嘉瀬松雄物語

 奈良岡さんに書いていただいたものをまとめました。

嘉瀬松雄物語1

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2002/12/13 13:51:20

 少年は毎週土、日、黒石からバスで青森道場へ通ってきた。中学生で将棋を覚え、ごく短い時間で近所には対等に指せる相手が居なくなった。腕には少し自信が有った。ところがどうだ。青森道場で初めて指した相手には、二枚落ちでもまるで歯がたたない。それどころか悠然とパイプをくわえ、まるでこちらの指し手を楽しんでいるかのような余裕さえ感じられる。後で教えてもらったが、県連会長となり現役は引退したものの、その強さは神格化されている林和郎先生だったのだ。
 若鷲のような少年の目は、打ちひしがれるどころか輝きを増していた。将棋とはこんなにも奥深いものだったのか。よし、まずはこの先生を目標に修行してみよう。周囲の人は笑ったが、のちにこの目標設定がだいそれたものでなかったことは、嘉瀬五段自身が証明している。そしてまた、初見でその資質を見抜いたのは林先生ただ一人であった。このときから、まず駒落ちで二人の稽古がはじまったのである。

嘉瀬松雄物語2

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2002/12/22 18:24:55

 すべてが終わったとき、少年はあふれる涙をこらえきれなかった。林先生に入門してから3年の月日が経っていた。1年で、誰も少年には駒を引けなくなった。2年で青森道場の強豪連も、持て余すようになった。そして、本格的に将棋を初めて3年、高校二年生で嘉瀬松雄は青森県代表に選ばれ、東北六県大会に出場したのである。こうしてみると、昔から若くて強い人は頭角を現すのが早かったといえるだろう。
 初陣で嘉瀬は、自分の力を天下に示すつもりでいた。しかし、県代表というのはこんなにも強いものだったのか。まったく自分の将棋を指させてもらえなかった。1勝4敗の惨敗に終わった。
 この苦い経験が、後の嘉瀬将棋を作る基盤となった。いま考えるとたしかに気負いはあった。しかしやはり、絶対的に技術が足りなかった。田舎の県代表ではだめだ。全国と対等に戦える力を身につけなくては。東京の大学に進学し、嘉瀬は偶然にも学生棋界以外で自分を最も磨いてくれる環境を手に入れたのである。

嘉瀬松雄物語3

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2002/12/28 21:07:48

 東京の大学に入った嘉瀬は、神奈川に住まいを決めた。青森と違いたくさんある将棋道場の中で嘉瀬がたまたま行ったのは、荒稽古で全国的に名を知られた道場だった。まるで、水を得た魚のようだった。嘉瀬はその道場へ足繁く通ったーというより、ほとんど住み込むような状態になった。奨励会員や将棋を生活の中心とする人たちと、「真剣な」稽古を繰り返した。夜を徹することもしばしばだった。しばらくして嘉瀬は、全国でも最激戦区の神奈川でアマ名人戦の県代表となった。
 大学を終えて青森に帰った嘉瀬は、農業関連団体に就職した。当時、18歳で県名人となった北畠悟、仕事の都合で10年以上将棋からはなれたものの見事な復活を遂げた渡辺三郎が県内最強と目されていた。嘉瀬の参戦で長い3強時代が始まった。不思議なことに、3強の活躍の場は棲み分けができていた。県タイトル戦では渡辺、東北六県大会は北畠、全国大会は嘉瀬がそれぞれの土俵だった。あとで説明するが、これは個々の将棋に対する姿勢の違いが現れたと思われる。全国大会で勝てる青森県代表は嘉瀬一人だった。朝日アマ3位、アマ王将戦ベスト4、アマ名人戦ベスト8。嘉瀬は全国を射程圏内に入れたと思った。
 ある年の朝日アマ全国大会の時のことである。1回戦でアマ名人経験者の菱田正泰を倒した直後、妙な若者が後ろでつぶやいた。「ふーん、けっこうやるじゃないか」。無礼なやつだ。見るとサンダルばきで浮浪児のような風体をしている。大学生だろうか。このときはさすがの嘉瀬も、この生意気な若者とあんなにも深いつきあいになるとは予想だにしなかった。

