頃、将棋駒造りの趣味にはまり込み色々な書体の駒の制作をしていた筆者は、その一方で、一度は駒数92枚の中将棋の駒も自分で造ってみたいとも考えるようになりました。
しかし、いざ始めてみると、余り歩も入れると93枚の駒木地を種類ごとに揃えるのはなかなか難しく、駒造りの会にご無理を言って頒布してもらったり、盤駒専門店から融通してもらったりしました。また駒数の多い中将棋を専心的に造るのは、負担が大きいので通常の40枚将棋を造る傍ら何枚ずつか制作する、という「ながら駒造り」の手法を採って造ってみました。何年か試行錯誤ののち、ようやく少しはましな中将棋の駒ができるようになりました。下の@の画像は2002年頃に制作したもので、裏面を朱塗りにした中将棋の彫駒です。駒の素材はシャムツゲで、書体は佐藤敬商店製の駒の書体をお借りしました。裏の朱塗りは依頼主のご意向ですが、朱色の本漆の場合は扱える力量に欠けるので、裏表共に人工のカシュー塗料を使用することになりました。
■@中将棋の彫駒(2002年頃制作したもの 左:表面の初型配置 右:盤面左側の裏面)
また、Aの画像は同じ頃に造った中将棋の彫埋駒です。こちらの方は、本漆に砥の粉を混ぜたサビ漆を何度も埋めて造ったものです。中将棋の普及のために出版された中将棋の入門書『はじめての中将棋』(2003年)に駒の写真として掲載されたものです。
この中将棋彫埋駒は、まだまだの出来と思っていたのに、思いがけず知人から彫りの線が明瞭だと褒められて嬉しかったことが嬉しい記憶です。
■A中将棋の彫埋駒(同じ頃筆者が制作したもの) 右はその駒が掲載された中将棋入門書
これまで筆者が制作した中将棋の駒はこの二組を含めても10作近くに及んでおりますが、そのうち彫埋駒は2作で、盛上駒も2作あります。さすがに盛上駒の場合は、最後の漆の盛上げは先の「ながら駒造り」の手法では仕上げにばらつきが大きくなるので、集中して行いました。それでも駒の枚数が多く、大半の駒文字が字画数の多いものなので、完成まで数か月を要しました。下はその盛上二作のうち初めに造った一組です。元々は彫駒として造っていたのですが、途中でいっそのこと盛上にしてみようと方針変更で造りました。書体は、都内・両国の前沢碁盤店所蔵の書駒(江戸末期と推定)を手本にしています。駒尻には、大阪の駒工房・「安清」の名が記されています。
■B中将棋の盛上駒(2007年頃制作したもの 左:表面の初型配置 右:盤面左側の裏面)
この中将棋盛上駒の制作で、自分としては、不満ながら一応の達成感を得ました。しかし、その頃から現行将棋駒の制作にますます没頭するようになり、大型の将棋の制作はそろそろ潮時かという思いが頭をよぎるようになりました。そこで、ちょうど2009年頃に依頼のあった大将棋の盛上駒を水無瀬兼成の書体を手本にして制作するという仕事を引き受け、同じ書体の中将棋盛上駒もこれと並行して造ってみることにしました。
この時も、盛上駒制作ですから「ながら駒造り」はできませんでした。普通の将棋駒造りはストップで、1年以上大型将棋造りの日々でした。かなり厳しい制作でしたが、2010年には大将棋と中将棋の盛上駒を完成することができました。
こうして大型将棋類の制作に一区切りをつけた筆者は、還暦を機に5年前から駒造りは普通の将棋のみと決めました。現在大型将棋類の駒制作は一切行っておりません。
最後に自作の大将棋駒をご覧いただきたいと思います。下の図は、これまで三組造った130枚大将棋の駒のうち、2008年頃に制作したものです。駒木地はシャムツゲ材で、駒字の書体は水無瀬駒を手本にしました。この彫駒を造れたので、次の盛上の大将棋駒も制作できたと自分としては考えています。
■駒数130枚の「大将棋(大象戯)」 初型配置の再現 (シャムツゲ・彫駒)
[1] 「飛龍」の駒は2002年に平泉町の志羅山遺跡で発掘され、「酔象」の駒は2013年に興福寺で発掘されています。なお、興福寺では1992年度に15枚の駒が出土した際に「酔像」と記された木簡が出土しており、その当時から「酔象」の駒の存在を想定する見方がありました。
[2] 『二中歴』の将棋は「取捨てルール」だったと最初に解釈したのは、幸田露伴氏で金田一京助氏もその解釈を採っています。
[3] 実は、平安期の出土駒を見ると、駒の上部の幅と下部の幅は同じ位で、現在の駒とは大きく異なっています。駒の形が今の駒と同様な形になっているのは自分としては残念に思っています。
[4]「平安時代の将棋」の初型として歩兵を二段目に配置した図は、戦前では金田一京助氏執筆の『日本百科大辞典』・「将棋」の項に、戦後は山本亨介氏著の『将棋文化史』の中にあります。これに対して、歩兵は二段目ではなく三段目が正しいと初めて指摘したのは木村義徳氏でした。
[5] 水無瀬兼成の『象棊纂圖部類抄』(1593年)が現在東京都立中央図書館に所蔵されています。
[6] 中将棋の名が初めて現われた書物とは『新撰遊覚往来』(1372年以前に成立)です。
[7] 岡野伸氏による中将棋の研究書『中将棋の記録』(一)・(二)に棋譜が掲載されています。
[8] 井口昭夫『名人の譜 大山康晴』29頁。
[9] 岡野伸・前掲『中将棋の記録』(一)43・44頁。なお、『将棋世界』誌のバックナンバーを調べてみると、1978年の9月号と10月号の裏表紙の佐藤敬商店の広告に、「中象棋」の盤駒セットの販売が掲載されています。駒は御蔵島黄楊高級彫駒、盤は本榧卓上盤と本格的なセットで価格は\150,000円となっています。また同じ頁には「普及品」のセットも紹介されています。駒はプラスティック製、盤は桂材卓上盤とあり、価格は\6,000です。こののち筆者が入手したのはおそらくこのセットだったのでしょう。
将棋駒ものがたり 番外編2:チェス駒ものがたり
今回と次回は番外編の続きとして世界に視野を広げて、各国の将棋類の駒を紹介していきたいと思います。世界の将棋類の中でもっともよく知られているのはチェス(Chess)です。将棋の愛好が概ね日本に限られているのに対して、チェスは世界180カ国以上に普及[1]しており、競技人口が約3億人と推計されています。そのため「ゲームの王様」と呼ばれることもあります。そして、海外の将棋類はチェスだけではありません。将棋ファンであれば、中国でも昔から「象棋(シャンチー:Xiangqi)」という名前の独自の将棋が遊ばれてきたことをご存知の方も多いと思います。我が国で実際に中国の象棋の対局経験のある方は稀であり、象棋の盤駒の形姿やルールもご存じない方が大半でしょう。しかし、象棋は中国本土のみならず世界各国の中国系の人々の間では広く興じられています。その競技人口は、おそらくチェスを上回っており、約5億人という推計もあります。
このように、チェスと中国象棋が日本の将棋の仲間であることは或る程度認知されていると云ってよいでしょう。しかし将棋など盤面ゲームが好きな人でも、世界にはチェス・中国象棋・日本将棋の他にも多くの国でそれぞれ独自の将棋類があり、それらの将棋類にはそれぞれ特色のある駒が用いられているということまでご存知の方は意外に少ないというのが実態ではないでしょうか。筆者は以前からチェスの歴史や世界の将棋類について興味があり、特にこれら将棋類の駒に関しても少し調べてみたことがあります。そこで、今回は「チェスと世界の将棋類の駒ものがたり」をテーマにしてみようと考えました。
最初に世界の将棋類で最も広く知られているチェスの「駒ものがたり」から始めましょう。
まず筆者の所蔵するチェスの盤駒の写真をご覧下さい。
このセットは、10年以上も前に駒造りでお世話になっていた都内の盤駒専門店で入手したものです。ヨーロッパ製の高級品には及ばないものの、ある程度本格的な雰囲気のある駒ではないかと思います。
左の写真は、開局時の駒の配置を示しています。市松模様の8×8の盤上に白黒両軍が向かい合っています。共に2列目に歩兵(Pawn)が並び、その後列には王(King)・女王(Queen) を中心にして左右に僧正(Bishop)・騎士(Knight)・城或いは塔(Rook)が2個ずつ並んでいることは誰でもご存知と思います。ただ、初めてチェスに出会った時に、キングとクイーンの位置が白軍と黒軍で反対になっている(白がQ左・K右、黒がQ右K左で互いに向き合う形になっている)ことを不思議に思ったという記憶をお持ちの方もいるのではないでしょうか。実は筆者もその一人で、チェスを覚え始めた頃に、キングとクイーンの配置に迷っていると、「開局時に駒を並べる時は、白のクイーンを白のマス目に黒のクイーンを黒のマス目に置く、と覚えるんだよ」と教わったものでした。
次に6種類の駒の形を示した右上の写真をご覧下さい。上の段が白の駒で下の段が黒の駒ですが、6つとも一見しただけで駒の種類が明瞭に分かる形になっています。左から見ていくと、キングの駒は一番高さがあり頭に王冠を載せています。次にクイーンの駒は二番目に高く、こちらも(后の)冠を載せています。その隣のビショップの駒は司教冠の形になっており、斜めの切れ込み[2]が入っています。ナイトの駒は馬の頭部の形で明らかに騎士を表しており、ルークは塔の形になっています。最後にポーンは最も小さく単純な形で、この形はおそらく最弱の駒の表現なのでしょう。この駒形は本格的な高級駒から子供用の玩具の駒に至るまで同様なので、チェス駒の形は全てこのパターンだと思われるかも知れません。実は現在普及しているこの駒型は、19世紀半ばになってから考案されたもので、「ストーントン(スタウントン)スタイル(Staunton Style)」と呼ばれる近代的なタイプのデザインです。ヨーロッパのチェス駒の歴史を少し調べてみると、このストーントン型の以前にも、6種類の駒を王・女王・僧正・騎士・城・歩兵の具体的な姿ではなく簡単明瞭な形で表現した駒型が数多くあったということが分かります。こうした駒型は、「簡易型のチェス駒(Conventional Chessmen)」と総称されます。そして、チェスの駒のすべてがこのような簡易型ではありません。チェス駒には、王や騎士などの具体的な姿をした「形象型のチェス駒(Figural Chessmen)」と呼ばれるタイプの駒もあります。チェスの歴史を調べると、この形象型の駒はかなり古くから数多く造られていました。
現在世界最古のチェス駒とされるセットは、1977年に中央アジアの古都サマルカンド近郊で発掘された推定8世紀頃の「アフラシアブの駒」[3](左下の図像)です 。王から歩兵までいずれもが戦う者たちの具体的な姿を表した小像となっています。またヨーロッパ中世のチェス駒の中で最もよく知られているものに、1813年にスコットランド北の離島で発見された「ルイス島のチェス駒」があります
(右下の図像はその複製品[4])。この駒は北海からイスラーム世界まで航海して通商・交易をしていた北欧のノルマン民族によって12世紀頃に造られスコットランドに伝えられたと考えられています。こうした歴史的文化財以外にも、形象型のチェス駒は現在でも造られており、例えば、アニメや映画のキャラクターの姿や中世西洋の王国の軍隊の姿をしたチェス駒が販売されています。これらは対局には不向きですが、蒐集家には人気があり、贈り物などに選ばれることもあるようです。
チェス駒の歴史・図版1 中央アジアとヨーロッパの形象型チェス駒の例
こうした形象型の駒に対して、実際の対局用のチェス駒は、王・女王・僧正・騎士・城・歩兵の6種類の駒を、具体的な姿ではなく、より簡明な形で表現しており、先に述べたように「簡易型のチェス駒」と呼ばれます。チェスは元々中世にイスラーム世界からヨーロッパに伝えられたゲームですが、駒型もイスラーム世界に流通した駒型が取り入れられたと思われます。イスラーム世界の駒は、王・大臣(西洋では後に女王の駒になった)・歩兵などの姿が抽象化され、それぞれの特徴が簡明に表現された形になっています。これは、精緻な形象駒が対局に適していないという実際的理由に加え、偶像崇拝を厳しく禁じたイスラームの教えが影響したとも考えられています。例えば左下の図像はイランの遺跡で出土した9〜11世紀頃と推定されるチェス駒の模造品ですが、王の駒は玉座の形、大臣の駒は大臣の座で表されています。また、象(ヨーロッパでは僧正)の駒は二つの突起のある半球形となっています。この二つの突起は象の牙の表現だという見方があります。さらに、騎士の駒は馬の輪郭、城の駒はイスラーム世界の城に見られる砦の形を簡明に表したと考えられます。最後に歩兵の駒は小さな角錐かやや縦長の半球の形になっていることが多いのですが、この小さく単純な形が最弱の駒の表現かもしれません。また、右下の図像は中世のドイツの古城から発見されたチェス駒の模造品です。この駒は、先のイランの出土駒にかなり類似した形になっていて、後に見るヨーロッパの近現代のチェス駒とは大きく異なる形です[5] 。この駒以外にもヨーロッパ各地でイスラーム世界の駒の形によく似たチェス駒が多数出土しています。簡易型の駒の形の源流はイスラームのチェス駒の形だったという可能性はかなり大きいのではないでしょうか。
チェス駒の歴史・図版2 イスラームの簡易型チェス駒の事例(いずれも出土駒の複製品)
チェスがヨーロッパに普及するにつれて、イスラームのチェスに飽き足らないものを感じた人々の間にルールを大幅に改めようとする動きが起きました。例えば、イスラーム世界では、大臣の駒は斜め1マス目にしか動けず、象の駒は斜め2マス目飛んで行けるだけで、どちらも非常に利きの弱い駒でした。駒の呼び名は女王と僧正と変わっても、15世紀前半頃までは二つの駒の動きは弱いままでした。ところが15世紀末頃からはイタリアやスペインなどの国々で、現在の女王や僧正のような非常に強い動きで対局が行われるようになりました。またこれに先立って13世紀末には、歩兵を最初に動かす場合は2マス前進させてもよいと記した文献があり、このルールも一部の国で認められていたようです[6]。チェスの書物が多数出版されるにつれて、初めは従来型のルールで対局が行われていた地方でも新しいルールでの激しい勝負が好まれる傾向が強まって、少しずつ近代のチェスに近づいていきました。
駒の形もイスラーム型の駒から始まって、少しずつヨーロッパ独自のものに変わって行きました。13世紀後半スペイン王の命で作られた遊戯書の写本には、チェスの絵図が多数掲載されています。ここに描かれた駒の形には、上記の図版2に示したイスラーム型のチェス駒にやや近いものが感じられます。一方、15〜17世紀のチェスの本に描かれた駒の形からは、イスラーム型とは異なる印象を受けるのではないでしょうか。ただ、これらの駒の形には共通性は認められるものの、微妙に異なっており、そこから、この時代は対局用の駒の形も各国・各地ごとに異なっていたのではないか、という推測ができると思います。
チェス駒の歴史・図版3 中世から近代ヨーロッパのチェス駒の形(書物に掲載された駒の形から)
細部で異なる点を残しながらも、新しいチェスのルールは、17・18世紀にはヨーロッパ全土に急速に広がりました。この時代にチェスの先進国となったのは英・仏の両国でした。特にイギリスでは多数のチェス愛好家が対局に集まるロンドンのカフェの中にチェスクラブが組織され、会員が増加すると共に技量の水準は向上し、天才と讃えられるようなプレーヤーも現れました。フランスでもパリのカフェで盛んに対局が行われ、チェスクラブが組織されるようになりました。英・仏両国でのチェスクラブの創立と会員の急速な増加によって、地方でのみ通用したルールはだんだん衰えて国内ルールの統一が進みました。また、熟練したプレーヤーの多数が両国で同時に会員になっていたため、彼らが対局を重ねることでチェス先進国の英・仏でのルールの統一が実現するようになりました。さらに、先進国英仏のこうした動向は後進の国々にも強い影響を与えました。19世紀にはドイツでもスイスでもチェスクラブが創設されるようになりました。
チェスクラブの組織はチェスの勝負のあり方を大きく変えました。それ以前は対局には常に金が賭けられ勝ったプレーヤーが賭け金を得るという賭博の面がありました。クラブではこれを廃し、高額な入会金や会費を財源にしてクラブ内の大会での優勝者や入賞者に名誉と賞金を与えるという方式が取られました。これによってチェスは賭博から紳士の嗜みに変わる方向に進むことになりました。ヨーロッパのチェスはこの意味でも現在の姿にかなり近づいたといってよいと思います。
さて、19世紀のヨーロッパを代表するチェス駒の形を三つ紹介しておきましょう。左下はドイツで採用されてきた駒の形です。1616年にドイツで刊行された『チェス或いは王の遊び』という書物で紹介されたので、著者のグスタフ・セレヌス(Gustavu Selenusu)の名から「セレヌススタイル」と呼ばれています。花を思わせる細長い駒形からイギリスでは「チューリップスタイル」或いは「ガーデンスタイル」とも呼ばれますが、オーストリア・オランダなどのチェス駒の形にも影響を与えたものです。次の二つはともに英仏のカフェでチェスが盛んに指された時代に流行した駒形です。どちらも流行の中心となったカフェに由来する名前となっています。中央の駒の形は、イギリスの「セント・ジョージスタイル(St.George Style)」と呼ばれますが、それは、19世紀前半にロンドンの有名な「セントジョージ・チェスクラブ」で盛んに対局に用いられたためこの名で呼ばれました。イギリス国内では大流行した駒型で、もしその後にストーントン型の駒が現われていなければ、やがてチェスの公式対局に用いられる駒に認定されていたかもしれません[7] 。三番目はフランスでチェス対局の中心になった「カフェ・ド・ラ・レジャンス(Cafe du la Regence)」で用いられていたことから「レジェンシィスタイル(Regency Style)」と呼ばれるものです。こちらはセントジョージ型よりも更に広範囲に流行した駒形で、ヨーロッパ大陸のみならずアメリカ大陸やアルジェリアやベトナムなどの植民地にも普及しました。20世紀初頭頃まではチェス駒のグローバルスタンダードになるかと思われたこの駒形も、国際チェス連盟(FIDE:Federation Internationale des Echecs)がストーントン型を公式戦の駒に認定してからは勢いが急速に衰え、現在はスペインやメキシコでごく少数が生産されているにすぎません。
チェス駒の歴史・図版4 ストーントン型の登場以前に各国で代表的とされたチェス駒
ここでストーントン型のチェス駒が登場した経緯について手短に述べましょう。上に挙げた、19世紀を代表する英・仏・独の三つの駒はいずれも申し分のない美しい形でしたが、かなりの高さがある上に先端が尖っており、例えば指し手が交錯する場合などにやや指しにくさがあったと想像できるかもしれません。さらに異なる国のプレーヤーが対戦する機会が多くなると、互いに慣れ親しんだ自国の形の駒での対局を主張して紛糾する場合も考えられるため、各国独自の駒形を超えた新たな簡易型の駒が求められるようになっていました。ストーントン型のチェス駒が登場したのにはこうした背景がありました。この駒はイギリスのシェイクスピア劇の俳優で学者のハワード・ストーントン(Howard Staunton 1810〜1874)の名に由来するものです。彼はチェスクラブの有力なメンバーでもあり、1843年に英国人として初めてフランスの強豪を退けてヨーロッパの最強者と認められチェスファンの尊敬を集めていました。1849年に象牙や木製品などの制作会社を営んでいたジョン・ジャクス(John Jaques)が、親戚のジャーナリストであるナサニエル・クック(Nathaniel Cook)の考案したデザインを元にして、新たなチェス駒の販売に踏み切りました[8] 。そのとき彼らはストーントン自身からの推薦も得て、この新しい形の駒に「ストーントンスタイル」という名前を付けたのです。ストーントンの名声の影響は大きく、発売された新たな形の駒の売れ行きは、イギリスのみならずヨーロッパ各地で急速に伸びていきました。1913年に公刊された『チェスの歴史』の中で、著者のH.J.R.マリーは、「実際の対局には殆どのプレーヤーは「ストーントン型のチェス駒」の使用を選ぶだろう」と述べています。この頃にはストーントン型が圧倒的な多数派となっていたのでしょう。新たな駒型が成功を収めた要因として、多国間対局の増加に伴って新たなタイプの駒の必要性が高まっていたこと、さらに英・仏・独有力三国の代表的な駒に先に述べた短所があったことを見逃すことはできません。しかし何よりも、この駒のデザインが、一見で簡単明瞭に駒の種類が識別できるという点で従来型よりも格段に優れていたのが最大の要因だったのでしょう[9]。
