将棋駒ものがたり

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城下町弘前支部会員 将棋駒愛好者 弘山(こうざん)

         

将棋駒ものがたり(その14)幸田露伴と将棋(その2)日本初の将棋史研究・『将棋雑考』

            

 前回述べたように、幸田露伴は、新婚時代に将棋に熱中しすぎたため妻から諫められて、将棋の勝負から一歩退いたと述べています。しかし、やがて将棋への関心を取り戻すと共に、この面白い盤上ゲームの来歴に興味を覚え、将棋史を研究したいと考えるようになったのかもしれません。
 明治三十三年(1900)露伴は、雑誌『太陽』に将棋の発祥と伝播をテーマとした『将棋雑考』を発表しました。この考察以前に、このテーマに言及した文献はきわめて少なく、例外的な事例として、江戸期の『人倫訓蒙図彙』(1690)や『本朝俗諺志』(1747)で、天平時代に吉備真備が唐から日本に将棋を伝えたと述べた記事や、『象棋六種之図式』(元禄期以後とされている)で宋に遊学した僧侶が伝えたという説があると述べた記事などがありますが、いずれもごく簡単に紹介する程度の文言に過ぎません。
 これに対して露伴の『将棋雑考』は、将棋史に関する我が国初の本格的な論考とされています。露伴全集の第19(「考証」)に収められており、現在も読むことができます。 
 『雑考』は、全集では47頁を占めています。そのうち14頁が西洋将棋(チェス)の歴史、18頁が支那将棋(中国の将棋・象棋)の歴史、5頁が両者の歴史の比較に充てられており、ここまでが東西の将棋史に関する論考です。これに比べて日本将棋を論じた部分は僅か10頁足らずで、内容的にやや物足りない印象を持つ方も多いのではないでしょうか。それは将棋史研究の先人が皆無に近く、博学の露伴先生にとっても、信頼できる文献がなかなか見当たらなかったのかもしれません。
 なお『将棋雑考』は、明治の文語体で書かれ、格調高いことは感じられますが、現代の我々にはかなり読みづらい文章です。そこで筆者は、本稿で露伴の原文をできるだけ現代に近い形に読み替えて理解しようとしました[]
 もちろん自分の理解には多々誤りが含まれているのではないかと思います。そこでこの雑文をお読みの諸賢へ、誤りがあればどうかご教示下さいますよう、お願い申し上げます。
 なお、世界の将棋の歴史については当コラムもこれまで「番外編」の形で色々と述べてきました(西洋将棋(チェス)については「番外編2」で、中国の象棋(シャンチー)については「番外編3」で、古代インドの将棋については「番外編4」で述べました)。また現行将棋成立以前と見られる小型の将棋と大型の将棋に関する『将棋雑考』の内容を理解するためには、「番外編1」(「中将棋と大将棋の駒について」)も役立つかもしれません。関心をお持ちの方はご覧いただければ幸いです。