嘉瀬松雄物語4

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2002/12/30 14:09:31

 渡辺三郎は高校の頃、奨励界入りを夢見て東京を訪れたことがあるという。つてを頼って、同年代の少年と試験将棋のようなことをした。いま思えば、佐伯昌優八段がその相手だったのではないかとのことだった。まったく歯が立たなかった。さらには、天才加藤一二三の雷名も鳴り響いていた。東京には、こんな怪物が何人も居るのか。謙遜混じりの本人の言葉を借りると「びっくりして青森に逃げ帰って来た」。それからは、仕事の都合で将棋の時間が取れなくなった時期もあり、知人と始めた会社の役員、社長業が忙しくてとても全国を目指す環境ではなくなった。それでも県内第1人者の座は譲る訳にはいかず、大会主催新聞社と特別に親しいことも有って、県タイトルはとり続けた。
 北畠悟に、全国を本気で目指すつもりはないのかと、若い頃聞いたことがある。返答は「何か一つ犠牲にしなくてはいけないからなあ」。すぐに解った。何か一つとは、仕事や家庭、心身の健康など。北畠はよき社会人であり、家庭人でもある。アマチュア棋士のあるべき一つの姿と言えよう。責任感の強い北畠は、東北六県大会で本県を押し上げる道を選んだ。東北大会でエースと言えるのは北畠一人で、本県は上位が多かったが、もう1枚エースが居たら優勝回数は増えたものと思われる。
 嘉瀬は一人、全国で戦い続けた。しかし半面、県内の大会ではいらだちを感じることが多くなった。情報が少ない時代の嘉瀬の全国大会からもたらされる情報は貴重なはずだった。将棋に対して真摯な嘉瀬は、惜しみなくその情報を県内に伝えようとした。だが、当時の県内棋士のタイプはほとんど2つに含まれていた。それは、嘉瀬の棋力に対する盲信と、自分の棋力に対する盲信。前者は、嘉瀬の悪手に対しても知ったげにうなずく。後者は、貴重な情報の意味も分からず否定する。県大会の決勝も戦ったことが無いような人間が「それは、違うのではないか。私はこう思う」。思うのなら、盤上で表現するのが将棋指しだろうに。県内には自分を磨いてくれる相手は育たないのではないか。嘉瀬はしだいに孤独感を覚え、酒量が多くなっていった。
 ある日、対等に指せる相手もなく青森道場の盤に向かっていると、見覚えのある若者が入って来た。周囲の人が「奈良岡君夏休みなの」と言うより早く嘉瀬を見つけた若者は「おっ、ちょうどいいところに来た」と、盤の前に座った。「教えていただけますか」。嘉瀬は、久々にこの言葉を聞いたような気がした。若者は将棋盤を前にするとちゃらんぽらんな調子は消え、射るような目つきになった。対局は始まった。

嘉瀬松雄物語5

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2003/01/03 14:16:10

 青森道場に、しばらくぶりに勝負の緊張感が漂った。二人とも、戦いながら同じ事を感じたと言う。「ほう、思ったより強いじゃないか」。1勝1敗で嘉瀬は矛を収めた。「今日はこれくらいにしておくか」。若者はいくらでも指したそうだったが、何も言わず盤から離れた。
 再戦の機会はすぐに来た。それは酒場だった。初めは妙な話だなと、と思った。医師で現県連副会長の村上誠一先生から、指してもらいたい人が居るとのことだった。まあ、酒をごちそうになるのは悪くない話だし、県内で将棋で負ける気遣いはない。ちょっと指してみようか。
 相手も同じ話を聞いて来たようだった。なんとあの若者ではないか。顔を合わせたとたん、二人は笑い出した。村上先生は「あれ、知り合いだったの?」と、不思議そうだった。
 若者は、中央大学の将棋部員ということだった。嘉瀬は学生棋界のことはほとんど知らない。それよりも、飲み方のほうにあきれた。当時高級品だったスコッチウィスキーを、「味が薄くなるのはもったいないから」などと言って、ストレートでグビグビ飲む。遠慮のかけらもなかった。これでまともな将棋が指せるのだろうか。あっけにとられながら駒を動かしてみたが、思いがけず3連敗を喫した。見物人は嘉瀬が将棋を3局も負けるのを見たことがないと驚いていたが、酒を飲みながらの勝敗など2人にはどうでもいいことだった。面白いヤツだ。嘉瀬は自分と近い無頼派の雰囲気をこの若者に感じ、夏、冬の休みに帰省するたびに将棋を指し、連れだって夜の町を歩くようになった。ほとんどは、社会人の嘉瀬の支払いだった。盤上の決着は、いずれ県大会でつける日が来るはずだ。