レジェンシィ型やセレヌス型の駒は、20世紀初頭あたりまではヨーロッパ大陸などでは少数ながら対局駒としても使われていたようです。しかし、1924年に結成された国際チェス連盟が、ストーントン型をトーナメント用の正式な駒としたため、対局用の駒としては急速に姿を消すことになりました。今では一部の愛好家が観賞用の蒐集品として求める場合が多くなっています。
最後に日本で市販されているチェス駒の話に戻りましょう。
上で紹介した筆者所蔵の駒は、盤駒専門店のご主人の話では、かなり以前に本場欧州のチェスセットに対抗して台湾の工場に造らせて発売した商品ということでした。大手の玩具メーカーの子供向けチェスセットよりも少し高めですが、欧州のセットに比べるとかなり手頃な価格設定で売り出されました。鉛が内蔵されている欧州産の駒に比べると重量感は乏しいのですが、盤上に並べて眺めるだけでは本格的な雰囲気もあります。お店ではかなり期待して発売したのですが、実際にはそれほど売れ行きは伸びなかったようでした。
最初は不思議に思った筆者でしたが、いろいろと考えた末に、これは日本の場合チェスと将棋で需要の質に大きな違いがあったからだろう、という結論に至りました。もちろん需要数だけの問題ではありません。需要の傾向が将棋とは大きく異なるように思えるのです。日本にも一定数本格的なチェス愛好家がいることは確かです。ただ、熱心な愛好家ともなれば、対局に用いるのはやはりヨーロッパの高価なブランド品[10]が多いようです。その一方で玩具メーカーの安価なチェスセットの需要が一定程度あることも事実ですが、その中間に位置するような駒の需要はきわめて少ないようです。チェスの場合は将棋ファンとは異なり、初心者が興味を持ったとしても、そこから段階的に本格的な駒を求めるという方向に進むことはほとんどないのかもしれません。
以上「チェス駒ものがたり」と題して、いろいろと雑駁なことを述べてきました。しかし筆者は、チェスの棋力がまったくの初心者レベルというだけでなく、西洋のチェス史やチェス駒の形に関しても、将棋史や将棋駒の場合よりも一層知識が乏しいと自覚しております。おそらく今回拙文の中に記したことには、誤りや疑問符のつくことが多々あると思われますので、ご覧いただいた方々は是非お気付きの点などを「青森将棋界のHP掲示板」に投稿して下さるよう、お願いいたします。
なお、以下の資料を参考にさせていただきました。著者の方々に心より感謝申し上げます。
【参考書目】
増川宏一 『チェス』(法政大学出版局 2003年)
増川宏一 『将棋の起源』(平凡社ライブラリー 1996年)
ジェローム・モフラ 『チェスへの招待』(白水社文庫クセジュ 2007年)
『世界のチェス・将棋展U』(大阪商業大学アミューズメント産業研究所特別展示図録 2010年)
梅林勲 「チェスの駒あれこれ」(http://daiki-ken30.sunnyday.jp/program/wp-content/uploads/2016/09/チェスの駒あれこ.pdf )
『大英博物館の秘宝』(大英博物館出版局・ほるぷ教育開発研究所 1994年)
H.J.R. Murray A History of Chess (Oxford
University Press 1913)
Gareth Williams
Master Pieces (Viking Studio,
Newyork 2000)
Colleen Schafroth The Art of Chess (Harry
N. Abrams, Newyork 2002)
[1] チェスの国際的組織である国際チェス連盟には全世界で185カ国が加盟しているとされています。
[2] 真偽は確かではありませんが、斜めの切れ込みはビショップが斜めに進む駒であることを表わしている、という解釈もあるようです。
[3] アシラシアブのチェス駒の図像を多く紹介しているインターネットサイトのURLは以下のとおりです。(http://history.chess.free.fr/afrasiab.htm)
[4] 図像のうち王・女王・僧正・城将の5つの駒は、2003年10月東京で開催された「大英博物館の至宝展」で展示された駒の複製品として会場内で販売されたものです。海洋堂のミニチュア製造技術は高く評価され、それから数年後には白黒両軍フルセットの駒も発売されました。図像の歩兵は、そのフルセットの駒です。
[5] これらのイスラーム型チェス駒の実物の図像については以下のURLをご覧下さい。(http://history.chess.free.fr/first-persian-russian.htm 及びhttp://history.chess.free.fr/first-european.htm
)
このうち、後者のページにはヨーロッパで見いだされたイスラーム型の駒でありながら表面に精緻な人物の浮彫が施された図像がいくつか掲載されています。これらの駒は明確にキリスト教世界で制作されたと考えられますので、ヨーロッパ中世のチェス駒は初期段階ではイスラーム型であったと判断できるでしょう。
[6] これらに続いてさらにイタリアの一部などでは現在のキャスリング(「入城・入陣」:一手でルークとキングを入れ替える指し手のこと)の原型となるルールも採用されるようになっていきました。
[7] 図版4に示したセレヌス型とセント-ジョージ型の駒に関しては、現在インターネットの高級駒のページに類似したものが掲載されていますが、残念ながら筆者の周囲で駒の実物を観察することはできませんでした。そこでやむを得ず参考書目として挙げたGareth Williams氏の“Master Pieces”中に掲載された駒の図像を示すことにしました。これに対してレジェンシィ型の駒の方は、個人蔵のチェス駒に似たものがありこれを実見することができました。所蔵者によれば1990年代に欧風家具の店でインテリア品として販売されていたスペイン製のチェスセットだったと思うということでした。
[8] Jaques of London社では、現在もオリジナル・ストーントンスタイルの駒が販売されています。
[9] ほかにストー−ントン型の駒が成功した理由として、従来型に比べ製作が容易でありコストが抑えられるという利点を指摘する見方もあります。
[10] 本格的なチェスファンが求めるものは、ストーントン型のチェス駒の中でも、大会の公式試合用と認められるものか、或いは精度の高い高級駒であろうと思われます。これらはどれもヨーロッパ製で高い評価を受けている一流の駒です。そうしたブランド駒には、例えば、先のJaques of Londonのほか、フランスのLardy、Henri Chavetなどがあります。特にHenri Chavet社のチェス駒は、現在ではチェスオリンピックや種々の国際大会で競技用の駒として認定されていて、かなり人気があるようです。
将棋駒ものがたり 番外編3:中国のシャンチー
前回述べたように、世界の将棋類の中でチェスと中国象棋については或る程度知られています。しかし、他にも多くの国で独自の将棋類があり、それらの将棋類にはそれぞれ特色のある駒が用いられているということまでご存知の方は少ないようです。そこで、今回は中国の象棋(シャンチー)とその駒について述べたいと思います。そして次回は、中国以外のアジア各国でいまも興じられている将棋類とその駒を取り上げたいと思います。)
◇中国象棋(シャンチー)とその駒
筆者も学生の頃から、中国にも将棋に類するゲームがあるということは知っていました。しかしそれは漠然と知っていたというだけで、盤や駒の動かし方については、正確に理解していませんでした。ようやく二十代の終わり近くになって、増川宏一氏の『将棋』(法政大学出版局刊、1977年)を読んで、中国将棋(象棋・シャンチー)の概要を知り、他に朝鮮半島・ビルマ・タイ・東南アジアの国々などにもそれぞれ独自の将棋があり盤駒があるということを初めて知るに至りました。その後図書館などで調べてみると、シャンチー(象棋)についてはある程度の数の文献があり、これらを読んでさらにその特徴が分かってきました。
シャンチー(象棋)の盤駒は、世界の将棋類の中でかなり独自のものになっています(梅林勲著『世界の将棋』(将棋天国社刊、1997年)[1]を参考にしました) 。その特徴の中で主なものだけ挙げておきましょう。
@駒をマス目の中ではなく盤上の線の交点に置く。駒は線上を進む。(下の図像をご覧下さい)
A盤の上下中央の4つのマス目に斜線が入っている。この区域を「九宮(チュウグン)」という。
B盤の中央部には河(ホワ)または河界(ホジェ)という区域があり、そこから二つの部分に分かれている。
C駒は棋子(チイズ)と呼ばれる。円筒(円板)形で表面に駒の名が赤と黒で書かれている。(赤が先手)
Dその他に、将と帥とが間に駒を置かずに相対するのは禁じ手という「王不見王」のルールがある。
下にシャンチー(象棋)の開始局面と各駒の動き方を挙げますのでご覧下さい。
筆者がシャンチーの駒を入手したのはそれから何年か経った1980年代半ばのことでした。当時休日になるとよく出かけていた東急ハンズのゲーム用品コーナーの一角に販売されていました。中国製の「両用象棋」という珍しい商品で、円筒(円板)形の駒の表面はシャンチーの駒、裏面はチェスの駒になっています
(左下の図像です) 。価格が300円と安価だったので即決で購入したことを覚えています。紙の駒箱の中には附録として紙製の盤と初心者用の対局ルールが入っており、帰宅してから駒を並べました。その後、将棋仲間の中に指し方を知っている人がいて、一時期対局に興じました。その時、王手や最強の駒の車を取ろうとする場合は必ず中国語で「将(ヂャン)」とか「吃車(チチョ)」などと相手に知らせるルールがある[2]と教えられたことも楽しい思い出です。ただ、この駒は対局駒として全く問題はないのですが、象(相)の駒が両軍とも「相」になっているのが物足りないように思え、都内の伝統ゲーム専門店[3]や横浜の中華街でシャンチーの駒を探すようになりました。できれば「象」と「相」だけでなく、他の駒も、自分が読んだ解説書[4]にあるように、「士」と「仕」、「馬」と「?(人偏に馬の字)」、「車」と「俥」、「砲(包)」と「炮」と別の漢字になっている駒のセットが理想でしたが、なかなか見つかりません。ようやく古書店で偶然見つけて購入した『象棋 中国の将棋』という初心者用の入門書に付いていたプラスティック駒がほぼ求める条件を満たしていました。(下の図像です)
ところが最近になって、現在は中国大陸でも国際大会の場面でも士・馬・車・砲については同じ漢字が用いられる駒の方が一般的になっているということを知りました[5]。こうした駒の漢字表記は、対局に使用される実用駒だけでなく、贈答や観賞用の高級な駒にも見られています (下の図像をご覧下さい。この図像は両大会に出場された弘前市の田中篤さんからお借りしたものです。田中さんには深く感謝申し上げます)。
シャンチーの駒は、現在も東京都内の伝統ゲーム専門店や将棋盤駒専門店などで販売されている可能性があります。また、楽天やアマゾンなどインターネットショップでも入手可能です。手頃な価格で購入できるものもあるかと思いますので、興味のある方はあたってみて下さい。
◇シャンチーとチェスの比較
ここでチェスと比較しながら、シャンチーの盤駒が世界の将棋類の中でかなり独自のものであることを再度確認しておきたいと思います。代表的なのは、次の諸点ではないかと思います。
(1) チェス駒が立体駒であるのに対して、シャンチー駒は平らな表面に文字で駒名を記したものである。
こうした文字駒は、世界各国の将棋類の中で、シャンチー (中国ほか[6])、チャンギ (朝鮮半島)、将棋(日本)に限られている。
(2) チェス駒が盤上のマス目を移動するのに対して、シャンチーの駒は盤上の線の交点に置かれ、線上を移動する。このように駒が線上を動くのは、シャンチー、チャンギ
、シャッロン (カンボジア)に限られる。
(3) チェスのキングに当たる駒(黒の「将」と赤の「帥」)が占める場所は、「九宮」という9個の点に限られる。このようにキングの動ける場所を狭く限定するルールをとっているのは、世界の将棋類の中でもシャンチーとチャンギだけである。
(4) 盤の中央に敵と味方の領域を分ける「河」が設定されている。盤の中央部にこうした区域のある将棋類はシャンチーだけである。
シャンチーの歴史的起原については諸説があり、シャンチーの盤駒の独自性がどのようにして形成されたかについては、定説は確立してはいません。以下にシャンチーとその盤駒の歴史について述べることは、主に筆者の憶測と想像によるものであることを予めお断りしておきたいと思います。
◇シャンチーの歴史を考える
同じ盤上のゲームでも囲碁は歴史がずっと古く、紀元前から興じられていたという説もあります。これに対してシャンチー(象棋)は、かなり新しい時代のゲームです。「象棋」という語自体は紀元前の古典的文献の中にも見られますが[7]、これは「象牙製の駒」という意味の言葉で、将棋類の駒ではなく、おそらく全く別のゲームの駒だと考えられています。紀元前にシャンチーが存在していなかったことは確実でしょう。
他方ほとんどの人々が、文献や出土駒から見て、遅くとも北宋時代(960〜1127年)の末期、即ち11世紀末から12世紀初頭には現行とほぼ同様の盤駒でシャンチーが遊ばれていた[8]のは確かだと考えています。
シャンチーが遊ばれ始めた時期は、この北宋時代末期からどこまで遡ることができるのでしょうか。
中国では、歴史書の中に南北朝時代(439〜589年)末期の北周王朝の武帝が『象経』を講述した[9]という記述があり、そこから、武帝が「象戯」と云うゲームを考案し、これが唐から北宋の時代に変容してシャンチー(象棋)になったという起原説が唱えられるようになりました[10]。そこからさらに進んで、中華思想の影響からか、武帝の創造したこの「象戯」というゲームがインドやペルシアに伝えられた、従ってそれがチェスなど将棋類の起原であるという中国起原説も唱えられました。
一般に世界の研究者の間では、チェスの起原はインド又はペルシアであろうという説が有力なのですが、中国起原説はその正反対の主張ということになります。中国では20世紀になっても将棋類中国起原説が支配的でした[11]が、さすがに近年になって、シャンチーは元々インドやペルシアから伝えられた将棋類が起原であり、それが中国で独自の変様をすることで現在のような形になった、という世界の大勢に沿った見方も有力になりつつあります。
かりにチェスの起原をインド(或いはペルシア)に求めるという通説を前提にしてシャンチーの歴史を考えてみましょう。現在まで伝えられる文献を見ると、チェスが6世紀頃までにインドやペルシアで遊ばれていたことは概ね確かです。また、世界最古とされる中央アジア・サマルカンド郊外出土の「アフラシアブの駒」(番外編2をご覧下さい)は7〜8世紀頃と推定されています。中央アジアには6世紀後半からトルコ系遊牧民の突厥が建国した帝国が繁栄していました。突厥が支配下に置いて保護したイラン系のソグド商人の交易活動によって中央アジアと中国との交易が進み、その中で多くの文物が中国に伝えられました。その中に将棋類があったのかもしれません[12]。唐王朝末期頃に成立したといわれる怪奇譚には将棋類の盤駒とおぼしきものが登場する物語[13]があります。物語の年代に不確かさもあるようなので断定は控えますが、唐代末期頃までにシャンチーの原型となるような将棋類が中国に伝えられていた可能性は十分あると思います。
◇シャンチー駒が成立した過程を想像すると…
上で述べたように将棋類の起原をインドまたはペルシアに想定した場合、伝播経路の出発点の駒は立体駒だった可能性は大きいだろうと思います。それが時を経て北宋時代末期には駒は円筒(円板)形の文字駒になっており、現行と同じように盤上の線を進むようになっていました。マス目を移動していた立体駒が一気に円板形の文字駒になり、同時に線上を動くようになった可能性もありますが、いくつかの段階を経て駒の姿が変化して現行のような円板形の文字駒が生まれたと考えることもできると思います。
駒の形状の変化について筆者は、ゲームの普及に伴って立体彫駒を簡略化する必要が生じたことがその要因の一つだったのではないか、と考えています。中央アジアの駒は象牙・獣骨などの材質を彫って造られた精緻な立体彫駒なので非常に高価な貴重品だったことでしょう。仮にこうした駒が伝えられて、支配層の人々の贈答や観賞には用いられても、大多数の人々にはとても手の届かないものだったと思います。それでも象棋の原型となったこのゲームが普及するようになると、実際に対局する多数の人々が入手しやすい単純な形の駒が求められるようになった、という状況は容易に想像できます。こうして簡易型の駒が造られたのがいつ頃のことなのか、また中央アジアから西域を経て中国に至る経路の中でどの辺りでのことだったのかは分かりません。ただ駒を簡易化しようとした時に、他の盤上ゲームで用いられていた単純な形の駒が参考例になったのかもしれません。中央アジアでも中国でも先行する盤上ゲームの駒にはいろいろな形があり、その中には様々の形状の駒と並んで、敵味方を色で区別する円形状[14]の駒もありました。シャンチー独自の円板状の駒形はこのような経過を経て生まれたのではないでしょうか。
こうして生まれた簡易駒に円板状の形を取入れて、その表面に駒の種類を書き表せば、象棋の対局駒として使用可能になります。王・大臣・象・馬(騎士)・車・歩兵の図像を描いて駒種を示す[15]ことも、「将」「士」「象」「馬」「車」「卒」と漢字を書いて示すこともありえたと思います。さらに、片面に図像を描き片面に漢字を書くことも可能でした。事実出土駒の中にはこうした両面書きの駒(下の図像)がかなりの数見られます[16]。なお図像(絵)で駒種を表すことで、漢字を用いない相手とも対局が可能となります。伝来以来ゲームの普及に伴って駒が円形に変化した後も、漢人と西方の人々が対局する機会が多かったのかもしれません。
先に述べたように、現行のシャンチーにはさらにいくつか独自性が見られます。このうち最大のものは、駒の移動が盤上のマス目からマス目に進むのではなく、線の交点から交点に進むという点です。こうした駒の動きの大転換と円形文字駒の成立は、どちらが先に起きたことだったのでしょうか。囲碁の影響の下に両方の大変革がほとんど同時に生じたという見方[17]もありますが、決定的な理由とまではいえないと思います。円形文字駒がマス目内に置かれた段階があった可能性も、立体駒や図像駒が盤上の線の交点に置かれた段階があった可能性も全否定することはできないだろうと思います。