1.西洋の将棋
 さて、西洋将棋(チェス)に関する知識は、明治政府による欧化政策の一事業として刊行が進められた百科事典によって一般にも知られるようになっていました。その分冊として「室内遊戯(Indoor Amusement)」を扱った『百科全書 戸内遊戯方』(1879)が和訳・出版され、その中でチェスは「象棋」として紹介されています。
 チェス(象棋)の起源と伝播についても、
 「初メ二千年前、温都斯坦(ヒンドスタン)ニ於テ用ヰラレシコト有リ。…然ル後波斯(ペルシャ)ニ伝播シ、其後…亞喇伯(アラビア)人及モールニ伝リ、又モール人ヨリ西班牙(スペイン)ニ伝フ」、さらにその名称が
 「チャタランガ」(インド) → 「チャトラング」(ペルシア) → 「シヱトランジ」(アラビア)
と変化していった、と述べられています。一般に露伴は『将棋雑考』を執筆するに当たって、西洋の百科事典(『エンサイクロペディア・ブリタニカ』と思われます)の中の「チェス」の項の記載内容を参考にしたと言われています[]。しかし、将棋好きの露伴が上述の『戸内遊戯方』を読んだ可能性も十分あり、それが将棋の歴史への興味を持つきっかけになったのかもしれません。
 また、後に述べますが、彼はこれら事典類からさらに進んで、直接西欧の最新学説にも当たってチェスの歴史的起源を探ったとも言われています。
 『雑考』の中で、露伴はまず、チェスの起源をバビロニア、エジプト、ギリシア、ローマなどの古代文明に求める説や、古代中国に求める説があることを紹介した上で、これらの説に否定的な立場を表明しています。そして、19世紀後半までに西欧の学者が発表した研究に基づいて、
 チェスの起源はインドに発するという「インド起源説」が最も有力である
と考えています。それは以下のような内容の学説です。
○チェスの最古の原型はインドの将棋・「チャツランガ(チャトゥランガ)」である
○チャツランガとは、インドでは象・馬・車・卒という四つの軍事編成のことである
○チャツランガは、これら四軍を表す駒を用いて勝負を争うゲームを指すようになった
○チャツランガは、6世紀頃にペルシアに入り「チャトラング」と呼ばれ、7世紀にアラビア人の間に流行し「シャトランジ」となった[]
○経路は不明だが、1011世紀頃にヨーロッパに伝播した
 そして現在の我々にとって驚くべきことですが、『将棋雑考』では、このインドの「チャツランガ」の最古の形態について、19世紀後半当時に最新とされた二つの学説が紹介されています。

      


 一つは、最古の将棋の形態が、サイコロを用いて四人で遊ぶ「フォアハンデッド・ゲーム(四人制のサイコロ将棋)」だったという説です。この四人制将棋とは、18世紀後半に英国人インド学者ウィリアム・ジョーンズ卿(174690)が発見したベンガル地方の遊びでした。ジョーンズ卿ご本人は、将棋はインドでも最初から二人で遊ばれており、四人制将棋は、二人で遊ぶ将棋がペルシアに伝えられた後に、新たに興じられるようになったゲームだと考えていました。しかし、その後英国からビルマやベンガル地方に活動した将校のハイラム・コックス(176099)は、ジョーンズ卿の発見した四人制将棋こそが二人制将棋の祖先であるという説を唱えました。そして、この説を採用したのがロンドン大学教授のダンカン・フォーブス (17981868)です。こうして、「コックス・フォーブス説」[]19世紀後半に一時期チェスの始原に関する定説とされるようになりました[]
 だが残念ながら、コックス・フォーブス説の権威は長くは続きませんでした。1874年に、インドやペルシア文献の調査を丹念に進めたオランダの碩学ヴァン・デア・リンデ(183397)は、四人制将棋について述べた梵語文献がそれほど古い時代に書かれたものではないことを明らかにして、上述の「四人制将棋起源説」は全く根拠がないと痛烈に批判しました[]
 ヴァン・デア・リンデの研究は、この『将棋雑考』が書かれる約20年前に発表されたものです。それから150年経ちますが、チェスの起源は二人制将棋なのか、四人制将棋なのかという論争は今日に至っても完全には決着していません[]。今から120年前のこの時点で、西欧の学者たちの最新の研究から学ぼうとする露伴の探究心に対して、筆者は深い感銘を覚えるものです。
 いずれにしても、チェスのインド起源説が最有力なのは確かです。チェスはインドからペルシア、アラビアを経てヨーロッパに伝播し、そこで改良されて大流行するようになりました[]