嘉瀬松雄物語6

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2003/01/09 19:41:52

 嘉瀬とは、酒場でいろんな話をした。もちろん将棋の話ばかりだが。あるとき、嘉瀬は自分の将棋観をたとえてこう語った。「柿の実がおいしそうに熟して欲しいと思ったとする。おまえならどういう方法をとる?」
 これはいろいろ考えられる。竜王戦で全国ベスト16まで勝ち進んだ鈴木和義だと、鎖がまなどの飛び道具を使う。てっとり早いが確率は悪い。北畠なら幹ごと斧で切りたおす。普通の人には大変な労力だが、北畠の豪腕だと汗もかかないだろう。奈良岡は、だれでも取りやすいようにはしごをかける・・・と書いたら格好つけすぎだろうか。この話は一度新聞に書いた。
 嘉瀬は「じっと待つ」というのである。「だってそうだろ。熟した柿の実なら落ちて来るのは分かり切ってるじゃないか。じっと待っているだけで欲しいものは手に入る」
 木にたとえては、こんな話もした。「木は実を付け、次第にその実は地面に落ちる。でもたった一つだけてっぺんの実だけは残る。なぜか分かるか」
奈「鳥さんにあげるため?」
嘉瀬「木は、病気や日照りなど、どうしても養分が足りなくなった時のために、一つだけ実を残しておくんだ。そして危なくなったときその養分を使う。実一つの余裕を残すかどうかで本体の生死が決まる」念のためおことわりしておくが、植物学ではなく将棋観をたとえて言ってる話である。
 野球にたとえると、5回にはいって0−5のビハインド。最初のランナーが1塁に生きた。どのような作戦をとるか。これも私の性格だとヒットエンドランとかいちかばちかになるが、嘉瀬はバントなのだという。あと失点さえしなければ1点ずつ返していけば追いつける。追いつかれた相手はプレッシャーで自滅する。以上が嘉瀬の将棋観だ。次は最終回。

嘉瀬松雄物語最終回

投稿者:奈良岡 実 投稿日:2003/01/13 13:21:04

 もし青森県に、嘉瀬松雄が出現しなかったらどうなっていただろう。北畠は、香一本くらい下の棋力でとどまったかも知れない。嘉瀬と互角に戦えるまで北畠が要した努力は、並大抵ではないはずだ。それなら渡辺三郎も、棋力の維持・向上にそれほど努めなくても県棋界の第1人者の地位は保たれ、その下は群雄割拠、はっきり言えば、どんぐりのせいくらべという青森県棋界になったと思う。そんなレベルの低い所からは、有望な若手も育ちにくい。
 嘉瀬は、北畠が居ようが、渡辺が引退しようが、嘉瀬松雄で有り続ける人間だ。その全国への想いは、将棋の道を志してからいささかも衰えることは無い。平成12年11月、青森県代表として全国赤旗名人戦に出場した嘉瀬は、ベスト4まで勝ち進んでいる。準決勝で嘉瀬を破った木村秀利は、そのまま優勝し、赤旗名人としてプロ新人王戦に出場権を得た。あと2勝。その2勝は、果てしなく遠い。
 平成14年12月。第3回青森県グランドチャンピオン戦開始前。嘉瀬は思わずつぶやいた。「ああ、往年の芸を見せてやりたいんだけどなあ」。常に自分は最強者であると言い続けた嘉瀬の、珍しく口に出した弱気だった。
 嘉瀬は、生まれる時代が早すぎたのかも知れない。自分の棋力を磨いてくれる相手にもっと恵まれていたら。昔の県棋界が、嘉瀬の芸を理解できるレベルにあったなら。そして何より、全盛時代に全国大会のチャンスが年に10回近くも有ったなら。嘉瀬の将棋人生はもっと充実したものになっていたに違いない。「終」

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