さらに盤上に「九宮」と「河界」の設定、「砲」の駒の登場などを経て、11世紀末の北宋末期頃には現行に近い形のシャンチーが成立したというのが、現在一般に認められている見方のようです。しかし、これらの変化についてもその前後関係については明確になっていません。今後中国で盤駒などの出土が増えることでシャンチー史の研究が大きく前進する可能性も大きいと思います。
今回は、以下の資料を参考にしました。著者の方々に深く感謝申し上げます。
* 周宣杉(雨宮伯龍訳)『象棋』(東京出版企画社、1973年)
* 松田道弘『世界のゲーム事典』(東京堂出版、1989年)
* 梅林勲『世界の将棋』(将棋天国社、1997年) (岡野伸氏と共著の改訂版が2000年に刊行される)
* 岡野伸『中国の象棋』(自費出版、2000年)
* 岡野伸『東洋の将棋』(大阪商業大学アミューズメント産業研究所、2007年)
* 増川宏一『将棋の起源』(平凡社、1996年)
* 木村義徳『持駒使用の謎』(日本将棋連盟、2001年)
* 伊東倫厚「将棋探源 23」(『将棋ジャーナル』1987年11月号掲載)
* 清水康二「古式象棋と将棋の伝来」(『考古学ジャーナル』1998年3月号掲載)
* 清水康二・宮原晋一「宋代象棋駒とその性格」(『遊戯史研究14』、2002年掲載)
* 清水康二「将棋伝来再考」(橿原考古学研究所紀要『考古學論攷』第36冊、2013年掲載)
[1]将棋天国社は、おいらせ町の棋道師範・中戸俊洋八段によって創設され、これまで多くの将棋関係の専門書を刊行してきました。ここで紹介した『世界の将棋』は、チェスをはじめとする百種類以上の将棋類を網羅的に紹介した貴重な本です。この本は、後に岡野伸氏との共著として改訂され再版されました。青森県立図書館には1997年の初版が所蔵されています。県立図書館の蔵書は最寄りの公共図書館経由で貸し出しを受けることが可能ですので、関心のある方は是非ご一読ください。
[2]現在シャンチーの国際大会で日本代表として活躍されている田中篤氏に伺ったところでは、大会で王手を相手に宣告するようなことはないそうです。もしかして、シャンチーは正々堂々と指すべきだと教えるためにエチケットとしてこうした慣行があったのかもしれません。
[3]1970年代日中国交正常化に伴う友好ブームの中で任天堂から象棋盤駒セットが発売されています。はじめは売れ行きも良く、百貨店などで販売されたこともあったようですが、その後売り上げは減少してしまいました。ただ平成に入っても都内の伝統ゲーム専門店(千代田区の奥野かるた店)には常時置かれていました。盤は折りたたみの板盤で駒はプラスティック製の浮彫駒でした。このセットは、盤がしっかりした造りでしたが、駒の文字が車・馬・砲の駒で同じ文字が用いられていたため、購入に至りませんでした。10年ほど前にはこの専門店で見かけたのですが、残念ながら数年前に立ち寄った時はすでに販売されていませんでした。今でもネットオークションなどに出品されることもあるようです。
[4]1990年頃だと思いますが、都内の中国書籍専門店で購入した邵次明編『象棋戦略』(1988年)という本が筆者所蔵の唯一のシャンチー戦法入門書です。そこでの駒字は、将・帥、士・仕、象・相、馬・?(人偏に馬の字)、車・俥、砲・炮と両軍で異なる漢字が用いられています。また、同じ頃購入した英文のシャンチー入門書”Chinese Chess”(TUTTLE,1985)という本では、士・馬・車・炮の四つの駒種で同じ漢字が用いられています。
[5]今年の「20回青森将棋まつり」の企画で初心者向けのシャンチー入門教室が開催されていました。指導されていたのは、先に脚注2でご紹介した田中篤氏でした。用いられていた駒は、恐らく普及用の駒と思われるもので、文字の表記は赤黒両軍とも「士」・「馬」・「車」・「砲」と同じになっています。見学していた筆者が「中国の将棋では両軍で異なる文字が用いられるのが正式だと思っていたのですが…。」と尋ねると、田中さんの答えは、「国際大会では両軍とも士・馬・車・砲と同じ漢字で表記される駒が使われています」というものでした。そして、台湾では両軍で異なる文字が表記されていることがあるが、大陸では少ないようだ、と教えてくれました。たしかにシャンチーの場合両軍の駒は赤と黒の色で敵味方が区別できるので、実際の対局で四つの駒種で別の文字を使用する必要はありません。むしろ両軍同じ駒文字を用いる表記法の方が、ゲームの国際化という観点でより優れているといってよいでしょう。
[6]実際我が国で近年刊行されたシャンチーの解説本では両軍同じ駒文字が用いられています (岡野伸氏の『中国の諸象棋』、『東洋の将棋』がその例です)。
ベトナムではシャンチーの流れをくむ「カートン」という将棋類が主流となっています。また、沖縄では琉球王国時代に伝えられたシャンチーが変化した「チュンジー(琉球象棋)」が戦前まで広く興じられていました。これら二つの将棋類は盤駒も指し方もシャンチーに非常に類似しており、ここでは、広い意味でシャンチーの部類に含めて考えました。チュンジーとカートンについては前掲『世界の将棋』132・133p及び『中国の諸象棋』の88〜91pと98・99pをご覧下さい。
[7]戦国時代の末期の詩人・屈原(BC342〜277)の『楚辞』に「菎蔽象棋、有陸博些」という語句があります。また、前漢末期の文献『説苑』にも戦国の有力諸侯孟嘗君(BC3世紀)の逸話を紹介する中で、「象棋を闘わす」と云う表現があります。
[8]実物史料では、中国各地からは北宋末期から南宋初期と推定される象棋の駒が出土しています(実例の図像を以下のHPでご覧下さい。http://history.chess.free.fr/xiangqi-old-pieces.htm )。また、文献史料としては、同じ頃活躍した女流詩人の李清照の作品に象棋盤が現行と同様の形で描かれています(その図像は、http://history.chess.free.fr/xiangqi.htm でご覧下さい)。これらのことから、遅くとも11世紀末頃までには、現行のシャンチーと同様のものが興じられていたと推定して差し支えないと思います。
[9]「帝制象経成、集百僚講説」(『周書』巻五)。この「象経」そのものは亡失して内容は全く不明ですが、関連の文献からこれを「象戯経」とする見方があります。さらに「象戯」が或る種のゲーム類、しかも象棋に似たゲームのことではないかという推定が生まれたのでしょう。こうして武帝による象棋の創造という説が出てきました。
ただ、「象経」または「象戯」に関連する文献には易・卜占・天文に関わる語はでてきますが、現行の象棋との関連を暗示するような字句は一切ありません。それゆえ「象戯」が仮に或る種のゲームだとしても、将棋類とは全く無縁であると見るべきでしょう。(伊東倫厚「将棋探源 23」、及び木村義徳『持駒使用の謎』を参考としました)
[10]例えば、1991年刊の張如安著『中国象棋史』には、10世紀後半の『太平御覧』には「周武帝造象戯」という記述があると述べられています。(増川宏一氏の『将棋の起源』を参照しました)
[11]チェスの中国起原説は中国人のみならずヨーロッパ人によっても唱えられています。その代表といえるのが、イギリスの科学技術史学者のジョセフ・ニーダム(1900〜95)でした。彼は大著『中国の科学と文明』の中で、西洋の学者たちが唱えるチェスのインド起源説を根拠が薄弱であると退け、反面武帝と象戯との関わりや象戯と占いや天文学との関わりを強調しています。(『中国の科学と文明』「第七巻 物理学」思索社刊、1991年)
[12]20世紀初頭、中央アジア・トルファンのシルクロード要衝 だった高昌の遺跡から、騎乗した戦士の小さな彫像が発掘され、ドイツの報告書に記されました。その姿はアフラシアブのチェス駒に非常によく似ています(http://history.chess.free.fr/first-persian-russian.htm)。この小像も、サマルカンドから東に2000キロ近くも離れたこの地まで伝えられたチェス駒なのかもしれません。
[13]皇帝太宗の命により北宋初期に (977〜983)編纂された『太平広記』所載の『玄怪録』という怪奇小説がそれです。この小説は唐王朝末期に宰相だった牛僧孺(779〜847)の作と伝えられています。その中には、或る山荘に住んだ岑順という男が毎夜二つの軍団の戦闘を繰り広げる幻影を見続けて憔悴していった、これを心配した親族の者が山荘の床下を掘ったところ金の象棋盤と金と銅の象棋駒が出てきたという物語があります。親族は、岑順が幻影の中で見たと云う、騎馬や戦車部隊の進軍する様子が象棋駒の動きと似ていることに気付き、掘り出した盤駒を廃棄したところ、岑順は健康を取り戻して話は終わります。物語の原本は散失しているため、『太平広記』に収められた記述が実際に牛僧孺の作であるかどうかに関して、さらにその成立年代についても、ある程度留保をしておく必要があります。しかし、唐王朝の末期頃までにはシャンチーの原型となる将棋類が中国で遊ばれていた可能性は大きいように思います。
(なお、岑順の物語については、前掲の木村義徳『持駒使用の謎』50〜51pをご覧下さい)
[14]中国で円形のゲーム駒を用いる盤上ゲームは数多くあると思われますが、中でも最も有名なのは囲碁(囲棊)だろうと思います。囲碁は棊子(碁石)を盤上の線の交点に置くという点でも現行のシャンチーと同じ特徴があるので、円形駒の成立に囲碁が大きく影響しているのではないかという見方はかなり有力です。しかし、簡易型の駒が成立したのが中国だとは限りません。中央アジアから中国西域を経由した伝来ルートのどこかである可能性もあります。実は囲碁の遺物(ミニチュアの碁盤と絹布に描かれた囲碁図)が中国西方のトルファン近郊でも出土しており、ここでもやはり囲碁の影響を想像できるかもしれません。ただ、繰返しになりますが円形の駒を用いる盤上ゲームは他にもあり、やはり断定は控えるべきだと思います。
[15]現行と同じ漢字表記のみの象棋駒は出土していますが、図像のみが表記された駒は出土していません。
[16]この図像と漢字の併用された駒の存在から、現行の象棋駒成立に至るまでの間に、
@(伝来当初の)立体駒 → A円形図像駒 → B円形図像・漢字併用駒(表と裏) → C(現行の)円形漢字駒
という段階的移行があったのではないか、と推定する見方もあるようです。しかし表面に図像だけが描かれ、漢字が書かれていない円形駒の出土例がないので、その妥当性を確かめることはできていません。
[17]木村義徳氏は前掲『持駒使用の謎』の中で、円形文字駒成立と線上の交点から交点への移動への転換は同時であったに違いないと云う見方を示しています(同書81p参照)。
将棋駒ものがたり 番外編4:アジアの将棋類の駒(1)チャンギとシャタル
世界中の各国では、チェス・シャンチーの他にも様々の将棋類が興じられています。特に、アジアには実に様々の特徴ある将棋類が見られます。今回と次回はそれらのうち、主なものとして朝鮮半島・モンゴル・東南アジアの諸将棋を紹介したいと思います。
その前に将棋類の起原とそれが世界に広がっていった歴史について簡単に見ておきたいと思います。
はじめに ― 世界の将棋類の起原とその伝播について
世界の将棋類の起原に関しては、インド・ペルシア・中国などが考えられてきました。それらの中で現在最も有力なのはインド起原説です。この説は、最古の将棋が古代インドで興じられたという「チャトゥランガ(chaturanga)」と呼ばれる盤上ゲームだと主張するものです。このサンスクリット語は元々「四つの部門」という意味で、転じて、インドの伝統的な四つの軍事的編成、すなわち歩兵隊・象部隊・騎兵隊・戦車隊の四軍による編成を指しています。この軍事用語は紀元前から広く用いられていました[1]。
◆古代インドの軍事編成を描いた石窟寺院の浮彫
ところが、この「チャトゥランガ」という本来軍事用語だった言葉がゲームの意味で用いられた文献が7世紀に現われました。それは、戦乱の続いた北インド諸国がハルシャヴァルダナ(606〜47在位)によって統一された頃、同時代の詩人バーナが偉大な王の平和な治世を賞賛した作品『ハルシャチャリタ』で、その中には次のような言葉が語られています。
「この(偉大な王の)統治下では、・・・(諸国の)王たちの暴力的な争いは見られなくなった。・・・四軍(チャトゥランガ)の編成はゲーム盤の上にあるだけであった。・・・」
「ゲーム盤」と訳されたのはサンスクリット語「アシュターパダ(ashtapada)」です。この語は紀元前に成立したパーリ語の原始仏典『沙門果経』の中に見られますが、「8×8マスのゲーム盤」を指しています。この経典で仏陀は弟子たちに対して賭博や勝負事に耽って修行をおろそかにしてはならないと戒めているのですが、その修行の邪魔になる諸々の遊びの最初に挙げられているのがこのアシュターパダを用いるゲームでした。マス目の数はチェス盤と同じなので、かつてはインドでは既に紀元前に将棋類が遊ばれていたとする見方[2]もありました。しかし、ゲーム史の研究者の大勢は、将棋類の成立を紀元前に求めることに否定的です。紀元前にインドで8×8の盤を用いたゲームが遊ばれていたことは確かですが、将棋やチェスのように、種類によって動きの異なる駒を用いて王を追い詰める盤上の戦争ゲームとは全く異なるゲームだったと考えられています。これに対して、上に挙げた詩人バーナの言葉からは、「王が8×8の盤上で四種の軍勢を用いて戦うゲーム」というイメージが浮かび上がってきます。そこから、歴史家たちは、遅くとも7世紀までにはインドで将棋類のゲームが行われていたことは確実だと推定したのです。
さらにペルシアの古典の記述から、将棋類のゲームが「チャトラング(chatrang)」という名前で6世紀頃にインドからペルシア帝国に伝えられた[3]可能性が推定されました。ペルシアは7世紀半ばにイスラーム勢力に滅ぼされましたが、将棋類は中東圏域に伝わり[4]、「シャトランジ(shatranj)」として大流行するようになりました。そしてイスラーム世界から中世ヨーロッパに伝えられたこのゲームからチェスが成立します。
このようにインド起原説に立って将棋類の伝播とチェスの成立過程を推定してみました。この経路はインドから西に向かうものですが、特にアジア各国には以下の表に示すように独自の将棋類があり、上の西に向うルート以外にも、北向きのルートと南東方向のルートがあることが推測できます。
◆世界の主な将棋類とその駒[5]
古代インドの伝統的軍事編成 |
王 |
顧問官 |
象部隊 |
騎馬隊 |
戦車隊 |
歩兵隊 |
その他 |
|
インド |
チャトゥランガ(推定) |
王 |
顧問官 |
象 |
馬 |
戦車 |
歩兵 |
― |
ペルシア |
チャトラング(推定) |
王 |
大臣 |
象 |
馬 |
戦車 |
歩兵 |
― |
サマルカンド(アフラシアブの駒) |
王 |
獅子 |
象 |
馬 |
戦車 |
歩兵 |
|
|
イスラーム |
シャトランジ |
王 |
大臣 |
象 |
馬 |
塔 |
歩兵 |
― |
ヨーロッパ |
チェス |
王 |
女王 |
僧正 |
騎士 |
塔 |
歩兵 |
― |
中国 |
シャンチー(象棋) |
将・帥 |
士・仕 |
象・相 |
馬 |
車・俥 |
卒・兵 |
砲・炮 |
朝鮮半島 |
チャンギ(将棋) |
漢・楚 |
士 |
象 |
馬 |
車 |
卒・兵 |
包 |
モンゴル |
シャタル |
貴族 |
虎 |
駱駝 |
馬 |
牛車 |
息子 |
― |
ミャンマー |
シットゥイン |
大王 |
副官 |
象 |
馬 |
戦車 |
歩兵 |
― |
タイ |
マックルック |
君 |
種 |
根 |
馬 |
船 |
貝 |
― |
ジャワ島 |
チャトル(カトゥル) |
王 |
将軍 |
象 |
馬 |
戦車 |
歩兵 |
― |
日本 |
将棋 |
玉将 |
金将 |
銀将 |
桂馬 |
香車 |
歩兵 |
飛車角行 |
将棋類が伝播していったメインルートは、以下の三通りだったと考えることができます。
(1) 西ルート・・・インド → ペルシア → イスラーム圏 → ヨーロッパ圏(チェスの成立)
(2) 北ルート・・・インド → (ペルシア) → 中央アジア → 西域 → 中国圏 (象棋(シャンチー)の成立)
(3) 南東ルート・・・インド → (ベンガル・スリランカ) → 東南アジア (ミャンマー・タイ将棋などの成立)
アジアの将棋類のうち今回紹介するのは、朝鮮半島の将棋・チャンギとモンゴル将棋・シャタル[6]です。チャンギは、シャンチーとの類縁性が明白なので、北ルートでシャンチーの原型が成立した後で朝鮮に伝えられた可能性が大きいでしょう。チャンギは北ルートの到達点の一つである[7]といえるでしょう。
これに対してシャタルの駒は立像彫駒で、一見したところ中国象棋とは大きくかけ離れていますから、西の経路でペルシアから伝わったゲームかもしれません。しかし、北の経路に支流を想定[8]すれば、こちらのルートに沿って伝えられたと考えることもできます。
さらに南東ルートで伝えられたものには、ミャンマー・タイの将棋のほかに、マレー・インドネシアの将棋類があります。これらにはそれぞれ独自の駒が用いられています。その中にはヨーロッパの進出の影響で概ねチェスと同じ指し方になっているものもありますが、元々はインドから伝えられた将棋類が基底にあると考えられます。これら東南アジアの将棋類については、次回取り上げることにしたいと思います。
1.朝鮮半島の将棋(チャンギ)とその駒
筆者は二十代後半になるまで、朝鮮半島にも「チャンギ」という独自の将棋類のゲームがあるということを全く知りませんでした。ようやく二十代の終わり頃に増川宏一氏の『将棋』(1977年刊。前回紹介済み)を読んで、初めてチャンギの存在を知った筆者は、その指し方や盤駒についても、もっと情報を得たいと思いました。しかし、都内の伝統ゲーム専門店には、中国象棋の盤駒は売っていましたが、朝鮮将棋となるとお店の方も「置いたこともありませんし、全く分かりません」という反応でした。また、図書館にも関係資料はなかなか見当たりません[9]。
その後、たまたま朝鮮史に詳しい方と知り合う機会がありましたので尋ねてみると、チャンギは朝鮮半島ではとてもポピュラーなゲームだ[10]が遊戯法など実際の詳細は分からないというお答えでした。それでも知人は「盤駒が入手できないか調べてみよう」と言ってくれました。その後数年経って昭和の終わり頃、自分も尋ねたことを忘れていたのですが、先の知人から「上野にある朝鮮の民族衣装や民芸雑貨の店で以前扱っていたようだ」という情報が届きました。そこで、教えてもらった店に行ってプラスティック製のチャンギ駒[11]を購入することができました。盤の方はかなり高価で購入を断念し自作することにしました。こうして盤駒は揃いましたが、駒の動きについては、少ない参考文献の中にある僅かな情報を頼りにして、将棋仲間と共に手探りで何度か駒を動かしてみました。しかしこれではとても対局とはいえなかったと思います。
平成の時代に入ると、チャンギに関する本が少しずつ刊行されるようになりました。2000年には盤駒付きで入門書[12]が刊行されたので購入しました。この時に入手した盤に、以前上野で購入したプラスティック駒を配置したのが左下の写真です。他の入門書も見ながら、この盤駒を利用して序盤の駒組を何度か指し進めることができるようになりました。何とかして一度は、チャンギで勝負を争う対局をしたいものですが、いまだに機会は訪れておりません。また、本格的な木製の彫駒も入手したいのですが、ソウルでも販売されている店を見つけるのは難しいようです。研究家の方の所蔵品や世界の将棋の展示会で拝見したことはあるのですが、未だに入手に至っておりません。