2.中国の将棋について
 露伴が西洋将棋の次に論じるのは、中国将棋(象棋)の歴史です。
 中国ではその起源を極端に古い時代にまで遡るような見方があります。しかし露伴は、漢学の確かな知識に基づいてこうした説を強く否定しています。
 例えば中国の古い言い伝えでは、約3000年前に周の武王が殷の紂王を討った時に象棋が造られたと語られることがありましたが、これは全く荒唐無稽な俗傳に過ぎません。
 また、戦国時代の古典の中には「象棋」という語が見られますが、この語は「象牙製のゲームの駒」という意味で、そのゲームは将棋とは全く無関係な遊びだとされています。
 6世紀に北周の武帝(543578)が『象経』を講じたことが歴史書に記録されています。中国では、これを根拠に、象棋の起源について「武帝が象戯或いは象棋を創成した」という説が唱えられるようになりました。しかし、武帝の講じたという『象経』は散逸しており、その実体は全く不明です。たとえ武帝が「象戯」という名のゲームを創ったと仮定しても、それが現行中国象棋のルーツだと言えるわけではありません。露伴は、象棋の武帝創造説にも「北周に淵源すとすべからず」と懐疑的な立場を示しています。
 ただし露伴は、武帝の時代に造られたという「象戯」が現行の象棋と全く種類の異なるゲームだとしても、その当時すでに象棋の原型となるような将棋類があったかもしれないという可能性を「無きにしも非ず」と認めているようです。
 それはさておき、現在の中国象棋の祖型に言及した最古の文献だと露伴が考えたのは、武帝から2世紀以上経った唐後期の宰相・牛僧孺(779847)作とされる怪奇小説『玄怪録』でした。この中には、小人たちの軍勢が戦争を繰り広げるという夢物語があります。この戦争で戦っている者として、「王」「金象」「軍師」「上将」「天馬」「輜車」「歩卒」などが挙げられています。これらの中には進撃の様子が現行象棋の駒(将・象・馬・車・卒など)の動きとの類似を思わせるものが幾つかあります。また物語の結末では、主人公が借りた家から象棋の盤駒が発掘され、毎夜見ていた戦争という悪夢の原因はこの盤駒だった[]ということが明らかになっています。
 もちろんこの物語そのものは全くのフィクションです。しかし、唐代の後期に或る種の将棋類が興じられていたことを示していることは確かです。ただし、その時代の将棋の盤駒やルールがどのようなものかは残念ながら不明です。
 このように唐代に興じられていた象棋の祖型と思われる将棋類が、その後の北宋時代になって改変・修正されました。その結果、現行象棋とは異なるものの類似した将棋類が何種類も作り出されています。例えば北宋時代の学者で政治家の司馬光(101986) や文人・晁無咎(10531100)などの造った大型の象戯類もその中に数えられます。そして露伴は、13世紀南宋の詩人劉克荘(11871269)の書き残した詩を紹介しています(『露伴全集1927頁以下)。そこでは、
 ○ 「象奕」は32個の駒で遊ばれていた
 ○ 砲・卒・象・車・馬・士・将の全七種の駒が言及されている
 ○ 盤は河界で二分されている 等々のことが述べられており、
 それまでに現れた様々の型の将棋類が淘汰され、現行象棋の原型がほぼ成立するところまで進んだことが分かります。中国の象棋は北宋時代の終わり頃までには確立した可能性が大きいと思われます。こうして露伴は、中国の象棋について以下のような結論に至りました(『露伴全集1930)
 ○ 象棋は宋の時代に現行と大差ない形で遊ばれていた
 ○ 現行象棋の先人と見るべき一種の象戯は唐の時代に行われていたと推定できる
 ○ 唐の少し前の時代にも象棋の先人たる象戯が遊ばれていた可能性が全くないとはいえない
 ○ さらに時代を遡って、象戯が中国古代にも存在していたという証拠は全く認められない
 さらに、『将棋雑考』では、西洋将棋と中国象棋を、駒の名称や性能・初期の配置などを比較しています。すると、意外なことに両者がかなり近似したゲームであることが分かります。露伴は、東西将棋類の歴史的関係について次のような考えを述べています (『露伴全集1937)
 ○ 中国象棋と西洋将棋(チェス)には系統上の関係がある
 ○ 象棋は中国人の創案したものではなく、インド将棋(チャツランガ)の子孫である
 ○ 中国象棋と西洋将棋との関係は、父子の関係ではなく、兄弟のような間接的関係である