さて、チャンギには、以下に示す二つの基本的な点でシャンチーと共通する特性があります。
@ 盤上のマス目の中ではなく線の交点に置かれた駒が線上を動く。
A 盤の上下中央の4つのマス目に斜線が入っており、王と大臣の駒が動けるのはこの区域内だけである。
この二つの特性を有する将棋類は、シャンチーとチャンギだけです。従って、二つのゲームには深い類縁性があるといえます。チャンギの古い文献は少なく、ゲームとして成立した歴史的経緯については明らかではありませんが、12世紀頃までには中国から朝鮮半島に伝えられた[13]とされています。かなり長い歴史を有することは確かですから、当然ながらシャンチーとは異なる特徴もいくつかあります。
以下にその独自性のうち主な点だけ述べます(詳細は最後に示す参考書目で確かめて下さい)。
@ シャンチーとは異なり、盤の形は縦長ではなく横長である。また、盤は河界で区切られてはいない。
A 駒は八角形が主流である (ただし明確な決まりはなく、円形や六角形、木の枝を輪切りにしただけの素朴なものもある)。表面に駒の名が赤と青で書かれている。(赤は楷書で青は草書。青が先手です)
B 馬と車の駒の動きはシャンチーと同じだが、その他の5種の駒の動きはシャンチーとは異なる。
(下の「チャンギの盤駒と駒の動かし方」をご覧下さい。なお詳細は参考文献で確かめて下さい。)
C 開局時に馬と象の駒を入れ替えて配置できる(ただし、馬馬・象象の配置は禁止です)。
D 指し手をパスすることができる。双方が共にパスをすれば引き分けになる。
◆チャンギの盤駒と駒の動かし方
最後にチャンギの駒について少し述べてみたいと思います。上の韓国製プラ駒は八角形ですが、上に述べたように、駒形に関する決まりがあるわけではなく、木製の場合は六角形や円形、或いは単に木の枝を切っただけのものもあるようです。古くは木の枝を輪切りにし、その表裏に文字を書いて駒にしたとされています。駒材は、山野に自生する「ネズの木」が好まれました。このネズの枝は輪切りにすると八角形に似た形になります。まず、先端部から兵卒と士の駒を取ります。次に、もう少し太めの部分を輪切りにして馬・象・包・車の駒とします。そして、枝の根元から切り取った最も太い部分はキングに当たる漢楚の駒とします。このように素朴なやり方で駒を造ったので、チャンギの駒は種類によって大きさの異なる八角形になったのではないかという説があるようです[14]。
2.モンゴルの将棋(シャタル)とその駒
筆者がモンゴル将棋・シャタルのことを初めて知ったのは、増川宏一氏の『盤上遊戯』(1978年)の中の記述を読んだ時でした。盤はチェス同様市松模様、ビショップの駒が駱駝の形になっている写真を見て、自分としては「モンゴル将棋は、駒の形がだいぶ異なっているけれど指し方はチェスとほとんど同じだろう」という印象を持ちました。
その後『将棋世界』誌1994年11月号に棋士の木村義徳九段による「モンゴル将棋 シャタル」というレポートが掲載され、これを読んで当時モンゴルでは四種類の将棋類が遊ばれていることを知りました。すなわち、(1)「チェス」・(2)「チェスと同じ動きのモンゴル将棋(シャタル)」・(3)「大型(10×10)のシャタル」・(4)「チェスよりも弱い動きのシャタル」の四つのゲームです。チェスの他にモンゴル将棋があることは理解できましたが、そのモンゴル将棋の指し方が国内で一定していないことにかなり驚きを覚えました。
おそらく、元来伝統的なモンゴル将棋は(3)と(4)の二つのタイプだったのだろうと思われるのですが、社会主義時代にはソヴィエト連邦の強い影響の下で民族性が憚られたのかもしれません。ヨーロッパのチェスが優勢になっていきました。「シャタル」とはチェスのことを意味し、伝統的なモンゴル将棋は「モンゴルシャタル」と呼ばれた時期もあったようです。
社会主義の盟主ソ連の体制が崩壊してからは、モンゴルでも民主化が進み、自国の民族性を再評価する機運が生まれるようになりました。ちょうどその頃に、モンゴルのシャタル関係の団体の方が将棋連盟を訪れシャタル入門の解説会が行われました。木村九段はこれを報告されたのです。おそらく、シャタルの盤駒と指し方について述べられた最初の日本語文献といってよいでしょう。
さらに梅林勲氏の『世界の将棋』(1997年刊)、岡野伸氏の『世界の主な将棋』(1999年刊・2005年改訂)などが相次いで刊行され、それらの中でシャタルと大型シャタル(ヒャーシャタル)の指し方が解説されています。これらの書物の中でも、8×8の盤を用いる小型のシャタルについては、社会主義時代に優勢になった「チェスと駒の動きが同じシャタル」と伝統的な「チェスよりも駒の動きが弱いシャタル」が興じられていることが記述されています。
この場合「動きが弱い」とは、ベルス(虎:クイーン)とテメー(駱駝:ビショップ)の駒について言われており、その他の駒はチェスと同じ動きをします。テメーは、斜め自由の動き(チェスのビショップと同じ)の他に、斜めに1〜3マスまでしか進めないという「弱い動き」で指される場合があります。特に大きな違いが見られるのは、クイーンに当たるベルス(虎)の駒で、三通りの指し方があります。それは、
(a)縦横斜め自由という最強の動き(チェスのクイーンと同じ)
(b)斜めに1マスのみという最弱の動き(初期のクイーン)
(c)縦横自由プラス斜め1マスという動き(日本将棋の龍王と同じ)
の三つです。下の図では(c)の動きを紹介していますが、今でも統一された指し方は確立していません。とはいえ、先の木村九段のレポートにも「モンゴルは人口二百万人ほどだが、女性ファンもいて、ほとんどの男性がプレーすると聞いた」という記述があり、この記述がチェスを指す場合も含んでいるとしても、シャタルはかなりモンゴル国民に定着したゲームのようです[15]。
10×10の盤を用いる大型の「ヒャーシャタル」については、下に掲げる参考文献を参照して下さい。
なお、左下の写真の盤駒は、上掲の岡野氏著『世界の主な将棋』の中で紹介されていた京都の貿易会社に問い合わせをして購入した普及品のシャタルです。駒はおそらく陶製で造りはやや粗いものですが、駒の形は明確に識別できます。盤は縦横約24cmありますが、折りたたみになっていてその中に駒を収めます。シャタルには他に金属製や木製の立像駒も造られています。これらは高級駒ですのでかなり高価ですが、インテリア用の民芸品としての需要があり、モンゴルから輸出されているものもあるようです[16]。
◆シャタルの盤駒と駒の動かし方(写真は駒の形が分かるように横から撮ってみました)
参考書目
今回も、以下の資料を参考にしました。著者の方々に深く感謝申し上げます。
* 増川宏一『将棋T』(法政大学出版局、1977年)
* 増川宏一『盤上遊戯』(法政大学出版局、1978年)
* 梅林勲『世界の将棋』(将棋天国社、1997年) (岡野伸氏と共著の改訂版が2000年に刊行された)
* 岡野伸『世界の主な将棋』(自費出版、1999年、改訂版、2005年)
* 岡野伸『東洋の将棋』(大阪商業大学アミューズメント産業研究所、2007年)
* 朴健治『「朝鮮将棋」の手ほどき(入門編)』(東栄商事、2000年)
* 岡野伸『チャンギ情報集(一)』(自費出版、2002年)
* 大内延介『将棋の来た道』(めこん、1986年)
* 木村義徳「モンゴル将棋 シャタル」(『将棋世界』1994年11月号)
* 清水康二「将棋伝来再考」(橿原考古学研究所紀要『考古學論攷』第36冊、2013年掲載)
[1] チャトゥランガという語は、古代インドの代表的な古典として知られている『マヌの法典』、『マハーバーラタ』などにも軍事用語として用いられています。なかでも紀元前2世紀から紀元後2世紀頃に成立したとされるカウティリヤの『実利論』には四軍の編成その他が詳しく述べられています。ただし、これらの古典文献に記された「チャトゥランガ」は、ゲームと全く無関係であると見るべきでしょう。
[2] この経典の邦訳でも「八目の将棋」という訳語が与えられているものもあります。(『世界の名著1バラモン経典・原始仏典』「出家の功徳(沙門果経)」中央公論社刊、1969年、521頁)
[3] ペルシアの古典的文献には、6世紀ササン朝の時代に在位し「諸王の王」と讃えられたホスロー1世の統治下にインドの王から使節が派遣されたという説話があります。これは、インドからペルシアへの将棋類の伝来を物語るものです。この時使節は、宝石でできた1組の将棋類のセットを持参し、ペルシア側に対局による知恵比べを挑みました。これを受けて立ったのがペルシア王に仕えていた賢者でした。将棋ゲームを全く知らぬはずの彼でしたが、インドの使節と3局戦って全勝し「諸王の王」の権威を守ったのです。この物語はペルシアで伝えられ、古典的文献『シャーナーメ
(王書)』(11世紀初頭)にも描かれています。この『王書』には14世紀頃に挿絵が加えられ、現在に伝わっています (下のURLをご覧下さい。この絵では中央下に盤があり、左にインドの使節、右にペルシアの賢者が座って対局をしています。中央で対局を観戦しているのは、おそらくホスロー1世であろうと思います)。
https://metmuseum.org/art/collection/search/140006270?img=1
もちろん、この伝説は歴史的事実そのままではありません。しかし、ホスロー1世の次に即位したホスロー2世の時代、7世紀に書かれた文献には将棋類を意味する「チャトラング」の語が明記されています。従って、先代のホスロー1世の時代に将棋類がペルシアに伝来したという話にはかなりの現実味があります。
[4] 例えば預言者ムハンマドの女婿で第四代カリフのアリー(660年没)の逸話として、チェスを指している者に「君たちが一心不乱に見つめているもの(駒のこと)は何を表わしているのか?」と尋ねたのに対して、信徒たちが「これはつい最近ペルシアから入って来たゲームです。歩兵の駒は兵隊であり、象や馬もペルシア人の慣習にしたがってそのような姿で表わされています。」と答えたことが伝えられています。この逸話が事実とすれば、ペルシアとイスラーム圏ではほとんど同じ種類の将棋類が興じられていた可能性が大きいと考えられます。
[5] 古代インドと古代ペルシアの将棋類の駒は確実な実物史料を欠いているので、関係文献から推定したものです。またサマルカンド近郊から出土したアフラジアブの駒は6種揃っていますが、その駒種の名称を記した文献はありません。表に示した駒の名称は、研究者が駒の形から推定したものです。
表中の駒の動きはそれぞれ異なっています。また、同じ種類の将棋でも時代と共に変わっていった場合もあります。なお、日本の将棋に関しては、皆さんもお気付きと思いますが、ナイトとルークにあたる桂馬香車の駒の利きが非常に弱いというのが最大の特徴です。
[6] チャンギの駒の図像については、以下のURLをご覧下さい。
http://history.chess.free.fr/changgi.htm
また、シャタルの駒の図像については、以下のURLをご覧下さい。
http://history.chess.free.fr/shatar.htm http://history.chess.free.fr/hiashatar.htm
[7] シャンチーが朝鮮半島に伝来しチャンギが成立した時期は分かっていません。既に新羅時代(355〜935)に興じられていたという説もありますが確実な根拠はなく、やや伝来時期が早すぎるように思います。むしろもう少し後代の、中国が北宋王朝だった10〜12世紀頃(朝鮮半島では高麗時代に当たります)にシャンチーが伝えられ、これを基底にしてチャンギの原型が形成されたと考えた方が妥当であろうと思います。
[8] モンゴル将棋・シャタルは13世紀頃には伝来したと考えられていますが、シャンチーとは全く無縁で、ペルシアからの伝来説とチベットからの伝来説が唱えられています。北方ルートに支流を想定する、というのはこのチベット伝来説のことを考えたものです。チベットにはかつて「チャンダラキ」という名の将棋が盛んに興じられていましたが、現在は人々に忘れられほとんど消滅しています。ただ、かつて興じられたチャンダラキの駒の形はモンゴルのシャタルの駒に非常によく似ています。そこで、このチャンダラキがラマ教と共にモンゴルに伝えられ、そこからシャタルが成立したという説が唱えられているのです。
(チベットのチャンダラキの駒の図像については、以下のURLをご覧下さい。http://history.chess.free.fr/chandraki.htm)
[9] チャンギについて述べられた本のうち、当時図書館で読むことができたものは、増川氏の『将棋』の他には、棋士の大内延介九段が執筆された『将棋の来た道』(1986年)だけでした。
[10] 朝鮮半島でのチャンギの遊戯人口は囲碁よりも多く、約700万人と推定されています。世界の将棋類の中では、シャンチー・チェス・日本将棋に次いで普及しているといってよいでしょう。ただし、同じ盤上遊戯の囲碁と比較した場合、囲碁は上流階級の遊びでチャンギは庶民の遊びととらえられる傾向があるようです。『将棋の来た道』では、チャンギの勝負が厳しく激しいものとなることが紹介されています。一例として、相手の駒を取る時に自分の駒を相手の駒に叩きつけてから取る苛烈な指し方をする場合がありました。このようにして駒を取られるのは、まさに「身を切られる思い」でしょう。ところがこれを見て一番興奮するのは、対局を見物する人々でした。彼らはチャンギの勝負にドラマを期待していたのです。もっとも、このように駒を叩きつけるような指し方は、現在はマナーに反する「悪習」と考えられているようです。(朴健治『「朝鮮将棋」の手ほどき(入門編)』を参考にしました)
[11] お店には、プラスティック駒の他に木製のスタンプ駒もありました。ただ、八角形ではなく、シャンチーと同じ円板形でした。また、かなり高価なのにスタンプした駒名も不鮮明でしたので、プラ駒の方を購入することにしました
(後で木製駒の場合は円板形もあることを知りましたが、その時はシャンチー駒と同じだと思ってしまいました。無知だったのですね)。盤も見せていただきましたが、薄い一枚板であるのに、これも価格がかなり高く、残念ながら積極的に購入しようという気持ちにはなりませんでした(お店の方も「これくらいなら、お客さんが自分で作れるよね」と言っておられました)。
[12] 前掲の注にも挙げた『「朝鮮将棋」の手ほどき(入門編)』です。
[13] 参考書目に挙げた清水康二氏の「将棋伝来再考」を参照しました。
[14] 岡野伸氏の『チャンギ情報集(一)』8p、及び52,53pを参照しました。なお、かなり古い木製のチャンギ盤駒の図像は脚注6に掲載したサイトのURL、http://history.chess.free.fr/changgi.htmをご覧下さい。
[15] モンゴルのシャタルの現状について、岡野進氏は「シャタルの駒は都市に暮らす人はもちろん、田舎にいっても持っているという。賭けシャタルにのめりこむ人もいる。モンゴルチェス連盟は1930年に結成され、1955年に国際連盟に加盟した。現在…シャタル、ヒャーシャタル、チェスの大会が年に何回も開催されているという。」と述べています。(『東洋の将棋』161p)
[16] シャタルの本格的な盤駒の図像は、脚注6で紹介したURLの他に、日本将棋連盟のHPで見ることができます。また、10×10の大型のヒャーシャタルの盤駒の図像は、「Chessと将棋の仲間」というサイトにも見ることができます。
かつて筆者が陶製のシャタル駒を購入した時にシャタルの木製高級彫駒や金属製の駒も扱っていると言われましたが、その価格が非常に高価でした。現在インターネットなどでシャタルの駒が入手できるかどうかは残念ながら不明です。
将棋駒ものがたり 番外編5:アジアの将棋類の駒(2)タイとミャンマーの将棋など
「番外編2」から世界の将棋類を扱ってきたシリーズも、東南アジア諸国の将棋とその駒をテーマとした今回の「番外編5」で一区切りとなります。今回も筆者の理解不足や明確な誤りが多々あると思います。予め読者の皆さんにはご寛容をお願いいたします。
はじめに 東南アジアの文化と将棋類について
東南アジアにおいても多くの国々でチェスが興じられています。この背景には近代以降ヨーロッパ諸国がこれらの国々に進出して文化的に強い影響を与えたという歴史があります。また、シャンチーの対局もかなり多く見られます。東南アジアには華僑の人々が多く住んでおり、シャンチーそのものの愛好は彼らが中心ですが、それだけでなく、ヴェトナムの将棋「カートン」がシャンチーとほとんど同一のゲームなので、その競技人口も加算することができます。
しかし東南アジアでは、チェスやシャンチーと異なる独自の将棋ゲームが興じられている国もあります。その代表がタイとミャンマーです。この二つの国では、ゲームのルールも駒の形もチェスやシャンチーと全く異なる将棋が今も存在します。そのうち、ミャンマーの将棋・「シットゥイン」は、かつて将棋が上流階層にしか許されていなかったため競技人口がきわめて少なく、このままでは忘れ去られてしまうと危惧する見方もあります。これに対してタイの将棋・「マックルック」は、近年興じる人が減少してはいるものの、依然としてチェスやシャンチーに匹敵する競技人口を有するゲームです。タイ国内のみならず近隣のラオスやカンボジアでも同様の将棋が興じられ[1]ており、「世界五大将棋」の一つに数えられる[2]こともあります。
このシリーズでは、前回将棋類インド起原説を前提にしてその伝播に三つの道を考えました。そして、その三番目が南東方向へのルートでした。それは、北インドのガンジス河流域で遊ばれていた将棋(チャトゥランガ)が下流域のベンガル地方、南インド、セイロン島などに伝播し、その後東南アジア圏に広がっていった可能性を表しています。タイとミャンマーの将棋は、こうした南東向きの経路のいずれかによって伝えられたものであり、インド文化が東南アジア圏に及ぼした影響の一つだと考えられます。
これに対して、東南アジアには、ヴェトナムのようにインドよりも中国文化からの影響が大きかった国もあります。先に述べたように、ヴェトナム将棋カートンは中国のシャンチーと同類のゲームですが、これには明らかに中国文化の歴史的影響があると考えられます。またヴェトナムとタイに挟まれたカンボジアでは、タイ将棋と中国象棋が共に興じられていますが、この国は将棋類の伝播においてインドと中国の影響の境界といえるかもしれません。
マレー半島とインドネシアの場合、歴史文化の形成はもっと重層的だったように思います。この圏域は初めヒンドゥー教や仏教を中心にインド文化から影響を受けていました。しかし、13世紀以降にイスラーム教が伝えられその後のムスリム商人の活動と相俟ってイスラーム文化が浸透していきました。さらに16世紀以降にはヨーロッパ人の下で西洋文化の強い影響を受けるようになります。
マレー半島とインドネシア地方の将棋類の展開と現状にも外来文化の重層的影響が関係しているのかもしれません。これらの国々にはチェスとは異なる将棋類の駒が見られます。下のA〜Dの図像はいずれもマレー半島とインドネシアを代表する将棋類の駒です。Aはインドネシア・バリ島の駒の写真です。チェス駒とは全く異なる外見で、キングの駒はシヴァ神が聖鳥(ガルダ)に乗った姿に彫られ、他の駒にもヒンドゥー文化の雰囲気が感じられます。しかしこの駒は、観光客用の民族的工芸品として造られるようになったもの[3]で、チェスが伝来する以前の古い将棋類の駒形を表現したものではありません。この地方においてインドの文化の影響を示す古い時代の駒を見出すのはかなり難しいようです。識者の中には、インドからの将棋類伝播の道は、ミャンマーとタイまでであって、その南にまでは及んでいないとする見方[4]もあります。
◆マレー半島・インドネシアの将棋類の駒の例 (いずれも左から王・大臣・象・馬・戦車・歩兵の駒)
とはいえ、西洋諸国が到来する以前にこの地方でも現地の人々によって将棋類が興じられており[5]、その際にチェスとは異なる駒が用いられていたのは確実です。また、19世紀にこの地方の民族文化を調査した西洋の研究者は、スマトラ島北部の先住民族の人々が独自の将棋類を非常に愛好していたと報告しています[6]。さらに、その場で駒を造って対局した事例も述べられています。地面や床に線を引いて盤とし、柔らかい木材を手早く削って駒としていた[7]のです。この地方で実際に興じられた将棋類の駒の形を記録したのが図像Dです。この図像から分かるように素朴な形ですので簡単に造ることができたのでしょう。
近代まで伝えられてきたマレー地方の将棋類の駒がBとCです。Bは19世紀以前のマレー地方の象牙製の高級駒であり、Cも19世紀後半にマレー半島の英保護領セランゴルの民族文化を調査した人類学者のW.W.スキート(1866〜1953)が現地で蒐集した駒です。それぞれ形は異なりますが、イスラーム圏に見られるチェス駒の特徴を示しています[8]。これらを見ると、マレー半島などの人々が将棋類に興じるようになったのはイスラームの人々の影響だったのではないかと考えられます。ただ、マレー半島で興じられていた将棋類は「チャトル」或いは「カトゥル」という名ですが、その語源はサンスクリット語の「チャトゥランガ」ですし、駒の名前にもインド古典のサンスクリット語や南インドのタミル語などに起原を発するものが多くを占めている[9]ことから、インド文化の影響は無視できないと考えることもできます。
しかしマレーシア・インドネシアなどにおいては、現在こうした伝統的な将棋類「チャトル」は忘れ去られており、昔の伝統的駒が用いられるケースもほとんどありません。かつて現地の人々が対局に興じた伝統的将棋類はほぼ完全にチェス化されてしまったと考えてよいと思います。
1.タイの将棋(マックルック)とその駒
タイ将棋の「マックルック(マークルック)」という名称には一つの疑問があります。それは、タイ語「マックルック」の本来の語源の意味は何なのかということです。筆者としては、もしご存知の方がいらっしゃればご教示いただきたいと思っております。タイ将棋が一般にインド起原だと考えられているにもかかわらず、その「マックルック」という名称はインドの「チャトゥランガ」と語源的繋がりはないとされています。「マック」は他のゲーム類にも含まれているので、何らかのゲーム類を示すのかもしれません。また「ルック」の方は、「喧嘩する」という意味とされています。マックルックの対局で王手をする時は必ず「ルック」或いは「ルック・クン」と宣言することになっていますが、これは敵の王に挑みかかるということなのかもしれません。キングを打倒する激しい争いをゲームにしたものであることを表しているのでしょうか。
◇日本におけるマックルックの認知度
おそらく東南アジアの将棋類の中で一般に最もよく知られているのはマックルックだと思います。20年以上前からタイ製のプラスティック駒が日本にも輸入されており、容易に入手できますし、解説書も出版されるようになりました。また、パソコン用対局ソフトが制作されたこともあります。
しかし1970年代初頭までは、我が国において、タイにも独自の将棋があるということを知る人はほとんどいませんでした(もちろん筆者も全くその存在を知りませんでした)。1970年代に将棋専門誌などで相次いで取り上げられるようになってようやく将棋ファンなどの間にタイ将棋の存在がある程度知られるようになりました[10]。その後1982年に関西将棋会館に「将棋博物館」が開館した時、世界の将棋類として、チェス、四人制チャトランガに加えて中国・朝鮮の将棋などと並んでタイ将棋の盤と駒[11]が常設展示されました。さらに、1986年には大内延介九段の『将棋の来た道』が刊行されました。この本は、大内九段がタイ・中国・韓国・インドを旅する中で現地の人々と対局をしながら将棋の伝播を考えるという内容でしたが、6種の駒の正しい呼び名とその名の意味を初めて挙げて駒の動かし方を図示したことで、マックルックの理解を格段に前進させました。後に1995年には、この本を元にしてNHKが「アジア縁台将棋紀行」というTV番組を制作して放映しました。おそらくこの大内九段の著書とTV放送によって、マックルックが将棋ファンだけでなく、多くの一般の人々にも知られるようになったのではないでしょうか。
◇マックルックの現状と歴史
現在タイ国内で最も多く興じられている盤上遊戯として、チェッカーに類似した「マックホット」[12]や挟み将棋に類似した「マックイェック」[13]が挙げられることがあります。これらシンプルなゲーム類を楽しむ人々の数には及ばないとしても、チェスをはじめとする将棋類も遊ばれています。チェスを指す人々にはマックルックも指せる人が多く[14]、首都のバンコクのみならず地方の都市にも対局道場があります。近年は大会が行われなくなり競技人口もかなり減少しているようですが、今もプラスティックの駒[15]が文具店やデパートで広く市販されていて、ポピュラーなゲームの一つであることは確かです。少なくとも概ね200万人以上の人々がマックルックを指せるのではないか[16]という推定もあります。東南アジア諸国で伝統的将棋類が姿を消している中で、マックルックの健在ぶりが目を引くわけですが、それはやはり、西欧列強による植民地支配の中で辛うじて独立を維持できた歴史によると考えてよいでしょう。
次に歴史的起原について簡単に述べてみたいと思います。一般にマックルックは、インドの将棋類が南東に向かうルートに沿って東南アジア圏に伝播したと考えられていますが、その伝来の正確な経路と時期については残念ながら未だに判明していません。隣国ミャンマーやマレー半島からの影響もあったと考えることもできそうですが、決め手はありません。また伝来時期も12世紀のアンコールワット遺跡に将棋対局の浮彫が確認され、個人蔵の陶製駒に12〜13世紀制作と鑑定された事例があるので、マックルックが12世紀以前に伝来した可能性は大きいといえますが、そこから更にいつ頃まで遡れるのかどうか不明です。
◇ マックルックの盤駒と駒の動かし方
マックルックの特徴を概観してみましょう。下の写真が駒を盤上に初型配置した図像です。
盤はチェス盤と同じ8×8の正方形ですが、市松模様ではなく無地です。この点はイスラーム圏の将棋やアジアの将棋類と同一です。次に駒の形に注目すると、互いの陣地の一番手前の列にある8つの駒のうちで、キング・クイーン・ビショップ・ルークの4種は、大きさや高さは異なりますが、いずれも仏塔の形になっています。ナイトの駒は一番大きな駒で馬の頭部の形です。後はポーンの駒8個ですが、チェスとは異なり、手前から二段目ではなく三段目に並んでいます。そして、このポーンの駒の形はシャンチーの駒と同じような円板形になっていることも大きな特徴です。なお、白も黒もキングが左でクイーンが右という位置関係で、両軍のキング・クイーンが共に対面するチェスとは異なっています。
次に右上が6種類の駒の名称とその意味、そして駒の動かし方を示したものです。マックルックの駒の呼び名にも特徴があります。キングの駒は「クン」でその意味は「君」すなわち主人、或いは単に「人」、ナイトの駒は「マー」でその意味は「馬」すなわち騎兵です。これら二種の駒は、ほぼチェスと同じ意味で駒の動きもチェスと同一です。また、ルークの駒は「ルア」でその意味は「船」です。塔の形をしたチェスのルークとは多少の違いがあります。しかし、ルークの駒は元々インドでは戦車を意味していたという説が有力で、さらにベンガル地方などでは駒の形が船になっている例もありますので、水運の発達したタイにおいても車から船に名前が変わったのかもしれません。ルアの動きは縦横自由でルークと全く同じです。従って、クン・マーだけでなくルアの呼び名も、チェスや元来のインドの将棋とのつながりが明白です。
ところが、他の三種の駒の呼び名は、世界中のどの将棋類にも見られない独特なものになっています。まずクイーンに当たる駒の呼び名は「メット」で、タイ語で植物の「種」を意味します。西洋では「女王」、イスラーム圏では「大臣」、後に見る隣国ミャンマーでは「副官」を意味する語が当てられているので、ここでは全く異質の呼び名になっています。次にビショップに当たる2つの駒は「コーン」という名で、この語は「根」を意味しています。西洋のビショップは「僧正」ですが、イスラーム圏でこの駒は「象」を意味する名前で呼ばれていました。また、後に見るように隣国ミャンマーでもビショップに当たる駒は「象」を意味する名前になっています。僧正にしても象にしても植物の根とは全く何の関わりもありませんから、マックルックの「コーン」すなわち根という呼び名はきわめて特異なものであるといってよいと思います。最後にポーンに当る駒の名は「ビア」で、この語は「貝(貝殻)」を意味しており、歩兵とは全く無関係な言葉です。以下で見るようにビアは敵陣に入ると「ビアガーイ」と呼ばれ、メットと同じ動きのできる駒に昇格します。この「ビアガーイ」という語は、タイ語で「ひっくり返った貝殻」という意味です。実際ビアが敵陣に入ったとき対局者は駒を裏返して昇格を示します。この点は、我が国の将棋の歩兵が金に成る場合によく似ています。
さて、以上三つの語が駒名になっているのは何故なのでしょうか。これに関しては、昔は実際に植物の種と根、そして貝殻が将棋の駒として用いられていたからではないか、という説[17]があります。もし種・根・貝殻が実際に盤上に駒として置かれていたとして、その時クン・マー・ルアの駒はどのような形で表されていたのでしょうか。それは非常に興味深い問題ですが、今となっては想像の及ぶところではありません。
次に、メット・コーン・ビアの三種の駒の動かし方についても述べておきましょう。
メットの動きは斜め四方に1マスでチェスのクイーンの最強の動きとは雲泥の差があるように思えます。しかし、実は西洋のチェスのクイーンも15世紀末頃までは斜め四方1マスしか動けない弱い駒でした。従って、メットという呼び名は独自ですが、駒としてはクイーン(イスラームの「大臣」)と同じだといえます。
ところがコーンの駒の場合は、動かし方も「僧正」の駒や「象」の駒とは大きく異なっています。チェスのビショップ(僧正)は現在斜め四方自由に動ける強い駒です(下の図A)。しかし、ビショップも15世紀末までは斜め四方2マス目にしか動けない弱い性能の駒でした。この弱い動きは元々イスラーム圏の将棋の「象」駒の動きがそのまま伝えられたものだと考えられています(下の図B及びC)。チェスは10世紀頃までにはイスラーム世界からヨーロッパに伝えられたと考えられています。従って、約500年以上にわたってこの動き方が続いていたことになります。ところがタイ将棋のコーンの動きは、直前と斜め四方に1マス進む(下の図D)という全く異なるものとなっています。この動きは、隣国ミャンマーの将棋「シットゥイン」の象の駒(下の図E)にも共通しています。実はこれと全く同じ動きは11世紀のインドの将棋類の象の駒にも見られます(下の図F)[18]。ここからもタイとミャンマーの将棋が共にインド将棋と強い類縁性を持っていることを確認できます。さらに、遠く離れた我が日本の将棋の銀将の駒とも同じ動きになっている(下の図G)ことに注目する人も多いでしょう[19]。
◆各国将棋類の象(ビショップ)の動きの比較
最後にビアの駒ですが、この駒は1マス前進するのみで、敵駒を捕獲するときは斜めに進んで取るという動きなので、基本的にチェスのポーンと同じです。イスラーム圏の歩兵の駒も同一の動きなので、おそらく将棋類の発祥地とされるインドでも同様だったと思われます。ただし先に述べたように、ビア駒の配置は、二段目でなく三段目に並んでおり、チェスと大きく違っています。また駒の昇格についても、クイーンに当たる駒に昇格するという点はマックルックもチェスも同じなのですが、チェスが最後の列に達した時に初めて昇格できるのに対して、敵陣の最前列(三段目)に到達した時に昇格できるので、昇格がかなり容易になっています。上述のように、三列目に達した時は駒を裏返してビアガーイ (メットと同じ動き)になったことを明示します。こうした昇格の仕方が可能なのは、ビアの駒は扁平な形になっているからです[20]。
以上がマックルックの駒の動き方の概要ですが、西洋のチェスと比べて駒の動ける範囲が狭く、直線的な闘いに突入すると盤上の駒がどんどん減少してしまい、勝負をつけることができず引き分けになってしまいます(同じくらいの棋力の人が対戦すると何と75%が引き分けになってしまうと言われています)。そこで、駒の連携を重視する消耗戦に似た指し方が採られることが多くなるようです。興味のある方は参考文献として挙げた『タイの将棋
マックルックの指し方と現地情報』という本に基本的な駒組・対局例・詰将棋が掲載されていますので、ご覧いただき盤上に再現されることをお勧めしたいと思います。
2.ミャンマーの将棋(シットゥイン)とその駒
ミャンマー(旧称ビルマ)[21]の将棋は、かつては国内で「シビィイン」(ビルマ語で「戦争」「王様」の意味)と呼ばれていましたが、20世紀に入ってから、「軍隊」を表すという意味で「シットゥイン」と呼ばれるようになりました[22]。マックルックと同様に1970年代初頭までは日本において全く知られていませんでしたが、その後将棋専門誌などで相次いで取り上げられる[23]ようになってその存在が知られるようになりました。しかし残念なことにマックルックと比較すると、その後日本での認知度に大きな差がついてしまいました。おそらくその最大の理由は、ミャンマー国内でもシットゥインの競技人口がきわめて少なく、消滅の危機に瀕した状況になっていたからでしょう。こうした状況になった要因には、将棋対局が王侯貴族など一部の上流支配層にしか許されていなかったことや、駒が精緻な立像彫駒に限られていて価格が非常に高価[24]なため民衆に普及してこなかったことなどが挙げられます。
シットゥインの駒はかなり大きめのものが多く、盤の1マスも約7cm、盤全体のサイズは60cmくらいだと思います(左下の写真の駒は小さめのタイプで、盤のサイズは1マス約4cm盤全体で約35cmです)。盤は無地ですが、イスラーム圏やタイの将棋とは異なり、盤面に「シッケチョウ」と呼ばれる対角線が引かれています。この線は元々存在せず、歩兵の昇格を示すためビルマで改良されて加えられたものとされています。
次に駒の形に注目すると、キング・クイーン・ポーンの3種の駒はいずれも人物を象っていますが、キングが一番大きくポーンが最も小さい駒です。ビショップは象、ナイトは馬、そしてルークは戦車の形です。駒は6種ともすべてリアルな形象の彫駒になっています。
◆シットゥインの盤駒と駒の動かし方
右上は、シットゥインの6種類の駒の名称とその意味、そして駒の動かし方を示したものです。キングは「ミンジー」すなわち「大王」、クイーンは「シッケ」すなわち「副官」、ポーンは「ネ」すなわち「兵」(歩兵)です。次にビショップは「シン」すなわち「象」、ナイトは「ミン」すなわち「馬」、ルークは「ヤター」すなわち「戦車」です。これら6種の駒の名前の意味は将棋類の起原・インドの駒と非常に類似しています。また駒の動きは、マックルックと全く同一になっています。
しかしシットゥインとマックルックには大きな相違点があります。マックルックの開局時の駒の配置はポーン(ビア)を三段目に並べるという点でチェスやイスラーム圏の将棋と異なっているものの、他はほぼ同じだといえます。ところがシットゥインの開局は、世界の将棋類のどれとも異なる駒の自由配置から始まることになっているのです。開局の前にまず、二人のプレーヤーは、ポーン(ネ)を定位置に並べていきます。この位置は右上の図で言えば、黒はa3〜d3とe4〜h4に、赤はa5〜d5とe6〜h6に並べなければいけません。そしてその後共に2個のルーク(ヤター)を一番手前の段に(黒はa1〜h1、赤はa8〜h8のどこかに)置き、その他の駒をそれぞれ手前から2段目と3段目の任意のマス目に自由に置いていきます。
開局時の陣形配置としてよく用いられる型があり、解説書によると現在は20以上の組合せがあるとされています。こうして両方の駒組みが完成[25]してから、赤が初手を指してゲームが始まります。いきなりポーン(ネ)の交換から始まることも多く、序盤を飛ばして中盤から指し始めるようなものです。このように、初手から戦闘が始まる印象ですが勝負は長時間に及ぶことが多いのです。大会でも1局に要する時間は約4時間、1日に1局と決められている場合が多く、人々は皆一手一手熟慮を重ねて指します。盤の中央部での戦いが重要で、クイーン(シッケ)の動きを制することが要点とされることが多いようです。
参考文献
今回も、以下の資料を参考にしました。著者の方々に深く感謝申し上げます。
* 増川宏一『将棋T』(法政大学出版局、1977年)
* 増川宏一『盤上遊戯』(法政大学出版局、1978年)
* 梅林勲『世界の将棋』(将棋天国社、1997年) (岡野伸氏と共著の改訂版が2000年に刊行される)
* 『世界のチェス・将棋展』(大阪商業大学アミューズメント産業研究所、2002年)
* 『世界のチェス・将棋展U』(大阪商業大学アミューズメント産業研究所、2010年)
* 岡野伸『世界の主な将棋』(自費出版、1999年、改訂版、2005年)
* 岡野伸『東洋の将棋』(大阪商業大学アミューズメント産業研究所、2007年)
* 岡野伸・大谷恵洋『タイの将棋 マックルックの指し方と現地情報』(自費出版、2000年)
* 岡野伸『ミャンマーの将棋 シットゥイン』(自費出版、2004年)
* 岡野伸「緬甸将棋(シットゥイン)の文献と現状」(『遊戯史研究』第11号、1999年掲載)
* 大内延介『将棋の来た道』(めこん、1986年)
* アレックス・ランドルフ「将棋とチェスの歴史の一面」(『将棋世界』1971年3月号掲載)
* 東公平「世界の将棋」(5)「タイ国の将棋」(7)「ビルマの将棋」(『近代将棋』1972年5月・7月号)
* 室岡克彦「滅びゆくビルマの将棋」(『将棋世界』1985年3月号掲載)
* 清水康二「将棋伝来再考」(橿原考古学研究所紀要『考古學論攷』第36冊、2013年掲載)
* 清水康二・鈴木一議・高橋浩徳・松村政樹・P.タンマプリ−チャコーン・B.チャイスワン・バンコク大学東南アジア陶磁器博物館 『将棋類の伝播に関する研究―タイ将棋マックルクを中心に―』
(大阪産業大学アミューズメント産業研究所、2016年)
* H.J.R. Murray “A History of Chess” , Oxford, 1913.
* Charles Wilkinson & McNab Dennis “Chess : East and West, Past and Present” , 1968.
* D.B. Pritchard “The Encyclopedia of Chess Variants”, Games & Puzzles Publications, 1994
* Gareth Williams “Master Pieces the architecture of chess”, Viking Studio, 2000.