3.日本の将棋
 露伴の記述は、まず将棋・象戯・象棋という名称から始まります。中国では「象戯」「象棋」と呼ばれており、日本での呼び名「将棋」は用いられていません。我が国において「象戯」の字には全く和訓(訓読み)が無く、あるのは音読みだけです。象戯の起源は不明で、村上天皇治下の9世紀に源順が編纂した漢和辞典の『和名類聚鈔』には投壺、打毬、蹴鞠、圍碁、樗蒲、八道行成などなど様々の雑芸類が記されていますが、象戯は載っていません。しかも、掲載された雑芸類は、投壺は「つぼうち」、打毬は「まりうち」、蹴鞠は「まりこゆ」、樗蒲は「かりうち」、八道行成は「やさすかり」と和訓が記されています。『和名鈔』には象戯も象棋も将棋も記されていないが、その後も象戯などが訓読みされることはありませんでした。
 ここから露伴は、我が国の将棋はおそらく最初から日本人が考案して造り出されたものではなく、中国・琉球・朝鮮などから伝えられたものではないかと考えました[10]
 我が国の文献中で将棋に言及した出典例として『将棋雑考』が挙げているのは、12世紀、左大臣藤原頼長(112056)の日記『台記』の康治元(1142)912日の次のような記事です[11]
「参院、於御前、與師仲朝臣指大将碁、余負」 
(崇徳院に参上し、御前で源師仲と大将棊を指す。余の負け)
 しかし『台記』のこの記事は、我が国で将棋に言及した最古の記録ではありません。最古の記事は、それよりかなり前の11世紀に藤原明衡の著した『新猿楽記』の中に見られるものです。そこでは様々の芸能に秀でた人物が紹介されており、彼の得意とする諸芸として、囲碁・雙六・弾棊などと並んで「将棊」が挙げられています。実は将棋が『新猿楽記』の中で言及されていることは、すでに江戸文政期の『嬉遊笑覧』の四之巻で述べられています(岩波文庫版『嬉遊笑覧()383)。該博な露伴先生がこれをご存知なかったとは思えないので、これもたいへん意外に思えます。また、『嬉遊笑覧』には書かれていませんが、他に『台記』の記事の13年前にも、源師時の『長秋記』の大治四(1129)520日の条に、鳥羽院が将棋の駒を用いて覆物の占いをさせたという記事があります。もし露伴が、『新猿楽記』と『長秋記』の記事の方が先行しているのを知りながら、これらを挙げず『台記』の記事を紹介した理由があるとすれば、大将棊を指した記事だったからなのかもしれません。実際『台記』の紹介の次に、露伴は藤原定家の日記『明月記』の中の将棋記事から大将棋に言及したと思われるものを紹介しています。平安末期から鎌倉初期に大型将棋が指されていたということから、露伴は、より単純な小型将棋がそれ以前から興じられていたことを示唆したかったのかもしれません。
 室町時代までに考案された各種の大型将棋類を紹介した後で、露伴は現行の将棋について、
「今の普通に行はるる将棋は其初めて世に伝はりし時明らかならず。人多くは謂へらく、今の将棋は中将棋より出で、中将棋は大将棋より出づと。然れども決して其確証あるにあらず…(中略)、…予は今の将棋の伝来の必ずしも大将棋中将棋棋の後にあらざるべきを想ふものなり。然れども是亦一家の推測のみ、須らく証を拳ぐるを得るの日を待つべき也。ただ予が推測の順序を拳ぐ…」と述べたあと、日本将棋の伝来に関して以下の7つの要点を「臆説」として掲げています。
  我が国の将棋は、中国から直接或は間接に伝来したものといわざるを得ない
  大将棋などの煩雑な将棋類は、中国人の創作にしては駒の名称が雅びを欠くのではないかと疑われる。従って中国ではなく我が国で成立したものではないかと考えられる
  古い時代の書物の中に「大将棋」「中将棋」などと大中等の字を冠する将棋が見えるのは、当時別の将棋があったことを示すものではないかと考えられる