[1] ラオスの将棋は「マックフク」という名前ですが、現在はルールがタイ将棋と同じで、駒もタイ製のプラスティック駒が用いられています。カンボジアの場合、かつては、中国象棋と並んで形はタイ将棋に似ている駒が中国象棋のように線上を動く「シャッロン」という名の将棋が興じられているという報告をした研究書もありました。しかし近年カンボジア国内でこのようなタイプの将棋類はほとんど見られないようです。最新の情報では、カンボジアの将棋は「オークチャトランジ」という名前で、駒の呼び名は異なるもののルールはタイ将棋とほぼ同一であるとされています
(梅林勲「アジアの将棋」(『世界のチェス・将棋展U』2010年刊に所収)、高橋浩徳「東南アジアの伝統ゲーム」(『将棋類の伝播に関する研究―タイ将棋マックルックを中心に―』2016年刊に所収)を参考にしました)。
[2] 岡野伸氏は、競技人口が100万人を超える将棋(チェス)は、チェス・シャンチー・ショウギ(将棋)・チャンギ・マックルックの5種類のみであるとして、これらを「五大将棋」としています
(『世界の主な将棋』6〜7頁)。
[3] このタイプの駒は民芸調の浮彫の付いた市松模様のチェス盤とセットになって販売されています。盤は折りたたみ式の箱形で内側にはバックギャモンの盤が描かれており、中に駒が収納できるようになっています。現地でも購入できるようですが、少し前までは日本でも容易に入手できました。
[4] 「将棋類はインドから広まり陸路で伝わったと考えられる。理由は、交易の品には鉱物、香辛料、織物など高値で売れる物を用い、ゲームのようなものは適さないからである。従って東南アジアの海上諸国には古代の将棋は伝わらなかった・・・と考えられる」(前掲・高橋浩徳「東南アジアの伝統ゲーム」)
[5] 「ポルトガルの探検隊が1509年にはじめてマラッカに到達したときに次のようなことがあった。ある時指揮官のディエゴ・ロペスはチェスをしていた。そこにジャワ島出身の人物が一人盤の側にやって来た。この現地人はひと目ですぐにこのゲームが何なのかを識別し、しかも自国人が用いる駒の形について、ロペスといくつか会話を交わしたことがあった」(H.J.R.マレー『チェスの歴史』第五章「マレーのチェス」)
[6] 例えば、スマトラ島北部の先住民バタック(Batak)族の社会を粘り強く調査したフォン・エーフェレ(von Oefele )の報告をもとにマレーは以下のように述べています。「すべてのバタック人の成年男子がチェスについて何がしかのことを知っており、村にあるほとんどすべての集会所の木の床にはチェス盤が彫られている」「ゲームはつねに賭けてプレーされるため、時に感情が激昂して暴力的になることもあるので、しばしば村長が一定期間ゲーム行為を禁止しなければならないこともあったほどである。」(前掲「マレーのチェス」)
[7] 「スマトラ島では、対局するたびに新たに駒を造ることは通例よく行われることである。この場合駒造りには10分ほど要するだけである。竹や椰子の葉脈で駒を造ることもある。どの駒も素早くカットされ、型どおりに仕上がる。」(前掲「マレーのチェス」)
[8] 「私は、スキートが蒐集した所蔵品のチェス駒の例をいくつか示しておこう。このように高度な仕上げをしたチェス駒は、近代にインドで用いられていたムスリムのチェス駒の類型にかなり似ている。マレー半島の人々はイスラーム教のスンニ派・・・を信奉しており、実際の形像を表わすような駒の彫り方は彼らの宗教によって禁止されているのである」(前掲「マレーのチェス」)
[9] マレーの『チェスの歴史』によれば、マレー半島やスマトラ島部では六種の駒名のうち、キング・クイーン・ビショップの現地名がサンスクリット語そのものであり、ナイトとルークの現地名はインド東南沿岸の言語、タミル語やテルグ語であるとされています。このように語源から見て、マレー・インドネシア地方の将棋類とインド将棋の間に何らかの関連があったことは否定できないようです。
[10] 1971年にチェスや日本将棋に造詣があったゲームデザイナーのアレックス・ランドルフ氏が『将棋世界』誌に執筆した「将棋とチェス (1) 将棋とチェスの歴史の一面」の中でタイ将棋「マクルーク」と日本将棋の重大な類似性があることを指摘しました。おそらくこれが初めて一般向けにマックルックについて述べた文章だろうと思います。次に1972年に『近代将棋』誌に朝日新聞観戦記者の東公平氏による「世界の将棋」の第5回に「タイ国の将棋」が掲載され、「マックルック」という名前と共に、その初型配置と駒の動きが紹介されました。その後増川宏一氏も1974年に「将棋の起源(七)」(『将棋世界』7月号掲載)でアジアの他の将棋類と比較する中でタイの将棋について述べました。増川氏は『将棋T』(1977年)の中でも一節を設けてタイ将棋を詳しく論じています。
[11] 関西将棋会館内の将棋博物館は残念ながら2006年10月に閉館してしまいました。かつて展示されていた世界の将棋類の盤駒の写真は今も将棋連盟のHPから閲覧できます。URLは以下のとおりです。
https://www.shogi.or.jp/history/world/makruk.html
[12] 岡野伸・大谷恵洋『タイの将棋 マックルックの指し方と現地情報』38p以下。
[13] 前掲「東南アジアの伝統ゲーム」を参照。
[14] 大谷恵洋氏によれば、タイでは、マックルックは「タイチェス」、チェスは「ワールドチェス」と英語表記されています(前掲『タイの将棋』38p以下)。
[15] 木製の駒の購入はバンコク市内でも簡単ではないようです (前掲『タイの将棋』55p以下)。
[16] 前掲『タイの将棋』6p以下。しかし、現在ではもっと減少し100万人以下だという説もあります。
[17] 前掲『タイの将棋』47p以下。大内延介『将棋の来た道』58〜60pを参照。
[18] 11世紀イスラームの学者ビールーニー(973〜1048)が1030年に著した『インド誌』には、イスラーム圏とインド(おそらくパンジャーブ地方)では将棋駒の動きが大きく異なっているという記述があります。マレーは『チェスの歴史』の中でこの記述を英訳して次のように紹介しています。
「彼らインド人は、チェスをプレーするとき、象の駒を、1回につき、歩兵のように1マス直進させるか ・・・(中略)・・・ 、四隅斜めに1マス進ませるかすることができる。彼らが言うには、この駒が動ける5つのマス目、すなわち、直前と4隅は、象の鼻と4脚が占める場所を表わしているのである。」
ペルシアからイスラーム圏に伝えられた当時インド将棋の象はどのような動き方だったかは分かっていません。また11世紀当時パンジャーブ地方での象の駒のこのような動きがインドで一般的に行われていたのかどうかも不明です(例えばビールーニーは、同じ書物の中でインドには4人で対局する将棋もあると報告していますが、この4人将棋の「象」は「縦横自由に動ける」と述べています)。
[19] マレーも早くからこの動きの同一性を指摘しています。しかし彼は「おそらく偶然的なもの」と述べ、タイ・ミャンマーの将棋と日本将棋の関連性に否定的な立場を取っています。私たち日本の将棋ファンは、このタイのコーン(根)の駒(そして隣国ミャンマーの象の駒)と日本の銀将の駒の動きが同一であることに目を惹かれるかもしれません。さらに後に見るように、タイ将棋と日本将棋には他にも、ビア(貝殻)の駒の位置と昇格ルールにも日本将棋との類似性が認められます。そこから、1970年代以降、将棋類が東南アジアを経由して日本に伝来した可能性が提起され、有力な説の一つだと考えられるようになっています。
[20] タイ将棋において、ポーンに当たるビアの駒が三段目に並んでいる点と、この三段目に達したとき裏返して昇格するという点も日本将棋の歩兵の位置と昇格の仕方に似ています。この点についてもマレーは、「その類似性もおそらく偶然的なもの」と述べています。やはりマレーは、インドから東南アジアに伝来した将棋類がはるか遠方の日本にまで伝わった可能性に否定的だったことが分かります。
近年マックルックの歴史に関する重要な研究書が刊行されました。それは、タイの博物館などに収蔵されている古い陶製の駒に関するものです(『将棋類の伝播に関する研究―タイ将棋マックルクを中心に―』2016年)。その中で最も目を引くのは、15〜16世紀と推定される駒のうちビア(ポーン)と見られる駒の図像を掲載していることです。その多くは、現在のような扁平な形ではなく、上部に丸みがあったり突起を有していますが、これらは明らかに反転させるのに適していません。ここから推定されるのは、15〜16世紀当時にマックルックのビア駒の昇格が現在のルール(敵陣の三段目に達した時反転させてメットに昇格させる)とは異なっていたのではないかという可能性です。これに関して今後さらに調査・研究が進んでいくことが大いに期待されます。
[21] 1989年に国名がビルマからミャンマーに改称されています。
[22] ミャンマーチェス連盟会長をされたウ・チョータン氏による説明です(岡野伸『ミャンマーの将棋 シットゥイン』53pを参照しました)。ただ一部では依然としてシビィインとも呼ばれていました。日本では近年までミャンマー将棋が「シベイン」という名で呼ばれることが多かったのですが、それはシビィインの英語表記から来たものです。現在では日本でも「シットゥイン」が一般的な名称になりました。
[23] 1970年代に執筆されたシットゥインの日本語文献の代表としては、注10で紹介した東公平氏の「世界の将棋」連載記事と増川宏一氏の『将棋T』があります。そして『将棋世界』1985年3月号に発表された室岡克彦四段(現七段)による「滅びゆくビルマ将棋」という記事は、おそらく初めて現地での直接取材に基づいたもので、たいへん貴重な報告でした。その冒頭部分で室岡氏は、日本の「本に書かれたビルマ将棋の説明はほとんどが資料不足か誤っています」と述べた後、直接現地の元チャンピオン等から、ビルマ将棋の盤と駒・駒の並べ方・歩兵の昇格法、そしてビルマ将棋の現状等について聞き取った内容をレポートしています。また室岡氏は、文章の終わり近くで、「約千年の歴史があるそうですがあと何十年かしたらビルマ将棋は滅んでしまうのではないでしょうか」、現地の人たちから話を聞くのが「数年後だったらビルマ将棋を知っている人を探すのさえ不可能だったでしょう」とその行く末を強く危惧していました。なお、それから13年後の1998年に現地調査に訪れた岡野伸氏の報告では、ミャンマーでシットゥインを知っている人は人口の5%未満と思われ、実際にシットゥインを指す人のほとんどは60歳以上で競技人口は1000人を下回っているということです(前掲『ミャンマーの将棋 シットゥイン』12p参照)。
[24] 駒の価格は、ミャンマーの平均的な収入の約一ヵ月分に当たり、非常に高価です。かつては大衆向けの普及品として安価なプラスティック駒が試作されたこともあったようですが、盤上に駒を打ちつける現地の指し方では壊れやすいので市販に至っていません。ただ、チェス駒の蒐集家などからの需要もあるようです。また、遊べる民族工芸品と考えれば、観光客向けの産品として魅力があるのではないかと思います。
[25] 赤と黒が駒を1枚ずつ配置していくやり方もあれば、赤がすべての駒を配置したのを見てから黒が配置するやり方もあります。黒が配置を終えた後に赤が駒を入れ替え、さらに黒がこれを見てまた入れ替えることもできます。こうして最終的に黒の側が配置した後赤が了解したら、赤の先手で初手を指します。なお、近年大会では、盤の中央に遮蔽物(衝立やカーテン)を置いて、両者が相手に見えないように自分の駒を配置したうえで開局するやり方が採用されることもあるようです
(この情報は「ウィキペディア」の閲覧から得たものです)。
将棋駒ものがたり(その11)日将連旧津軽支部の稽古駒について(前編)
永らくご無沙汰しておりました。またも弘山による将棋駒話にお付き合い下されば幸いです。
日本将棋連盟津軽支部は、宮崎忠雄支部長の下で1962年以来半世紀以上弘前地区での普及活動の中心となってきました。2011年に三十数年ぶりに郷里にUターンした筆者も、翌年から支部に加えていただき、宮崎旅館で毎週行われる稽古対局会に参加して先輩会員諸氏からご指導を受けることができました。その後支部が解散する2014年まで二年余りの短い間でしたが、将棋によって久しぶりに故里で暮らす我が第二の人生は豊かなものになりました。宮崎先生をはじめ旧津軽支部の皆様方にはどれほど感謝しても足りないと思っています。
中でも一番の思い出は、支部に加入した2012年の末に県連総会が浅虫温泉で開催された時、支部長からのお誘いで、先輩会員の方々と共に参加できたことです。全く思いがけないことだったのですが、おそらく日頃の稽古に自作の盛り上げ駒を持ち込んで対局していたのが先生の目に留まったのがきっかけだったのかもしれません。
県内の将棋関係者には周知のことですが、宮崎先生は大山十五世名人と昵懇の間柄でした。その縁で「名匠」香月師(国井重男氏)作の盛り上げ駒を何組も所蔵され日頃の稽古でも使っておられました。先生から稽古に用いる盛り上げ駒の補修を依頼され、表面を磨いてから盛り上げをやり直してお納めしたこともありました。もちろん、香月駒と拙い自作駒とでは雲泥の差があるのは当然のことですが、補修の出来栄えに先生は納得していただけたようでした。その後、今度の県連総会に持って行って皆さんに見て貰ったらどうかな…と勧められました。
自分としてはこの上なく嬉しく、総会当日は弘山作の盛り上げを数組携えて支部諸兄と共に浅虫温泉に向ったことをよく憶えております。
図1 自作の対局駒(錦旗盛上げ) 図2 長年対局に用いられた香月駒(補修前と筆者による補修後の姿)
左上は津軽支部の稽古対局で使わせてもらった自作駒(錦旗書・盛上げ駒)、中央は、宮崎先生が長年稽古に用いられていた香月駒(菱湖書・盛上げ駒)です。依頼の時点では、30年以上も対局で使われてきたため消耗が激しく、ほとんどの駒の漆が剥がれるなどしていました。もう一組水無瀬の盛上げ駒も同じような状態で、これら二組の補修を依頼されたわけです。名だたる「名匠」の高級駒ですので、最初は大変だなと尻込みしていましたが、重ねて依頼され、根負けして最後は引き受けました。すべての駒を盛上げし直して完成したのが上の写真です。
さて、県連総会が終わり、懇親会が宴たけなわを迎えた頃、上座で役員の方々と歓談されていた宮崎先生から手招きされた筆者は、渡辺三郎県連会長をはじめとするお歴々の方々に対して、「津軽支部の新入会員です。恥ずかしながら趣味で駒を自作しております」と自己紹介しながら駒をお見せしました。数組の盛り上げ駒を見た方々には多少驚きが有ったようでした。おそらく実物を見るまで皆さんは、筆者が趣味で作っているのは普通の彫り駒だと思っておられたのだと思います。
自作駒に対する県連諸兄の反応がまあまあだったことに安堵して席に戻った筆者がにんまりして旨い酒を口にしていると、「ま、一杯」と声を掛けられました。声の主は県連の代表幹事の奈良岡実さんでした。奈良岡さんからは自作駒に過分のお褒めをいただき、それだけでも嬉しかったのですが、さらに「やがてプロ棋戦対局を青森県に呼んだ時に貴兄作の駒を使わせてくれないか」というお言葉を聞いたときには、舞い上がるような気分になりました。「もしかして、♪もしかしてだけど…」
― 妄想ともいうべきそんな夢が、それから一年余り経った2014年2月18日に現実のものとなります。弘前市で行われた第63期王将戦第4局渡辺明王将対羽生善治三冠の対局で本当に弘山作の駒が用いられることになったのでした。
旧津軽支部の思い出から話が逸れてつい自慢話になりました。いけない、いけない。
さて、長年津軽地方での将棋振興に力を尽された宮崎先生が95歳の天寿を全うされたのは昨年5月のことでした。それから約一年経って、先生のご遺族や関係の方々から「旧津軽支部で対局に用いてきた盤と駒を役立ててくれないか」という趣旨の申し出が、我が城下町弘前支部に伝えられました。ただし、沢山の駒の現物を見てみると、元々はそれぞれ揃っていたはずなのに長年の対局の結果入り混じってしまったようでした。そこで、支部会員の中で大の駒好きの筆者が駒の整理をしたいと名乗りを上げました。駒の整理はまだ途上ですが、その中で面白い駒もいくつか出ています。今回はそれらを「旧津軽支部の稽古駒」としてご紹介しようと思います。
今回申し出のあった厖大な数の駒は、彫り駒とプラスティック駒からなっていました。筆者がお世話になった頃、津軽支部でのお稽古に使われたのはほとんどプラ駒だったような記憶があります。ただ、その頃の支部の大先輩の方々は、今はプラ駒だけど昔は木の彫り駒で指していたんだ、と話してくれました。青森県でもほとんどの大会でプラ駒が使用されるようになったことが影響したのかもしれません。プラ駒のことはさておき、厖大な数の木製の彫り駒の方は、1970年代から20世紀の終わる頃まで使われていたものではないかと推測されると思います。
木製彫り駒の素材はツゲ駒ですが、ほとんどが東南アジア産のアカネ材、所謂「シャムツゲ」だと思います。彫りはほとんどが「並彫り」か「中彫り」で、「上彫り」や「銘彫り」の駒は、下の図像に見られる竹風(大竹治五郎氏)や玉山(後の久徳、伊藤孝蔵氏)といった名工の作の端駒はあったものの、残念ながら完全な一組になっているものを見ることができませんでした。
(彫り駒の分類についてはこのコラムの「その1」の中の「彫り駒のいろいろ」をご覧ください。)
下の二組の端駒はどちらも、さすが名工作の見事な彫りで、全駒揃っていれば…と惜しまれます。
図3 竹風作淇洲書と見られる銘彫りの端駒
図4 玉山作の上彫り端駒
今回提供された古い駒の中で、ひと組が完全に揃っているのを確認できた銘彫り駒がたった一つありました。彫りの書体銘は「長録」です。この書体は、すでに「その9 青森支部道場の盛上駒」で竹風師作の駒を紹介しております。明治の頃上野の薬店の主人だった人で、書でも知られた守田治兵衛の書風を元にして豊島龍山が創作した駒銘です。一般に対局駒として用いられることは稀ですが、駒の蒐集家の方々が独特の味わいのある駒字に惹かれ、一組は持っていたいと考える駒だとされます。また、アマチュアの駒制作者にとっても、「錦旗」や「水無瀬」などの駒を造った後に一度は造ってみたいと考える駒だとも言われ、隠れた人気を持つ書体です。
図5 益斗作の銘彫り駒・「長録書」
筆者はこれまで百組以上の駒を造ってきました。しかし自分としては、「実際に将棋を指すための駒を造りたい」という思いが強かったせいか、長録書の駒はこれまで一組も造ったことがありませんでした。唯一の例外としては、ずっと以前東京在住の頃に、「長録の盛上げ駒の歩兵が足りなくなったので、二枚だけ作ってほしい」という依頼があり、それに応じたことがあっただけです。たった二枚の歩兵の補充でしたが、曲がりくねった印象の独自の駒字は、彫りも盛上げも相当やりにくかったという記憶があります。
さて写真の長録の銘彫りは、筆者もお手本にしたいと思うような見事な手彫り駒ですが、問題は王と玉の駒尻の銘です。通例彫り駒の銘は漆書きよりも彫りで表示されるのが普通で、直に漆で書かれているのも独特ですが、「益斗作」という作者銘が目を引きました。「マスト」或いは「エキト」と読めるように思うのですが、残念なことにこの作者銘に該当する作家の方をいまだに特定するに至っていません。宮崎先生と大山先生・香月師との関係を考えると、或いは香月堂周辺の方かな、とも思いますが見当がつきません。
「益斗」という駒師の名にお心当たりのある方は、是非このHPの掲示板または城下町弘前支部にご一報くださることを心待ちにしております。
旧津軽支部の稽古駒については、中彫り・並彫り駒にもとても興味深い作例が何組もありました。続きは後編に述べたいと思います。
将棋駒ものがたり(その12)日将連旧津軽支部の稽古駒について(後編)
今回寄贈された旧津軽支部の木製駒の中には、一部ホオやカエデなど安手の素材を用いた黒彫り駒やマキ(マユミ)材と思われる書き駒も混じっていましたが、それらは散逸した駒を補充するために一、二枚加えられたもので、素材の主体はツゲ駒でした。ただ、「ツゲ」といっても日本産の本黄楊材の駒は少数で、ほとんどが中級駒に用いられる東南アジア産のシャムツゲではないかと思われます。また、彫りの分類から見ると、大多数が並彫り駒で、あと三組ほど中彫り駒がありました。
また前編で紹介したように、銘彫り駒は長録書(「益斗作」)が一組のみ、他に竹風作の銘彫り駒と玉山作の上彫り駒の端駒が数枚あっただけでした。
これら略字彫りの中級駒は、数十年間支部会員の稽古で用いられたり、数々の将棋大会に貸し出されたりして、厖大な数の対局を経てきたと想像されます。対局の度に駒箱から取り出しと収納を重ね、駒の散逸や取り違えが生じたであったとしても不思議ではありません。実際今回役立てて下さいと申し出があった駒を、整理のために確かめると、ほとんどの駒が、駒箱の中に一組40枚が揃っていても、完璧に揃っている状態の駒はありませんでした。並彫りと中彫りが混じっているものもありました。また、同じ並彫りでもそれぞれの作者の彫り方の特徴を念頭に置いて観察すると、別の彫り師の造った駒が混じっている印象を受ける場合もありました。数組を預かっている間に、或る程度入れ替えて揃え直してみましたが、やはり一組完璧に揃えることはできませんでした。
その中で特に心に残った作例を紹介します。まず、下の黒ずんだ駒の図像をご覧ください。
図1 天山作の並彫り駒(昭和40年代以前の作か)
今回整理した彫駒の中でおそらく最も古く、確実に半世紀以上前に造られたと考えられる駒です。彫りは並彫りで、材質はシャムツゲだろうと思います。駒箱には別の作者によって制作された並彫り駒と判断される駒も混じっていましたが、駒の形・厚さ・彫られた駒字などを比較して、上の25枚が同じ作者による制作ではないかと推定しました。
駒種は、玉将・飛車・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の7種がありましたが、駒箱に一緒に入っていた角行の駒は残念ながら明らかに別の略字彫り駒(黒彫り)でしたので除外しました。今回提供された並彫り駒は、他にも何箱かあるということなので、他の駒箱の中の角・銀・歩の並彫り駒の中にも同形で同様の彫りの駒が入っていないかどうか確かめてみようと思っています。
この駒の作者は誰でしょうか。玉将の駒尻には「天山」の銘が刻まれています。結論を先に云えば、筆者は、この天山銘の駒の作家は森山慶三師(1900〜80)だと推定しました。森山氏は、既にこのコラムの「その8」の「3. 手彫りの名工たちの妙技」の中でも紹介した彫駒の名工です。1973年にNHKテレビで放映された「新日本紀行」では、「白紙彫り」をする天童の彫り駒の名工として取り上げられていました。森山氏の彫った駒は、テレビ放映された頃はまだ「最高クラスの銘駒」と絶賛されてはいなかったようです。しかし没後約40年経った今では蒐集家たちから至高の彫り駒という評価を受けるようになっています。森山作の駒銘は、現在「武山」がよく知られています(このコラムでも、「その10・城下町弘前支部の盛上げ駒」で取り上げた駒も、「武山作」の銘ゆえに森山師の作と推定しました)。しかし、天童市刊行物産課が1998年に発行した『天童と将棋駒』という冊子によれば、森山氏は武山の他にも「天山」の銘も用いておられました[1]。おそらくこの駒の見事な彫りから考えても、森山氏の作だという可能性が大きいと思います。
旧津軽支部の稽古駒には、他にも「天山」の銘がある中彫り駒もありました。また、同じく中彫り駒で「光山」という銘のあるものもありました。ただ両師銘のある二組の中彫り駒には、他の駒も混じっており造った状態そのままではなかったと思われることが残念です。
図2 天山・光山銘の中彫り駒
さらに、「光花」という銘の並彫り駒があり、これは元々の一組が揃っているように見受けられました。光花の銘は、現在は老舗駒店の機械彫り駒に彫られていますが、こちらは、機械彫りではなく手彫り時代の光花駒ではないかと考えましたが、さていかがでしょうか。
図3 光花銘の並彫り駒
このように、古駒の整理は筆者にとって興味の尽きない作業で、今でも継続中です。
しかし、盤も駒も実戦に使ってこそ価値があります。寄託された盤駒をそのまま眠らせておいたのでは勿体ないことはいうまでもありません。当城下町弘前支部には稽古用の盤駒にはゆとりがあります。そこで支部役員の頭の中に、いつも支部の稽古に参加されている弘前大学将棋部の皆さんが学内で対局する時にも良い盤駒を使って貰ったらどうか、というアイデアが浮んだのでした。
こうして支部内で検討した結果、脚付き盤と駒台、ツゲの彫り駒を弘大将棋部に寄贈することが決まりました。ツゲ駒は中彫り並彫り合わせて三組(そのうち二組は光花作の銘があります)、他に前編で紹介した、益斗作長録書の銘彫り駒も寄贈します。
かつて大山十五世名人は「良い盤駒で指すのが、上達の早道です」と語っておられました。弘大将棋部の皆さんが一層棋道に精進され、再び県大会そして全国大会で大活躍されることを期待しております。
支部では、去る10月30日(土)の夕刻の例会時に合わせて、弘大将棋部への盤駒贈呈式を実施いたしました。当日は地元の陸奥新報の方が取材に来られ、11月8日に盤駒贈呈の様子が紙面を飾りました。このコラムをご覧の皆様も図書館などで陸奥新報をご一読いただければ嬉しく思います。
図4 弘前大学将棋部に寄贈された盤駒の一部
脚付き五寸盤二面と寄贈された彫り駒。左は益斗作長録書銘彫り駒、右は中彫り駒。
また、かつて津軽支部でご指導をいただいた筆者としては、こうして盤駒を活かす道を実現できたことを宮崎先生が天国で喜んでおられると信じております。
付録 関西の略字彫り駒について
略字将棋駒といえば、天童独自の「中彫り・並彫り・黒彫り」があります。しかしこれらが略字駒の全てではありません。関西地方でも様々のタイプの独特の略字彫り駒[2]が用いられていました。
元はと云えば、関西流の略字彫りの方が先に成立しており、天童の略字彫りはこれを模倣したことで成立したのだろうと思われます。
先日支部会員所蔵の関西流の彫り駒を拝見する機会がありました。それは、「芙蓉」という彫り駒です。「芙蓉」とは、元々明治から大正期にかけて大阪で活躍した増田開進堂の主人だった駒師・増田弥三郎[3]の銘とされています。増田は江戸末期から続く安清駒の伝統を継いで実に多くの駒を制作しました。弥三郎、子息の増田寅造(号「水月」)・娘の「信華」の造った銘駒は、現在「名駒集覧」というサイトで鑑賞することができますので、興味をお持ちの方はそちらをご覧下さい。(https://jade.co.jp/kigu/index)
今回城下町支部会員の方から見せていただいたこの彫り駒は、もちろん増田開進堂が制作した駒ではないだろうと思います。しかし、駒尻の「芙蓉」の字体が独特で面白く、彫りも天童の略字彫りとはかなり異なる味わいを持っていますので、ぜひご覧下さい。
図5 関西の彫り駒・「芙蓉」
[1] 天童市観光物産課編『天童と将棋駒』(1998年販)26頁を参考にしました。また、宮川泰夫「天童将棋駒産地の変質」(『愛知教育大学研究報告 41 社会科学編』1992年)14頁にも、彫り師森山氏の用いた号として、「武山」のほかに「天山」・「天二」の号が紹介されています。
[2] 熊澤良尊氏によれば、かつて関西地方では、駒字の一画一画を正規な字画で彫った駒を「歩兵(ぶひょう)彫り」、簡単に記号のような字体で彫った駒を「ごんた駒」を呼んでいた、ということです。「ごんた」という言葉には、やんちゃで気まま勝手な男、という意味合いがあり、そこから、正規の字画にとらわれず彫刻刀でざっくりと彫った駒を指したということなのでしょう。熊澤氏はいくつかの代表的な「ごんた駒」の書体を紹介しています(「名駒探訪 第18回 大阪彫り・ごんた駒」(『将棋マガジン1995年6月号』90頁以下)を参考にしました)。
[3] 明治期末に刊行された『木材ノ工藝的利用』(1912年、大日本山林会発行)には、「将棊駒」の項を記載する際の協力者として、「大橋宗桂(宗金)」と並んで「増田弥三郎」の名が記されています。弥三郎は将棋駒制作ではもっとも著名な人物の一人だったことが分かります。
将棋駒ものがたり(その13)幸田露伴と将棋(その1)生涯将棋を愛好した露伴先生
今回からは、これまでとは一転し、近代日本の文豪・幸田露伴(1867〜1947)と将棋の関わりを取り上げてみたいと思います。露伴といえば、「紅露逍鴎[1]」と並べ称せられた人で、筆者ごときが何かを語るのは畏れ多い大先生です。ただ、博覧強記の教養人である反面、若い頃北海道余市に電信技師として赴任していた時には、現地の芸者衆に人気があったと伝えられ、粋な面もあった人でした。また、大の将棋好きで、新婚時代の明治二十九年(1896)に、負けてしまった将棋の指し手のことを考えるあまり原稿の執筆まで疎かになり、ついに妻から諫められるほど将棋に熱中した[2]こともありました。この稿は「将棋に関することなら何でもテーマにしよう」という興味本位の雑文ゆえ、多少のことは天国の露伴先生もお許し下さるのではないかと思います。
露伴(本名・成行)は、慶応三年(1867)に幕臣・幸田成延の三男として、上野の下谷に生まれました。幸田家は、代々大名の取次をする「表御坊主衆」(いわゆる茶坊主)を勤めており、有職故実や学芸に縁のある家系でした。表題の下に掲載した露伴の肖像の隣にある幕末の頃の切絵図を見ると、下谷にあった幸田家の近隣には、能楽師・刀剣の研師・医師・茶人など、文化に関わる人々の名が記されています。そして、その中には将棋の大橋本家の十一世宗桂(1804〜74)の名もあります[3]。露伴が文学・史伝・考証の分野で活躍し、特に我が国で初めて将棋の歴史についても考究するようになったのは、幸田家代々の家系や少年時代からの周辺の環境が何かしらの影響を与えているのかもしれません。
さて露伴は、若き日に新妻の諫言があって「将棋から遠ざかる」ようになった、と振り返っていますが、おそらくその謹慎は長続きせず、やがて元どおり将棋を楽しむようになったのだろうと思います。東向島の自宅・蝸牛庵には、執筆の傍ら、来客と対局を楽しみ一人棋譜並べに勤しむ露伴先生の日々があったことでしょう。
次女で作家の幸田文(1904~90)は、おそらく明治末から大正時代の父の思い出として、「古い棋譜を見て、勉強だか、たのしみだか、とにかく飽かずひとりで駒をうごかしていることもあり、時には近所の老人をよんで興じていたこともあり、盤にむかっている父の姿は、いまも私の目に残っている」と述べています。この随想の中で文は、幼少期に父から将棋の駒を用いた遊びを教えてもらったことを振り返り、「もとより幼児のことだから、将棋で遊ぶといっても、ふり将棋、積み将棋、はじき将棋、とび将棋などという他愛のないことで、半分以上は父が一緒に遊んでくれる楽しさだったろうか」と綴っています(ともに幸田文「ふり将棋」[4]より)。
驚くべきことですが、愛児たちとの将棋遊びにも露伴愛用の貴重な盤駒が用いられていました。「将棋盤は父の大事な物だのに、子供にはかなわなかったものと見える。遊んだあとは丁寧に鬱金のきれで馬子を拭かせられた」(幸田文「ずぼんぼ」、新潮文庫『こんなこと』より)。
露伴と将棋駒については、次々回で述べることにしたいと思います。
◆子供たちの将棋遊び(駒遊び)について
〇幸田露伴 『将棋雑話』「将棋をもて遊ぶ方法」 より
今の将棋をもて遊ぶ方法は、本式のほかにもいと多し。ふり将棊、うけ将棊、はさみ将棊、どけ将棊、とび将棊、ぬすみ将棊、
はぢき将棊、くはへ将棊など是なり。此中、ふり将棊、ぬすみ将棊、はぢき将棊は小児の戯れにして大人の為すに堪へざるものなり。うけ将棊最もおもしろく、どけ将棊最もをかしからむ。
〇中田幸平『江戸の子供遊び事典』より
「…子供たちの間で遊ばれる駒遊びは「盗み将棋」「弾き将棋」「挟み将棋」「振り将棋」である。以上の「将棋遊び」を子供たちは「将棋」と言い、本格的な将棋を「本将棋」と言って区別していた。本将棋の「本」は本当、本物の「本」でウソの反対語から付けたものである。」
しかし、父との将棋駒遊び[5]は娘にとって楽しい思い出ばかりではなかったようです。世間の親は子供と遊ぶときは勝たせてやるのが普通だと思うのですが、露伴は勝負の厳しさを教えようとしたのか、子供たちとの遊びでも決して譲ったりせず、いつも自分が勝ってしまう人でした。
それだけではありません。文が十代になって病弱な継母に代わって家事をこなすようになった頃から、露伴は文に膳を整えさせ、酒を飲みながら棋譜並べを楽しむようになりました。
「将棋盤は膳とならべられて置かれ一人将棋がはじまり、私には小ぎたない定跡の本が授けられる。序盤は私が読んでいくが、中盤に入ってそろそろ荒れてくると、父の方が何々の歩だろうとか何々の金だろうなどと当てにかかる。長々と思案してものも云わない。折角の台処の心づくしも無にして、さかなも冷えるにまかせ、ただ盃ばかりをふくむ。…(中略)…将棋そのものを敬遠したいところへ持ってきて、父の陰気な鋭い顔に対いあって、いやとも云えない悲しさ、まったく難儀なことであった。この相手はたびたびさせられた。幼くて、わびしいなどということを知るよしも無いが、いま思ってみてもうなだれるような空気を感じる。十四五のころ、たしなみ・楽しみのために「馬子道(こまみち)くらいは明けておかなくては」と教えてくれようとしたが、勇を鼓してはっきりいやだとことわった。変な顔をしたが父は強いなかった。」(前掲・「ずぼんぼ」より)
十代前半の娘にこんな扱いをする父親は、今の世であれば「児童虐待」の謗りを受けるかもしれません。また、せっかく興味を持ち始めた娘を将棋嫌いにしてしまったことは、将棋ファンの一人である筆者から見ても、本当に残念でなりません[6]。
それはともかく、このように毎日棋譜並べに励むだけあって、露伴の棋力はなかなかのものでした。現在と比べて段位の認定が厳しかったと思われる大正時代に四段位を認められています。晩年には木村義雄十四世名人とも「角落ち」でしばしば対局したことでも知られています[7]。
[1] いうまでもなく「紅」は尾崎紅葉、「逍」は坪内逍遥、「鴎」は森鴎外のことで、この4人は明治期を代表する文豪だという意味ですが、他の三人が帝大卒だったのに対して、露伴は家計の事情で中学を退学せざるを得ませんでした。中退後16歳で給費生入学した逓信省の電信修技学校を経て、北海道余市で電信技手として勤務していましたが、21歳で坪内逍遥の『小説神髄』などを読んで文学に目覚めて上京、2年後に23歳で文壇に登場しました。さらにその3年後の1892年『五重塔』で一流作家としての地位を確立するに至ります。
※編注「おうがい」の「おう」は環境によって表示されないため、田中さんの了承をいただき「鴎」を使用いたしたしました。ご了承ください。
[2] 「長き夜をたたる将棋の一ト手かな」は、この時のことを詠んだ一句だとされています。「将棋に負け、床についても口惜しくて眠れない。深夜まで考えて、やっとのことで詰め手が分かる。喜びのあまりに大声を上げたところ、「原稿を書く時に、こんなに本気になっているのを見たことはない。本業でもない将棋に夢中になって、馬鹿げた大声を出すとは情けない」と、新妻から厳しく諫められたという話は、若くして亡くなった妻の思い出として、しばしば親しい人に語っている」(越智信義『将棋の博物学』三一書房、1995年刊、87頁)。
筆者も含め多くの将棋ファンにも、これに類する経験を持つひとは多いのではないでしょうか。
[3] ただし、増川宏一氏も指摘されるように、切絵図の名は地主または家持を示すもので実際の住人ではない場合もあるのでその点は留保すべきだというべきでしょう。実際大橋本家の場合も、拝領地に家守(大家)を置いて他人に貸し、自分はそこから一軒置いた御徒衆の中田氏方に借家していました (同氏『将軍家「将棋指南役」 将棋宗家十二代の「大橋家文書」を読む』洋泉社、2005年刊、124頁以下を参照しました)。
ただ、少なくとも露伴の幼少時には将棋の大橋家が町内に住んでいたことは確かですので、彼が将棋に親しむきっかけになった可能性はあると考えてよかろうと思います。
[4] 文芸春秋編『「待った」をした頃 将棋八十一話』(文春文庫、1988年刊)210〜211頁。この随想は、元々『将棋世界』1971年8月号に掲載されたもので、後に『幸田文全集第19巻』に収録されています。
[5] 文は、この頃露伴が自分たち姉弟と遊び散々負かした駒遊びとして「どけ将棋」というゲームを挙げています。露伴自身も、『将棋雑話』の中の「将棋をもて遊ぶ方法」の項で、どけ将棋を「最もをかし」(いちばん知的に面白い)と高く評価しています。しかし、残念ながら筆者が調べた限りでは、現在知られている子供向けの将棋遊びの種類の中には「どけ将棋」の名前は見当たりません。その一方、露伴も文も将棋遊びとしてよく知られているはずの「回り将棋」の名を挙げていないので、もしかすると「どけ将棋」は「回り将棋」のことを言っている可能性もあるのではないかと思っています。実際回り将棋では、他の競技者の駒を追い越して進む時にその駒を内側に1マス「どけて」追い越すことがあります。
[6] 父の飲みながらの棋譜並べに繰り返し付き合わされて、文が一度は将棋が大嫌いになったのは確かだと思います。しかし将棋好きだった父露伴の姿だけでなく、世間一般に知られることが殆どなかった小野十二世名人の思い出まで書き記している文章など(『包む』講談社文芸文庫、1994年刊)を見ると、やはり文先生は、その後も将棋にかなり関心を持っていたのではないかと思われてなりません。『幸田文対話』(岩波書店、1997年刊)には、将棋を愛した父露伴の思い出の数々を木村義雄十四世名人と語り合っています。
なお、この対話集には増補版があって、そちらの方には角川書店社長の角川源義氏と「雑談桂馬筋」という面白い題名の対談が収録されています。露伴が文に「おまえはどうも桂馬筋に感情が動くようだから、人づきあいはよほど気をつけろ」と注意したという話(幸田文『みそっかす』岩波文庫、48頁)もあり、思わぬ方角に飛んでいくがいったん飛んだら戻れないといった桂馬という駒の特異性については、父娘の間でイメージが共有されていたようにも思われます。この対談には興味を惹かれますので、機会があればこの増補版の対話集をぜひ一度読んでみたいと思います。
[7] 露伴は50歳の時、大正五年(1916)に小野十二世名人から初段を、同じ年に井上義雄八段から二段を許されました。さらに56歳になった大正十一年(1922)には関根十三世名人から四段を許されています。また昭和二十二年(1947)彼が逝去すると、日本将棋連盟は六段位を追贈しました(前掲・『将棋の博物学』84頁参照)。
木村十四世名人が露伴邸を初めて訪れたのは、昭和6年頃のことでした。木村は当時20代の半ばで、すでに八段に昇進していました。露伴は若き天才の訪問を喜び、自ら速成のカクテルをつくってすすめるなどして大いに歓待しました。初対面だったこの時対局はありませんでしたが、その後昭和8年1月からは、自宅に招いて角落ちで対局するようになりました。この最初の角落ち戦の記録は、彼の死後昭和26年(1951)に発見されています。木村は露伴を心から尊敬しており、露伴との将棋は精魂尽して指しましたから、結果は連戦連勝だったことはいうまでもありません。しかし、このように名人が全力を尽くしたのに、一局だけですが露伴の勝ちになったことがありました。露伴は「このときだけは白い髭を震わせてさすがに嬉しそうだったという」(『読売新聞』昭和26年2月29日付の記事より)ことです。名人は露伴の娘の文に「先生はいつもその最善の手を指してきましたね。わたしは先生には一回も負けないつもりで指しましたが一番くらいは負けていますね」と回想し、素人の水準を超えた露伴の確かな棋力を証言しています(前掲『幸田文対話』106・107頁)。
将棋駒ものがたり(その14)幸田露伴と将棋(その2)日本初の将棋史研究・『将棋雑考』
前回述べたように、幸田露伴は、新婚時代に将棋に熱中しすぎたため妻から諫められて、将棋の勝負から一歩退いたと述べています。しかし、やがて将棋への関心を取り戻すと共に、この面白い盤上ゲームの来歴に興味を覚え、将棋史を研究したいと考えるようになったのかもしれません。
明治三十三年(1900)露伴は、雑誌『太陽』に将棋の発祥と伝播をテーマとした『将棋雑考』を発表しました。この考察以前に、このテーマに言及した文献はきわめて少なく、例外的な事例として、江戸期の『人倫訓蒙図彙』(1690)や『本朝俗諺志』(1747)で、天平時代に吉備真備が唐から日本に将棋を伝えたと述べた記事や、『象棋六種之図式』(元禄期以後とされている)で宋に遊学した僧侶が伝えたという説があると述べた記事などがありますが、いずれもごく簡単に紹介する程度の文言に過ぎません。
これに対して露伴の『将棋雑考』は、将棋史に関する我が国初の本格的な論考とされています。露伴全集の第19巻(「考証」)に収められており、現在も読むことができます。
『雑考』は、全集では47頁を占めています。そのうち14頁が西洋将棋(チェス)の歴史、18頁が支那将棋(中国の将棋・象棋)の歴史、5頁が両者の歴史の比較に充てられており、ここまでが東西の将棋史に関する論考です。これに比べて日本将棋を論じた部分は僅か10頁足らずで、内容的にやや物足りない印象を持つ方も多いのではないでしょうか。それは将棋史研究の先人が皆無に近く、博学の露伴先生にとっても、信頼できる文献がなかなか見当たらなかったのかもしれません。
なお『将棋雑考』は、明治の文語体で書かれ、格調高いことは感じられますが、現代の我々にはかなり読みづらい文章です。そこで筆者は、本稿で露伴の原文をできるだけ現代に近い形に読み替えて理解しようとしました[1]。
もちろん自分の理解には多々誤りが含まれているのではないかと思います。そこでこの雑文をお読みの諸賢へ、誤りがあればどうかご教示下さいますよう、お願い申し上げます。
なお、世界の将棋の歴史については当コラムもこれまで「番外編」の形で色々と述べてきました(西洋将棋(チェス)については「番外編2」で、中国の象棋(シャンチー)については「番外編3」で、古代インドの将棋については「番外編4」で述べました)。また現行将棋成立以前と見られる小型の将棋と大型の将棋に関する『将棋雑考』の内容を理解するためには、「番外編1」(「中将棋と大将棋の駒について」)も役立つかもしれません。関心をお持ちの方はご覧いただければ幸いです。
1.西洋の将棋
さて、西洋将棋(チェス)に関する知識は、明治政府による欧化政策の一事業として刊行が進められた百科事典によって一般にも知られるようになっていました。その分冊として「室内遊戯(Indoor Amusement)」を扱った『百科全書 戸内遊戯方』(1879)が和訳・出版され、その中でチェスは「象棋」として紹介されています。
チェス(象棋)の起源と伝播についても、
「初メ二千年前、温都斯坦(ヒンドスタン)ニ於テ用ヰラレシコト有リ。…然ル後波斯(ペルシャ)ニ伝播シ、其後…亞喇伯(アラビア)人及モールニ伝リ、又モール人ヨリ西班牙(スペイン)ニ伝フ」、さらにその名称が
「チャタランガ」(インド) → 「チャトラング」(ペルシア) → 「シヱトランジ」(アラビア)