  現行将棋の駒のうち、歩兵、香車、桂馬はその呼び名が中国象棋の兵、車、馬と一致し、その位置も巧みに一致している。銀将はその実体が象棋の象、金将は士と同様である。つまり現行の将棋は中国象棋に近い
  現行将棋の駒は「取り棄て」ではなくはなはだ中国象棋とは異なっている。だがこれは、後奈良天皇が改めたためであるという口碑がある。二つの将棋類は、初めはそれほど遠くなかったが、その頃にこの違いは生じたとも考えられる
  現行の象棋は『玄怪録』が暗示する唐の象戯とやや相違点があり、むしろ我が国の現行将棋の方が玄怪録の文に相当するものがある。例えば「天馬斜飛度三彊」とは桂馬の如く、「上将横行撃四方」とは飛車の如く、「輜車直入無廻翔」とは香車の動きに近いように思える
  唐と日本の交通は頻繁で、弾棊のように後に中国人が遊び方も理解できなくなった遊戯も唐から日本に伝えられていた。象戯も唐から伝来していないとは言えないはずである
 以上露伴の日本将棋起源説は、中国からの将棋伝来説だといってよいでしょう。しかし、江戸期までに語られた説とは異なり、広い漢学の素養に基くものでした。
 上記7つの箇条書きのうち、特に筆者の関心を引くのは、唐代の『玄怪録』の示す駒の動きが日本将棋に近いことを述べた第6のくだりです。日本の香車と桂馬の動きは、世界各国の戦車(ルーク)や騎士(ナイト)に比べ4分の1しか利きがありません。非常に弱い駒になっており、それが日本将棋の特異性を示しています。唐代の象棋(象戯)の馬や車が現行のような強い動きではなくもっと弱い動きであって、それが我が国に伝えられたのだとすれば、香車や桂馬の動きの弱さを説明できる一つの仮説になり得るのではないかと思われます。
 ここまで露伴の『将棋雑考』の内容を粗述しましたが、ここに述べられた西洋将棋・中国将棋の歴史の概略は、現在通説とされていることと多くの部分で重なり合うように思えます。この書が120年前の1900年に執筆されたことは驚くべきことだと考える人も多いでしょう。もしこの『将棋雑考』が当時の東洋史・西洋史の学者たちに注目されていれば、チェス・象棋・将棋などの歴史が文化史の一分野として継続的に研究されていた可能性があったのではないかと惜しまれてなりません。もちろん1900年執筆という制約があることは否定できません。例えば元々平安後期の日本には小型と大型の二種類の将棋があったことを知るためには、『二中歴』の中の「第十三・博棊歴」という記事が必須の史料とされていますが、露伴は『将棋雑考』執筆の時点でこれを目にすることはできませんでした。前田公爵家に所蔵されていた『二中歴』を、初めて将棋の重要文献として紹介したのは、露伴よりも15歳年少の言語学者・金田一京助(18821971)でした。彼は1910年に三省堂から刊行された『日本百科大辞典』の「将棋」の項を執筆する際に前田家の『二中歴』の写本に直接当ってその内容を把握していました。
 30年近く後の1938年になって、露伴も前田家の『二中歴』を自分の目で見ることができました。彼は読売新聞に「将棋、一つの文献として鎌倉期以前に存す」という記事を発表しました。この記事は、後に『象戯余談』として著書に収録され、現在露伴全集で読むことができます。露伴のこの文章を読んだ将棋史研究家の越智信義氏は、「若き日、『将棋雑考』著述のなかで積みのこした「考証への懸案」を、七十歳にして、『二中歴』のなかに見出す。生涯勉強に徹する露伴の会心の発見であったろう」[12]と讃えています。筆者も越智氏に深く共感を表明したいと思います。
 次回は露伴編の最終回です。当コラムの本題「露伴と将棋駒」を述べたいと思っています。