と変化していった、と述べられています。一般に露伴は『将棋雑考』を執筆するに当たって、西洋の百科事典(『エンサイクロペディア・ブリタニカ』と思われます)の中の「チェス」の項の記載内容を参考にしたと言われています[2]。しかし、将棋好きの露伴が上述の『戸内遊戯方』を読んだ可能性も十分あり、それが将棋の歴史への興味を持つきっかけになったのかもしれません。
また、後に述べますが、彼はこれら事典類からさらに進んで、直接西欧の最新学説にも当たってチェスの歴史的起源を探ったとも言われています。
『雑考』の中で、露伴はまず、チェスの起源をバビロニア、エジプト、ギリシア、ローマなどの古代文明に求める説や、古代中国に求める説があることを紹介した上で、これらの説に否定的な立場を表明しています。そして、19世紀後半までに西欧の学者が発表した研究に基づいて、
チェスの起源はインドに発するという「インド起源説」が最も有力である
と考えています。それは以下のような内容の学説です。
○チェスの最古の原型はインドの将棋・「チャツランガ(チャトゥランガ)」である
○チャツランガとは、インドでは象・馬・車・卒という四つの軍事編成のことである
○チャツランガは、これら四軍を表す駒を用いて勝負を争うゲームを指すようになった
○チャツランガは、6世紀頃にペルシアに入り「チャトラング」と呼ばれ、7世紀にアラビア人の間に流行し「シャトランジ」となった[3]
○経路は不明だが、10〜11世紀頃にヨーロッパに伝播した
そして現在の我々にとって驚くべきことですが、『将棋雑考』では、このインドの「チャツランガ」の最古の形態について、19世紀後半当時に最新とされた二つの学説が紹介されています。
一つは、最古の将棋の形態が、サイコロを用いて四人で遊ぶ「フォアハンデッド・ゲーム(四人制のサイコロ将棋)」だったという説です。この四人制将棋とは、18世紀後半に英国人インド学者ウィリアム・ジョーンズ卿(1746〜90)が発見したベンガル地方の遊びでした。ジョーンズ卿ご本人は、将棋はインドでも最初から二人で遊ばれており、四人制将棋は、二人で遊ぶ将棋がペルシアに伝えられた後に、新たに興じられるようになったゲームだと考えていました。しかし、その後英国からビルマやベンガル地方に活動した将校のハイラム・コックス(1760〜99)は、ジョーンズ卿の発見した四人制将棋こそが二人制将棋の祖先であるという説を唱えました。そして、この説を採用したのがロンドン大学教授のダンカン・フォーブス
(1798〜1868)です。こうして、「コックス・フォーブス説」[4]が19世紀後半に一時期チェスの始原に関する定説とされるようになりました[5]。
だが残念ながら、コックス・フォーブス説の権威は長くは続きませんでした。1874年に、インドやペルシア文献の調査を丹念に進めたオランダの碩学ヴァン・デア・リンデ(1833〜97)は、四人制将棋について述べた梵語文献がそれほど古い時代に書かれたものではないことを明らかにして、上述の「四人制将棋起源説」は全く根拠がないと痛烈に批判しました[6]。
ヴァン・デア・リンデの研究は、この『将棋雑考』が書かれる約20年前に発表されたものです。それから150年経ちますが、チェスの起源は二人制将棋なのか、四人制将棋なのかという論争は今日に至っても完全には決着していません[7]。今から120年前のこの時点で、西欧の学者たちの最新の研究から学ぼうとする露伴の探究心に対して、筆者は深い感銘を覚えるものです。
いずれにしても、チェスのインド起源説が最有力なのは確かです。チェスはインドからペルシア、アラビアを経てヨーロッパに伝播し、そこで改良されて大流行するようになりました[8]。
2.中国の将棋について
露伴が西洋将棋の次に論じるのは、中国将棋(象棋)の歴史です。
中国ではその起源を極端に古い時代にまで遡るような見方があります。しかし露伴は、漢学の確かな知識に基づいてこうした説を強く否定しています。
例えば中国の古い言い伝えでは、約3000年前に周の武王が殷の紂王を討った時に象棋が造られたと語られることがありましたが、これは全く荒唐無稽な俗傳に過ぎません。
また、戦国時代の古典の中には「象棋」という語が見られますが、この語は「象牙製のゲームの駒」という意味で、そのゲームは将棋とは全く無関係な遊びだとされています。
6世紀に北周の武帝(543〜578)が『象経』を講じたことが歴史書に記録されています。中国では、これを根拠に、象棋の起源について「武帝が象戯或いは象棋を創成した」という説が唱えられるようになりました。しかし、武帝の講じたという『象経』は散逸しており、その実体は全く不明です。たとえ武帝が「象戯」という名のゲームを創ったと仮定しても、それが現行中国象棋のルーツだと言えるわけではありません。露伴は、象棋の武帝創造説にも「北周に淵源すとすべからず」と懐疑的な立場を示しています。
ただし露伴は、武帝の時代に造られたという「象戯」が現行の象棋と全く種類の異なるゲームだとしても、その当時すでに象棋の原型となるような将棋類があったかもしれないという可能性を「無きにしも非ず」と認めているようです。
それはさておき、現在の中国象棋の祖型に言及した最古の文献だと露伴が考えたのは、武帝から2世紀以上経った唐後期の宰相・牛僧孺(779〜847)作とされる怪奇小説『玄怪録』でした。この中には、小人たちの軍勢が戦争を繰り広げるという夢物語があります。この戦争で戦っている者として、「王」「金象」「軍師」「上将」「天馬」「輜車」「歩卒」などが挙げられています。これらの中には進撃の様子が現行象棋の駒(将・象・馬・車・卒など)の動きとの類似を思わせるものが幾つかあります。また物語の結末では、主人公が借りた家から象棋の盤駒が発掘され、毎夜見ていた戦争という悪夢の原因はこの盤駒だった[9]ということが明らかになっています。
もちろんこの物語そのものは全くのフィクションです。しかし、唐代の後期に或る種の将棋類が興じられていたことを示していることは確かです。ただし、その時代の将棋の盤駒やルールがどのようなものかは残念ながら不明です。
このように唐代に興じられていた象棋の祖型と思われる将棋類が、その後の北宋時代になって改変・修正されました。その結果、現行象棋とは異なるものの類似した将棋類が何種類も作り出されています。例えば北宋時代の学者で政治家の司馬光(1019〜86) や文人・晁無咎(1053〜1100)などの造った大型の象戯類もその中に数えられます。そして露伴は、13世紀南宋の詩人劉克荘(1187〜1269)の書き残した詩を紹介しています(『露伴全集19』27頁以下)。そこでは、
○ 「象奕」は32個の駒で遊ばれていた
○ 砲・卒・象・車・馬・士・将の全七種の駒が言及されている
○ 盤は河界で二分されている 等々のことが述べられており、
それまでに現れた様々の型の将棋類が淘汰され、現行象棋の原型がほぼ成立するところまで進んだことが分かります。中国の象棋は北宋時代の終わり頃までには確立した可能性が大きいと思われます。こうして露伴は、中国の象棋について以下のような結論に至りました(『露伴全集19』30頁)。
○ 象棋は宋の時代に現行と大差ない形で遊ばれていた
○ 現行象棋の先人と見るべき一種の象戯は唐の時代に行われていたと推定できる
○ 唐の少し前の時代にも象棋の先人たる象戯が遊ばれていた可能性が全くないとはいえない
○ さらに時代を遡って、象戯が中国古代にも存在していたという証拠は全く認められない
さらに、『将棋雑考』では、西洋将棋と中国象棋を、駒の名称や性能・初期の配置などを比較しています。すると、意外なことに両者がかなり近似したゲームであることが分かります。露伴は、東西将棋類の歴史的関係について次のような考えを述べています (『露伴全集19』37頁)。
○ 中国象棋と西洋将棋(チェス)には系統上の関係がある
○ 象棋は中国人の創案したものではなく、インド将棋(チャツランガ)の子孫である
○ 中国象棋と西洋将棋との関係は、父子の関係ではなく、兄弟のような間接的関係である
3.日本の将棋
露伴の記述は、まず将棋・象戯・象棋という名称から始まります。中国では「象戯」「象棋」と呼ばれており、日本での呼び名「将棋」は用いられていません。我が国において「象戯」の字には全く和訓(訓読み)が無く、あるのは音読みだけです。象戯の起源は不明で、村上天皇治下の9世紀に源順が編纂した漢和辞典の『和名類聚鈔』には投壺、打毬、蹴鞠、圍碁、樗蒲、八道行成などなど様々の雑芸類が記されていますが、象戯は載っていません。しかも、掲載された雑芸類は、投壺は「つぼうち」、打毬は「まりうち」、蹴鞠は「まりこゆ」、樗蒲は「かりうち」、八道行成は「やさすかり」と和訓が記されています。『和名鈔』には象戯も象棋も将棋も記されていないが、その後も象戯などが訓読みされることはありませんでした。
ここから露伴は、我が国の将棋はおそらく最初から日本人が考案して造り出されたものではなく、中国・琉球・朝鮮などから伝えられたものではないかと考えました[10]。
我が国の文献中で将棋に言及した出典例として『将棋雑考』が挙げているのは、12世紀、左大臣藤原頼長(1120〜56)の日記『台記』の康治元(1142)年9月12日の次のような記事です[11]。
「参院、於御前、與師仲朝臣指大将碁、余負」
(崇徳院に参上し、御前で源師仲と大将棊を指す。余の負け)
しかし『台記』のこの記事は、我が国で将棋に言及した最古の記録ではありません。最古の記事は、それよりかなり前の11世紀に藤原明衡の著した『新猿楽記』の中に見られるものです。そこでは様々の芸能に秀でた人物が紹介されており、彼の得意とする諸芸として、囲碁・雙六・弾棊などと並んで「将棊」が挙げられています。実は将棋が『新猿楽記』の中で言及されていることは、すでに江戸文政期の『嬉遊笑覧』の四之巻で述べられています(岩波文庫版『嬉遊笑覧(二)』383頁)。該博な露伴先生がこれをご存知なかったとは思えないので、これもたいへん意外に思えます。また、『嬉遊笑覧』には書かれていませんが、他に『台記』の記事の13年前にも、源師時の『長秋記』の大治四(1129)年5月20日の条に、鳥羽院が将棋の駒を用いて覆物の占いをさせたという記事があります。もし露伴が、『新猿楽記』と『長秋記』の記事の方が先行しているのを知りながら、これらを挙げず『台記』の記事を紹介した理由があるとすれば、大将棊を指した記事だったからなのかもしれません。実際『台記』の紹介の次に、露伴は藤原定家の日記『明月記』の中の将棋記事から大将棋に言及したと思われるものを紹介しています。平安末期から鎌倉初期に大型将棋が指されていたということから、露伴は、より単純な小型将棋がそれ以前から興じられていたことを示唆したかったのかもしれません。
室町時代までに考案された各種の大型将棋類を紹介した後で、露伴は現行の将棋について、
「今の普通に行はるる将棋は其初めて世に伝はりし時明らかならず。人多くは謂へらく、今の将棋は中将棋より出で、中将棋は大将棋より出づと。然れども決して其確証あるにあらず…(中略)、…予は今の将棋の伝来の必ずしも大将棋中将棋棋の後にあらざるべきを想ふものなり。然れども是亦一家の推測のみ、須らく証を拳ぐるを得るの日を待つべき也。ただ予が推測の順序を拳ぐ…」と述べたあと、日本将棋の伝来に関して以下の7つの要点を「臆説」として掲げています。
○ 我が国の将棋は、中国から直接或は間接に伝来したものといわざるを得ない
○ 大将棋などの煩雑な将棋類は、中国人の創作にしては駒の名称が雅びを欠くのではないかと疑われる。従って中国ではなく我が国で成立したものではないかと考えられる
○ 古い時代の書物の中に「大将棋」「中将棋」などと大中等の字を冠する将棋が見えるのは、当時別の将棋があったことを示すものではないかと考えられる
○ 現行将棋の駒のうち、歩兵、香車、桂馬はその呼び名が中国象棋の兵、車、馬と一致し、その位置も巧みに一致している。銀将はその実体が象棋の象、金将は士と同様である。つまり現行の将棋は中国象棋に近い
○ 現行将棋の駒は「取り棄て」ではなくはなはだ中国象棋とは異なっている。だがこれは、後奈良天皇が改めたためであるという口碑がある。二つの将棋類は、初めはそれほど遠くなかったが、その頃にこの違いは生じたとも考えられる
○ 現行の象棋は『玄怪録』が暗示する唐の象戯とやや相違点があり、むしろ我が国の現行将棋の方が玄怪録の文に相当するものがある。例えば「天馬斜飛度三彊」とは桂馬の如く、「上将横行撃四方」とは飛車の如く、「輜車直入無廻翔」とは香車の動きに近いように思える
○ 唐と日本の交通は頻繁で、弾棊のように後に中国人が遊び方も理解できなくなった遊戯も唐から日本に伝えられていた。象戯も唐から伝来していないとは言えないはずである
以上露伴の日本将棋起源説は、中国からの将棋伝来説だといってよいでしょう。しかし、江戸期までに語られた説とは異なり、広い漢学の素養に基くものでした。
上記7つの箇条書きのうち、特に筆者の関心を引くのは、唐代の『玄怪録』の示す駒の動きが日本将棋に近いことを述べた第6のくだりです。日本の香車と桂馬の動きは、世界各国の戦車(ルーク)や騎士(ナイト)に比べ4分の1しか利きがありません。非常に弱い駒になっており、それが日本将棋の特異性を示しています。唐代の象棋(象戯)の馬や車が現行のような強い動きではなくもっと弱い動きであって、それが我が国に伝えられたのだとすれば、香車や桂馬の動きの弱さを説明できる一つの仮説になり得るのではないかと思われます。
ここまで露伴の『将棋雑考』の内容を粗述しましたが、ここに述べられた西洋将棋・中国将棋の歴史の概略は、現在通説とされていることと多くの部分で重なり合うように思えます。この書が120年前の1900年に執筆されたことは驚くべきことだと考える人も多いでしょう。もしこの『将棋雑考』が当時の東洋史・西洋史の学者たちに注目されていれば、チェス・象棋・将棋などの歴史が文化史の一分野として継続的に研究されていた可能性があったのではないかと惜しまれてなりません。もちろん1900年執筆という制約があることは否定できません。例えば元々平安後期の日本には小型と大型の二種類の将棋があったことを知るためには、『二中歴』の中の「第十三・博棊歴」という記事が必須の史料とされていますが、露伴は『将棋雑考』執筆の時点でこれを目にすることはできませんでした。前田公爵家に所蔵されていた『二中歴』を、初めて将棋の重要文献として紹介したのは、露伴よりも15歳年少の言語学者・金田一京助(1882〜1971)でした。彼は1910年に三省堂から刊行された『日本百科大辞典』の「将棋」の項を執筆する際に前田家の『二中歴』の写本に直接当ってその内容を把握していました。
30年近く後の1938年になって、露伴も前田家の『二中歴』を自分の目で見ることができました。彼は読売新聞に「将棋、一つの文献として鎌倉期以前に存す」という記事を発表しました。この記事は、後に『象戯余談』として著書に収録され、現在露伴全集で読むことができます。露伴のこの文章を読んだ将棋史研究家の越智信義氏は、「若き日、『将棋雑考』著述のなかで積みのこした「考証への懸案」を、七十歳にして、『二中歴』のなかに見出す。生涯勉強に徹する露伴の会心の発見であったろう」[12]と讃えています。筆者も越智氏に深く共感を表明したいと思います。
次回は露伴編の最終回です。当コラムの本題「露伴と将棋駒」を述べたいと思っています。
[1] 文語体で書かれた『将棋雑考』の口語「自由訳」を試みたのが、露伴の助手を務、露伴全集や幸田文全集を手掛けた塩谷賛(1916〜77)の『露伴と遊び』(創樹社、1972年刊)です。絶版で書店では入手が困難ですが、青森県内では弘前市立図書館で所蔵されています。
[2] 越智信義『将棋の博物誌』(三一書房、1995年刊)、91頁。
[3] 興味のある方は、『露伴全集第19巻』 (岩波書店、1979年刊)4〜5頁をご参照下さい。
[4] この説は「コックス・フォーブス理論」と呼ばれ、以下のように定式化されました。
(1) インドでは何千年も前から、「チャトゥランガ」即ちサイコロを用いた四人チェスが遊ばれていた。
(2) 長い時の経過と共に、二人で遊ぶ方式や、サイコロなしで遊ぶ方式が試みられた。
(3) そして駒の配置が見直され、サイコロなしで二人で遊ぶ新しいチェスが生まれた。
(4) この二人制のチェスが6世紀以降にペルシアやムスリムに伝播するようになった。
[5] 『露伴全集第19巻』5〜6頁を参照下さい。
[6] 『露伴全集第19巻』6〜7頁に次のような記述があります。
「西暦一千八百七十四年フォン・デル・リンデ氏は其精力を尽くしたる著書『将棋の歴史及び文学』を伯林において発刊し、将棋の起源を論じたる種々の説の大抵荒唐無稽なることを云へり。氏の説も又この技は印度より出でて波斯に伝はれるとするものなるが、フォルベス氏の勤労して立てたる「チャツランガ」説は、氏の為に顔色を失するに至れり。氏曰く、「チャツランガ」といふ語は印度の古詩人等に軍隊の称として用ゐられたことは之あり、遊技の名として用ゐられたることは絶えてなし、真の印度の古典籍に将棋の事の見えざるは梵典を学べるものの皆共に認知するところにして、彼の「プラナス」の如きは從前上古の書として信受されたれども、近来の研究に藉りてその耶蘇紀元第十世紀より以上のものたらざるは明白なり、かつ又「ブハイシャ・プラーナ」の謄本の英国博物館及び独国図書館に蔵せらるるものには、フォルベス氏の引証したる記事の条無く、偶々氏が引きたるところのものに相当するべき記事は、西暦一千八百七十二年ヱベック氏の訳せし印度の書「ラグナンダナ」に見ゆといえども、「ラグナンダナ」は、ピュレル氏の意見に拠れば耶蘇紀元第十六世紀のものにして、今は距るなお未だ遠からざるものなりと。」。
[7] 20世紀では四人制起源説と二人制起源説が並び立ち、四人制説の方が優勢だった時期もあったようですが、世紀末頃から21世紀初頭になってからは、二人制説の方が研究者の多数の支持を得るようになっています。この点について興味をお持ちの方は、増川宏一『チェス』(法政大学出版局、2003年刊)をご覧下さい。
[8] 『露伴全集第19巻』9〜14頁を参照されたい。
[9] 「今、荘嶽委譚の録するところに從つてその文を挙ぐ。曰く、宝応元年汝南岑順、夢一人被甲報曰、金象将軍與天那賊会戰、順明燭以観之、夜半後東壁鼠穴化為城門、有両軍列陣相対、部伍既定、軍師進曰、天馬斜飛度三彊、上將行撃四方、輜車直入無廻翔、六甲次第不乖行、於是鼓之、両軍倶有馬、斜去三尺止、又鼓之、各有一歩卒、行一尺、又鼓之、車進、須臾砲石乱下、云々、後家人覚其顔色惨憔悴、因発掘東壁、乃古塚有象戯局、車馬具焉。」(いま『荘嶽委譚』(明の文人・胡応麟の著書)により述べよう。宝応元年汝南の岑順という者が寝ていると、夢の中に鎧を着けた男が現れて、金象将軍が天那の賊らと会戦中だと伝えてきた。岑順は、燭を明るくして観戦することにした。夜半になって、東の壁に在った鼠の穴が城門に変わり、両軍が陣を組んで相対し、部隊が定まった。すると軍師が進み出て云った、「天馬は斜めに三つとび越えよ。上将は横に進み四方を撃て。輜車(荷車)は直進して引き返すな。六軍は順序を乱すな」と。太鼓が鳴ると両軍ともに馬が出て斜めに三尺行って止まった。また太鼓が鳴って歩卒が一尺横に行った。また太鼓が鳴って車が進み、。暫くして砲石が乱れ飛んだ、云々。後に家人は、岑順の顔色がひどく憔悴してきたのに気づき、東の壁を打ち毀すと、そこには古い塚があり、中からは車馬などの駒を備えた象戯盤が見つかった。)『露伴全集第19巻』23〜24頁
『玄怪録』の中の怪奇譚「岑順」は現在失われています。そこで露伴は、かなり後の16世紀後半の書『荘嶽委譚』を元に紹介していますが、簡略化が過ぎるようです。実はこの物語はほぼ全編が北宋時代の『太平広記』(978年)に収録されています。博識の露伴先生にしてこれをご存知なかったというのは意外や意外といった感があります。それはともかく、『太平広記』所収の「岑順」は、中国学者の伊東倫厚氏によって全文が和訳され1986年『将棋ジャーナル』誌に発表されています。この雑誌は廃刊になってしまいましたが、伊東訳の「岑順」の物語は、棋士の木村義徳九段の書かれた『持駒使用の謎 日本将棋の起源』(2001年、日本将棋連盟刊)の50頁以下に収められており、私たちは今でもこれを読むことができます。関心を持たれた方は一読をお勧めします。
[10] 「象戲の二字に和訓全く無くして音を以て今も呼ぶに照らし考ふれば、我邦の象戲もまた本土の人の想像に出でずして、支那の象戲をば支那若くは琉球、朝鮮等より傳へしか、或は支那の象戲に本づきて邦人自ら別に新意を出し之を造りしならんも、今遽に之を知る能はず。…(中略)…我邦の將棋は那邦よりか齎らされたるものとせざるべからず、然らずんば支那象戲に本づきて邦人之を造れりとせざるべからず。
(象戯の二文字には訓読みは全く無く今でも音読みだけである。これに照らして考えれば、象戯も我が国の人々が思い付いて生まれたものではなく、中国、琉球、朝鮮などから伝えられたものか、或いは中国象戯を元にして邦人が新たに加工したものかいずれかにならざるを得ない。)」(『露伴全集第19巻』38頁)
[11] 我が国の文献で将棋に言及した最古の記事は、11世紀の藤原明衡作の『新猿楽記』の中に見られるものです。そこでは様々の芸能に秀でた柿本恒之という者が紹介されており、その得意とする諸芸として、囲碁・雙六・弾棊などと並んで「将棊」が挙げられています。(実は将棋の記事がすでに『新猿楽記』の中にあることは、江戸文政期の『嬉遊笑覧』で述べられており、露伴先生がご存知なかったとは思えないのでたいへん意外です)
また頼長の『台記』の記事の13年前にも、源師時の『長秋記』の大治四(1129)年5月20日の条にも、鳥羽院が将棋の駒を用いて覆物の占いをさせたという記事が見られます。
[12] 越智信義『将棋の博物誌』(三一書房、1995年刊) 92頁。
編集 阿部浩昭