[] 文語体で書かれた『将棋雑考』の口語「自由訳」を試みたのが、露伴の助手を務、露伴全集や幸田文全集を手掛けた塩谷賛(191677)の『露伴と遊び』(創樹社、1972年刊)です。絶版で書店では入手が困難ですが、青森県内では弘前市立図書館で所蔵されています。

[] 越智信義『将棋の博物誌』(三一書房、1995年刊)91

[] 興味のある方は、『露伴全集第19巻』 (岩波書店、1979年刊)45頁をご参照下さい。

[] この説は「コックス・フォーブス理論」と呼ばれ、以下のように定式化されました。
 (1) インドでは何千年も前から、「チャトゥランガ」即ちサイコロを用いた四人チェスが遊ばれていた。
 (2) 長い時の経過と共に、二人で遊ぶ方式や、サイコロなしで遊ぶ方式が試みられた
 (3) そして駒の配置が見直され、サイコロなしで二人で遊ぶ新しいチェスが生まれた
 (4) この二人制のチェスが6世紀以降にペルシアやムスリムに伝播するようになった

[] 『露伴全集第19巻』56頁を参照下さい。

[] 『露伴全集第19巻』67頁に次のような記述があります。
西暦一千八百七十四年フォン・デル・リンデ氏は其精力を尽くしたる著書『将棋の歴史及び文学』を伯林において発刊し、将棋の起源を論じたる種々のの大抵荒唐無稽なることを云へり。氏のも又この技は印度より出でて波斯に伝はれるとするものなるが、フォルベス氏の勤労して立てたる「チャツランガ」説は、氏の為に顔色を失するに至れり。氏曰く、「チャツランガ」といふ語は印度の古詩人等に軍隊の称として用ゐられたことは之あり、遊技の名として用ゐられたることはえてなし、真の印度の古典籍に将棋の事の見えざるは梵典を学べるものの皆共に認知するところにして、彼の「プラナス」の如きは從前上古の書として信受されたれども、近来の研究に藉りてその耶蘇紀元第十世紀より以上のものたらざるは明白なり、かつ又「ブハイシャ・プラーナ」の謄本の英国博物館及び独国図書館に蔵せらるるものには、フォルベス氏の引証したる記事の条無く、偶々氏が引きたるところのものに相当するべき記事は、西暦一千八百七十二年ヱベック氏の訳せし印度の書「ラグナンダナ」に見ゆといえども、「ラグナンダナ」は、ピュレル氏の意見に拠れば耶蘇紀元第十六世紀のものにして、今は距るなお未だ遠からざるものなりと。」。

[] 20世紀では四人制起源説と二人制起源説が並び立ち、四人制説の方が優勢だった時期もあったようですが、世紀末頃から21世紀初頭になってからは、二人制説の方が研究者の多数の支持を得るようになっています。この点について興味をお持ちの方は、増川宏一『チェス』(法政大学出版局、2003年刊)をご覧下さい。

[] 『露伴全集第19巻』914頁を参照されたい。

[] 今、嶽委譚のするところに從つてその文をぐ。曰く、宝応元年汝南岑順、夢一人被甲報曰、金象将軍與天那賊戰、順明燭以之、夜半後東壁鼠穴化城門、有両軍列陣相、部伍既定、軍師進曰、天馬斜飛度三彊、上將行撃四方、輜車直入無廻翔、六甲次第不行、於是鼓之、有馬、斜去三尺止、又鼓之、各有一卒、行一尺、又鼓之、車進、須臾砲石下、云々、後家人惨憔悴、因掘東壁、乃古有象局、車馬具焉。(いま『荘嶽委譚』(明の文人・胡応麟の著書)により述べよう。宝応元年汝南岑順という者が寝ていると、夢の中に鎧を着けた男が現れて、金象将軍が天那の賊らと会戦中だと伝えてきた。岑順は、燭を明るくして観戦することにした。夜半になって、東の壁に在った鼠の穴が城門に変わり、両軍が陣を組んで相対し、部隊が定まった。すると軍師が進み出て云った、「天馬は斜めに三つとび越えよ。上将は横に進み四方を撃て。輜車(荷車)は直進して引き返すな。六軍は順序を乱すな」と。太鼓が鳴ると両軍ともに馬が出て斜めに三尺行って止まった。また太鼓が鳴って歩卒が一尺横に行った。また太鼓が鳴って車が進み、。暫くして砲石が乱れ飛んだ、云々。後に家人は、岑順の顔色がひどく憔悴してきたのに気づき、東の壁を打ち毀すと、そこには古い塚があり、中からは車馬などの駒を備えた象戯盤が見つかった。)『露伴全集第19巻』2324
 『玄怪録』の中の怪奇譚「岑順」は現在失われています。そこで露伴は、かなり後の16世紀後半の書『荘嶽委譚』を元に紹介していますが、簡略化が過ぎるようです。実はこの物語はほぼ全編が北宋時代の『太平広記』(978)に収録されています。博識の露伴先生にしてこれをご存知なかったというのは意外や意外といった感があります。それはともかく、『太平広記』所収の岑順」は、中国学者の伊東倫厚氏によって全文が和訳され1986年『将棋ジャーナル』誌に発表されています。この雑誌は廃刊になってしまいましたが、伊東訳の岑順」の物語は、棋士の木村義徳九段の書かれた『持駒使用の謎 日本将棋の起源』(2001年、日本将棋連盟刊)50頁以下に収められており、私たちは今でもこれを読むことができます。関心を持たれた方は一読をお勧めします。

[10] 象戲の二字に和訓全く無くして音を以て今も呼ぶに照らし考ふれば、我邦の象戲もまた本土の人の想像に出でずして、支那の象戲をば支那若くは琉球、朝鮮等より傳へしか、或は支那の象戲に本づきて邦人自ら別に新意を出し之を造りしならんも、今遽に之を知る能はず。(中略)我邦の將棋は那邦よりか齎らされたるものとせざるべからず、然らずんば支那象戲に本づきて邦人之を造れりとせざるべからず。
  (象戯の二文字には訓読みは全く無く今でも音読みだけである。これに照らして考えれば、象戯も我が国の人々が思い付いて生まれたものではなく、中国、琉球、朝鮮などから伝えられたものか、或いは中国象戯を元にして邦人が新たに加工したものかいずれかにならざるを得ない。)(『露伴全集第19巻』38)

[11] 我が国の文献で将棋に言及した最古の記事は、11世紀の藤原明衡作の『新猿楽記』の中に見られるものです。そこでは様々の芸能に秀でた柿本恒之という者が紹介されており、その得意とする諸芸として、囲碁・雙六・弾棊などと並んで「将棊」が挙げられています。(実は将棋の記事がすでに『新猿楽記』の中にあることは、江戸文政期の『嬉遊笑覧』で述べられており、露伴先生がご存知なかったとは思えないのでたいへん意外です)
 また頼長の『台記』の記事の13年前にも、源師時の『長秋記』の大治四(1129)520日の条にも、鳥羽院が将棋の駒を用いて覆物の占いをさせたという記事が見られます。

[12] 越智信義『将棋の博物誌』(三一書房、1995年刊) 92頁。

編集 阿部浩昭
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